「飼うなら最後まで」を個人からコミュニティへ | 高齢者とペットの共生に向けて
この5月から保護猫を飼い始めた。
役所で数少ない仲のいい先輩が動物愛護のセクションに異動となり、保護猫の多さや実情を知ったのがきっかけだ。
市のHPに掲載されている譲渡情報を家族で見て、実際に保健所へ行き、一匹の子猫を新しい家族として迎え入れた。
うちには二人の自閉症児がいる。11歳の次男と8歳の次女だ。二人とも話すことができない。新しい家族が加わったことで、そんな彼らにも変化が見られている。特に、次女より自閉症の程度が重い次男に、より顕著に変化が現れているように見える。
いつも一人で動画を見たり、ゲームをすることが多い次男が「タンタン」と遊ぶ。猫じゃらしのようなおもちゃを使って遊ぶ。なんなら、2時間ぐらい遊ぶ。今まで他者にそれほど関心を示してなったような次男には、親としても大きな変化を感じる。そして、タンタンも遊んでくれるからか、次男の近くにいるのが多い。次男にとっては、本当に家族の一員が増えた感じだ。
障がいの有無に関わらず、ペットが家族に加わる、共に日々を過ごすというのはいいものだなぁと、私自身も初めてペットを飼ってみて、感じている。
ご高齢の方にこそペットを
私たち家族は「タンタン」を迎え入れて、生活に喜びや潤いやポジティブな変化を手に入れた。これは、私たち家族に限った話ではないはずだ。例えば、お一人暮らしの高齢者の方がペットを飼われたら、すごくいいんじゃないだろうか。
「高齢者 ペット 効果」で検索してみると、いくつかのメリットが出てくる。
また、大学などでのいくつかの研究として、次のような研究結果も出されている。
耳にすることも多いと思うが、日本は少子高齢化が進んでいる。「団塊の世代」と呼ばれる、戦後のベビーブームによる人口が多い世代が、これから75歳を超え、80代90代へとなっていく。かたや、彼らを支える生産年齢人口は減っていく。
人口ボリュームの大きな団塊の世代が、80-90代へとなるにつれ、医療や介護の負担は必然的に高まる。誰が悪いという話では決してない。人は誰でも老い、医療や介護のケアを受けながら、最期を迎えていくものである。ただ、この国の人口構成の一つの特徴として、その「生老病死」の大きな波がこれから押し寄せてくるというだけだ。そして、それは、以前から分かっていたことである。
好むと好まざるとに関わらず、直視しようと目を背けようと、この大きな波はやってくる。というか、日々やって来ている。それを、「しょうがなく」ではなく、できれば面白がったり、楽しみながら、前向きにチャレンジしていきたいというのが、今45歳の私の(おそらく)ライフテーマだ。
世界に先駆けての高齢化による「多死社会」と人口減少の局面をどうよりよく迎えていくことができるか。今後やってくる、世界規模での人口減少へのポジティブな先例となれたらサイコーだ。
少し話がそれたが、こんな局面に私たちは今、生きてる。これからやってくる大きな波を、少ない人手で、でも本人も家族も地域も社会もよりよく生きていくためには、今までの延長線上のやり方だけでは足りない。
テクノロジーも、人々の意識やつながりももっともっと使い、高めていかなくては乗り越えられない。
ペットを飼うと、心身の健康にプラスの影響がある。
犬を飼うと、介護リスクが半減する。
そんな研究結果が出ているのなら、飼いたい人はペットと共に暮らしたらいいじゃないか!
”飼うなら最後まで”という「終生飼養」の壁
だが、話はそう簡単なことではないらしい。
この改正動物愛護管理法に定められた「終生飼養」、つまりペットが亡くなる最後まで責任をもって飼いなさいねという、動物愛護上、当たり前に重要な規定が、高齢者とペットの間に、壁となってしまっている。
人だけでなく、犬も猫も寿命が伸びている。平均寿命はともに約15年ぐらいらしい。高齢者がペット飼うと、ペットの寿命より先に飼い主自身が入院したり、介護が必要になったり、亡くなったりする場合があるので、「終生飼養」できないかもしれない。
現に多くの自治体や愛護団体では、保護された犬猫の譲渡に、「60歳まで」といったような年齢制限を設けている。
そして、私のまわりでも、高齢者によるペットの問題を多く耳にするようになってきている。心身の衰えや認知機能の低下により、きちんとした飼養ができずに猫が多頭化し、「猫屋敷」と呼ばれるような状態までなってしまい、近隣住民とトラブルが生じている話はかなりよく聞く。
また、飼い主自身が要介護状態で買い物に行けなくなり、ヘルパーさんに買い物代行をお願いするケースがある。これは、介護を受けている本人の日常生活用品のみ代行をお願いできるので、ペットのエサなどを買ってきてもらうことはできない。
そこで、「シーチキンが好きだから多めに買ってきて」とお願いして、実際は猫のエサとしてあげているという話も耳にしたことがある。
病院関係者からは、「救急車で運ばれた患者さんの入院中、家に残したペット」問題もよく聞きます。
「終生飼養」や命ある動物が健康に飼われることに、大きな支障をきたしている事例が、飼い主の高齢化により増えていると言えるかもしれません。
だから、譲渡に一定の年齢制限を設けるという流れになったのでしょう。
分からなくもない感じですが、、、、、、、
禁止や抑制、自己責任ではなく
この記事を書くにあたりネットで調べている中で、見つけたデータだ。
↑ちなみにこのチャレンジと内容が超とても素晴らしいので、俺のこのnote記事を読むより優先してもらいたいです。
ペットを飼いたいと思っている高齢者が5割を超えていること。
だけど、飼いたい人の多くは、自身の健康の先行きを不安に思い、諦めていること。
ルールとして譲渡に年齢制限を設ける手前で、既に多くの高齢者が、終生飼養の重要性を理解し、自主的に諦めているのかと思う。
飼いたい気持ち。
終生飼養の重要性。
本人、家族、地域社会全体へのペットを飼うことによるベネフィット。
この3つのジレンマをどう解きほぐしていけばいいのか。
調べてみると、すでにいくつかのアプローチが出現している。
1.ペット信託
飼い主のもしもの事態に備え、あらかじめ財産の一部を信託契約を用いて信頼できる人物や団体に託し、自分がペットを飼うことができなくなったときはその財産から飼育費を支払うことによって、ペットが生涯幸せに過ごし続けることのできる仕組み。
2.人とペットの介護施設
ペットとともに暮らせる介護施設も全国的に増えているようだ。また、老犬施設と呼ばれるペットのための介護施設も同様に増えてきている。
3.高齢者向けペット支援事業
動物愛護団体の中には、譲渡時の条件として年齢制限を設けず、一度引渡した後に、飼い主に万が一の事があった場合、再度引き取り、もう一度里親募集を行うという取り組みをしている団体もある。
介護業界、動物愛護団体、金融機関など異なるステークホルダーがそれぞれに、また連携しながら、この高齢者とペットの問題の難しいジレンマを解きほぐしていこうとチャレンジしはじめているように感じる。
みんなで「最後まで責任を持つ」社会へ
ここまでお読みいただいた方、ありがとうございます。
なのに大変申し訳ないが、最後に妙案が示されるわけではない。
最近、特に耳にすることが多くなった「高齢者とペット」のあり方について、ちょっとググり、それぞれに抱える課題をなんとなく理解し、それでも「もしペットを飼いたいと思う高齢者が、自分のできる範囲で飼養責任を果たしつつ、安心してペットを飼うことができるようにするにはどうすればいいのだろう」と、問いを立ててみただけだ。
「問いを立てる」というカッコいいものですらなく、単なる「妄想」かもしれない。
それでも、これからやって来る、今より厳しめな少子高齢化&多死社会のフェーズにおいても、それでも今より一人ひとりがよりよく暮らしていくために、重要になっていくる2つのポイントにたどり着いた。
●「自己責任」の呪縛からの解放
今回の高齢者とペットを巡る考察の中でネックとなるのは、「飼うなら最後まで」という「終生飼養」だ。
動物愛護の観点でも一番大事なこの「最後まで責任を持つ」ということ。これに異をとなえる人は誰もいないだろう。私も一番大事なことだと思っている。
ポイントは
を切り離すことではないだろうか。
に変えていくこと。
先ほど事例であげたペット信託などは、まさにこの流れで、自分が飼えなくなっても、費用や引き取り先の確保をあらかじめ用意しておくことで、最後まで責任を持つというものだ。
自分ひとりで、直接的に飼養するという狭義の自己責任を少し開く。自分は直接エサをあげたり、散歩に連れていけなくなるかもしれないけど、かけがえのないペットの命の責任は最後まで果たす。自己責任の意味合いをもう少し広げることができるかがポイントではないだろうか。
ペットに限った話ではない。
「○○するものだ」
「○○しなければならない」
という自己責任的な呪縛は私たちを苦しめ、これからますます生きづらくさせていく可能性がある。
例えば、自分の家族が認知症になったとする。というか、長生きすれば、ほとんどの場合で認知機能は低下する。誰にでも関係がある話だ。その時に、
「認知症は家族が世話をしなければならない」
「徘徊して地域に迷惑をかけないように、家の中でしっかり見張っているべきだ」
という社会は、みんな生きづらい。「ねばならない」という呪いの言葉を言ってる方も、時間の問題で、いつか自分が言われる側になる。
「一丁目の○○さんの旦那さん、認知症になってらしいわよ」は、他人事ではない。ちょっと遅いか早いかで、あなたの家にもいずれ訪れる。
「他人に迷惑をかけてはいけない」という呪縛から解放されよう。
私たちは、好むと好まざるとに関わらず、「他人に迷惑をかけずには生きていけない」のだ。文字通り、お互い様なのだと思う。
「ねばならない」の自己責任を今より少しだけ広げる。
その意識とチャレンジが、高齢者とペットの問題はもとより、これから私たち一人ひとりがもっとよりよく、もっと互いをより信頼し、より尊重しながら暮らしていけることにつながるじゃないだろうか。
●ベクトルを合わせる
もう一つは、特定の誰かや団体、領域が頑張るではダメだということ。
私の周りでは、動物愛護セクションも困っている。高齢者福祉セクションも困っている。どちらも困っていて、どちらもそれぞれに取り組んでいる。
高齢者とペットのよりよい関係をつくることができたら、
こんなにいい効果が期待される。そして、そのメリットは特定の誰かではなく、私たち皆が享受するメリットだ。
高齢者とペットの問題をよりよく解決することができたら、私たち全員にとってどれだけプラスになるのかということをステークホルダーがしっかりと共有しあうこと。
だから、別々にではなく、ともにこの問題にアプローチしていくんだというベクトルを合わせることがとても重要だと思う。
みんなそれぞれに困っていて、みんなそれぞれに対処している必要、もうなくないですか?それに、そんな別々にやっていくほどの余力も、少子高齢化の中にあっては、どんどんなくなっていくんです。
さあ、どうせやるなら、前向きにかつ一緒にチャレンジしていきましょう。
最後に今回のnoteは、自分が保護猫を実際に飼い始めたことと、包括支援センターはじめ身の回りの高齢者福祉や動物愛護の関係者からいくつかの事例を聞いていたことがきっかけとなり、考え、書いてみた。
書くにあたっては、次の記事や動画に大きく刺激を受け、参考にさせてもらいました。
「それはルールだからしょうがない。」
「高齢者なんだからしょうがい。」
で片付けない社会を目指したいと思っている。
自分とは関係ない話ではなく、少し想像してみませんか。
自分も必ず歳をとる。大事な家族やパートナーに先立たれるかもしれない。
孤独で寂しさを感じるときが来るかもしれない。
そんな時に、ペットという新しい家族を迎え入れることができたら、、
生活にハリや活力、喜びが生まれるかもしれない。
散歩を通じて、ご近所と挨拶や交流が生まれるかもしれない。
人の人生、特に人生の終盤期は思いどおりにならないと思います。「生老病死」はいつの世も「ままならない」ものではないでしょうか。
それでも、自分の人生がある限り、少しでも日々をよりよく生きて過ごす。
そんな当たり前の願いを、当たり前に目指せる社会を。
いくつになってもペットと暮らせる社会、そして、命あるものを最後まで責任を持つ社会は、今よりもっとステキな社会だと思います。
お読みいただきありがとうございました。
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