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躁うつ病時代を生き抜く創作術18-"何者でもない"あなただからこそ、創作がはじまる

「何者でもない」自分を創作に生かす

これまでの記事で述べてきたように、躁うつ病と創作活動の関係は複雑で、時に表裏一体のようにも感じられます。
躁うつの感情の浮き沈みの中で、創作を続けていくことは容易ではありません。
結構しんどい時もあります。まったく何も思い浮かばない時もあるし、逆にアイディアが溢れちゃって、散乱しちゃって、手に負えないこともある。

この相互関係に悩まされることは僕にとっても日常茶飯事で、この相互関係の摩擦によって、うつ状態になることもしばしばです。

僕はそんな時「俺って結局、何者でもないんだよなあ・・・」と考えるようにしています。

「何者でもない」という感覚

この「何者でもない」という感覚を味方につけることで、新たな創作の可能性が開けるのではないか、と、僕は考えています。自分が「何者なのか」という問いに囚われ、固定観念に縛られている限り、真に自由な表現は生まれづらいものです。でも、「何者でもない」という感覚を受け入れ、自分自身を見つめ直すことで、今までとは違う視点から世界を捉えられるようになるかもしれません。

躁うつ病を抱えていると、自分が本当は何者なのか分からなくなる瞬間があります。感情の波に翻弄され、自己像がぼやけてしまうようなことも少なくない。
「私は一体何者なのだろう」「こんな自分に価値があるのだろうか」と自問自答する日々。それは本当に辛い日々です。よくわかります。
全世界に、自分が無視されている感覚。
「俺はここにいるよ!」と所構わず叫んでしまいたくなる感覚。
その焦燥感は堪え難い苦痛でもあります。

しかし、そんな中で、「何者でもない」という感覚を習得できたら、それはある種の解放感をもたらしてくれるのではないでしょうか。

「自分は何者でもない」
「俺は何者でもない」
「私は何者でもない」

だからこそ、どんな自分にもなれる。どんな表現も可能になる。
社会に、他人に、規定されて、いつの間にかアイデンティティを固定していたことに気がつく。

むしろ、「何者でもない」という感覚こそが、創作活動の源泉になり得るのかもしれないのです。
これは実は大きな可能性を秘めています。

「無我」の意義

昨日は無我について書きました。

仏教の教えの中核をなす「無我」の概念は、創作における「何者でもない」という感覚と深く結びついています。「無我」とは、つまり、僕たちが「自我」と呼ぶものは実体のない幻に過ぎないという考え方です。

とらわれのない心を保ち、執着から解放されること。それが「無我」の本質だと言えるでしょう。

この「無我」という概念は、創作活動に新たな角度で光を当ててくれると考えています。自分を特定の役割やイメージに固定しない。そんな柔軟な在り方は、自由な表現を生み出す土壌となるのです。

肩書きは、今や必要不可欠です。SNSのプロフィール欄にも書きますし、名刺にも必ず肩書きは載っている。毎日有象無象の肩書きが生み出されていますよね。

しかし、創作活動においては肩書きににとらわれず、ただ純粋に表現と向き合う。そこには、"既成の枠組み"を超えた創造の可能性が広がっているのかもしれないのです。

そして、自らの内なる思いを隠さず、赤裸々に表現していく勇気を持ちましょう。「恥ずかしい」とか「こんなの作ってみっともない」といった価値観に縛られない自由さ。とにかく他人に"自分自身で創作したもの"を見せつけるのです。
それは、「無我」の精神に通じるものです。

仏教的観点から見れば、「何者でもない」という感覚は、執着から解放された自由な表現の追求につながっていきます。自分の内面と向き合い、ありのままを受け入れる。そこから生まれる表現は、他人の目を気にしない突き抜けたピュアさを持っているはずです。

「何者でもない」という感覚は、一見すると創作活動の妨げになるように思えるかもしれません。しかし、実はそこから新しい表現が生まれる可能性を秘めているのです。

「何者でもない」から始まる創作の意義

自分が何者なのかわからない。そんな不確かさの中で自己表現を試みることは、自分自身を深く理解するためでもあります。言葉や絵を通して自分の内面と向き合う。そんな経験の中で、新たな自分の一面を発見できるかもしれません。

創作のプロセスは、自己理解を深めるだけでなく、確実に自分を成長させてくれます。「何者でもない」という感覚を糧に、未知の領域に踏み込んでいく。そこには、かつての自分では想像もできなかった世界が広がっています。心は現実の世界より果てしなく広く深く、しかし、現実の世界も我々の心が認識できるよりも、認識できないくらい奥深いものなのです。現実の世界と心の世界は比較できるものではないのです。

「何者でもない」という感覚から生まれた作品は、他者との共感を生む力を持っています。自分の内面をさらけ出すことは、勇気のいることです。でも、そんな"誠実"な表現は、同じ思いを抱える誰かの心を揺さぶるのです。

作品を通して、「自分だけの苦しさじゃない」「この世界の誰かわかってくれる」という感覚を味わえるかもしれません。創作活動は、孤独な心に寄り添い、共感の絆を深めてくれます。他者との繋がりを生み出す営みでもあるのです。

「何者でもない」という感覚は、僕たちから既成の枠組みを取り払ってくれます。だからこそ、自由に、そして真摯に表現と向き合える。その中で自己理解を深め、他者と心を通わせる。創作とは、そんな意義を持つ行為なのだと思います。

躁うつ病と付き合う中で「何者でもない」と感じた時、心底苦しいかもしれませんが、どうかその感覚を恐れないでください。忘れないでください。

むしろ、そこから新たな表現が始まると信じて、一つ一つの作品が、あなたの内面を映し出す鏡になります。ゆっくりと自分と対話しながら、一歩ずつ、一歩ずつ、創作の歩みを進めていきましょう。焦る必要はないのです。

「何者でもない」という感覚は、確かに不安を呼び起こすものかもしれません。自分のアイデンティティが揺らぐ時、僕たちは無力感に苛まれるものです。とりわけ、躁うつ病という感情の波が激しい状態の中では、その感覚がより強く襲ってくるでしょう。

勇気を持って「何者でもない自分」を受け入れよう

しかし、よく考えてみてください。「何者でもない」という感覚は、本当は新しい創作の扉を開く鍵になるのではないでしょうか。固定観念に囚われない自由な発想。型にはまらない独自の表現。そういったものは、「何者でもない」という感覚の中から生まれてくるのです。

自分を特定の枠に当てはめようとするから、居心地の悪さを感じるのかもしれません。でも、「何者でもない」という在り方を受け入れることができれば、そこには無限の可能性が広がっているはずです。

仏教の教えが説く「無我」の精神は、僕たちに大きなヒントを与えてくれます。自我にとらわれず、執着から解放されること。それこそが、自由な創作活動の源泉なのです。

「何者でもない」という感覚を、恐れるのではなく、むしろ味方につけてみる。そんな発想の転換が、表現の可能性を大きく広げてくれるでしょう。自分の内なる声に素直に耳を傾け、心の赴くままに表現する。そこには、かつて想像もできなかった創造の喜びが待っているはずです。

もちろん、そこには勇気が必要です。「何者でもない」という感覚を受け入れるということは、未知の領域に足を踏み入れることだからです。でも、その一歩を踏み出す勇気こそが、新たな自分との出会いを導いてくれるのです。

躁うつ病と向き合う創作活動は、決して平坦な道のりではありません。感情の浮き沈みに翻弄され、「何者でもない」という感覚に怯えることもあるでしょう。それでも、どうか表現を諦めないでください。

あなたにしか紡げない言葉があります。あなたにしか描けない絵があります。あなたの内なる思いを、そのまま作品に託してみてください。きっと誰かの心に響く表現になるはずです。

勇気を持って、「何者でもない」という感覚を抱きしめてみませんか。そこから、あなただけの創作の旅が始まるのです。胸を張って、その一歩を踏み出してください。

あなたの創作の道のりを、心から応援しています。「何者でもない」という感覚に導かれながら、自由に、そして真摯に表現と向き合ってください。新しい自分との出会いは、きっとすぐそこまで来ているはずです。

「何者でもない自分」でいい。

現代社会では、「何者か」であることが強く求められています。SNS上では、魅力的な自分を演出することが当たり前になっていますし、職場では、専門性を高め、キャリアアップを目指すことが期待されています。「何者でもない」という状態は、まるで忌み嫌われるべきものかのように扱われがちです。結構辛いですよね。特に僕は休職中にこの辛さを味わいました。「働いていない自分」は「何者でもない」と感じていましたし、早くこの「何者でもない」という状態から抜け出さなければならない。その焦燥感は筆舌に尽くし難い苦痛でした。

しかし、この「何者かでなければならない」という強迫観念こそが、僕たちから自由を奪っているのではないでしょうか。自分を特定の枠に当てはめようとするあまり、本当の自分を見失ってしまう。そんな生きづらさを感じている人は少なくないはずです。

ここで、ちょっと視点を変えてみましょう。「何者でもない」という感覚は、実は新しい創作の扉を開く鍵になるのではないでしょうか。世間の枠組みから自由になれるからこそ、既成概念にとらわれない発想が生まれる。型にはまらない独自の表現が可能になる。つまり、「何者でもない」という感覚こそが、創造性の源泉になり得るのです。

仏教の教えが説く「無我」の精神は、この点で大きなヒントになります。自我にとらわれることなく、執着から解放されること。それが、自由な創作活動を可能にするのです。

「何者か」であることにこだわるから、僕たちは息苦しさを感じるのかもしれません。でも、「何者でもない」という在り方を受け入れられたら、そこには無限の可能性が広がっているはずです。

勇気が必要でしょう。「何者でもない」という感覚を抱きしめるには、未知の領域に飛び込む決意、勇気、勇敢さが必要です。でも、その一歩を踏み出すことこそが、新しい自分との出会いを導いてくれるのです。
恐怖突入、溺れるかもしれないという恐怖を抱きつつも、海に飛び込まなければ、本当に新しい世界の扉は開かないのです。

社会の期待に応えようとするのではなく、自分の内なる声に耳を傾けてください。あなたにしか紡げない言葉があります。あなただけが描ける絵があります。そんな唯一無二の表現を、恐れずに世界に送り出してください。

「何者かでなければならない」という呪縛から解放されたとき、本当の自由が訪れます。勇気を持ってまずは「何者でもない自分」を受け入れてみましょう。


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