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どう生きて、どう死ぬか

先日までバーニングジャパン(バーニングマンの日本リージョナルイベント)に参加していた。バーニングマンとは下記の10の原則に基づいて、数日間お金の使えない空間で、本来の自分を表現して生きるキャンプイベント。

『どんな者をも受け入れる共同体である』(Radical Inclusion)
『与えることを喜びとする』(Gifting)
『商業主義とは決別する』(Decommodification)
『他人の力をあてにしない』(Radical Self-reliance)
『本来のあなたを表現する』(Radical Self-expression)
『隣人と協力する』(Communal Effort)
『法に従い、市民としての責任を果たす』(Civic Responsibility)
『跡は何も残さない』(Leaving No Trace) 
『積極的に社会に参加する』(Participation)
『「いま」を全力で生きる』(Immediacy)

本当はキャンプとかイベントとかいう表現ではなく、バーニングマンはバーニングマンとして表現したいのだけど、、記事なので、分かりやすく、悪しからず。。

ジャパンには8年ぶり2度目の参加。

とある夜に友人のバーナーと色々話している中、別れ際に「どう生きて、どう死ぬのか知りたい」と問われた。互いのキャンプの分かれ道まであと10秒ほどの距離。「その回答はどうしても長くなってしまう・・・」など考えていたら分岐点。

10秒で自分の生き方を語れた方がいいと思った。
あの夜のアンサーとして、この記事を書く。


本文に入る前に「どう生きて、どう死ぬか」の根底となる「この世界を自分はどう観ているか」をまとめた記事があるので、こちらをご一読いただけるとより味わい深いものとなります。


どう生きるか

10秒で答える。

「新しいイマジネーションの媒体として生き続ける」

です。

ここからは記事としての補足。

自分自身が”まだこの世にない新たな世界観”を作品として作り続けることで、全人類のそうぞう(想像/創造)機会を最大化する媒体として存在することを、自分が生きる理由としたい。

2016年にOzoneという会社を創業して以来「そうぞう機会の最大化」というステートメントを掲げて、実行してきた。

「ソーシャルフェス®︎」や「体験小説」という表現形態を通して、仮想の世界の構築→共有→共謀→共鳴→共犯→共育というスキーム上で自分と特定多数と不特定多数の想像と創造の機会を最大化してきた。

なぜ想像と創造の機会を増やしたいのかについてもざっくりと書いてみる。

想像力においては主に下記の3点。

・想像力は人類の文明の持続可能性そのものである。
→同種への愛着が少なからず、ある。死後もなるべく持続可能な文明を育んで欲しいと思う。そのためには未来や他者や他種を想像できる力が不可欠になる。想像力の低い文明はすぐに破滅する。政治、経済、産業、開発、あらゆるフィールドの土壌は想像力にある。

・安心革新な技術発展
→上記文脈と連なるが、天文学的に地球生命は今後現状の技術レベルでは太刀打ちできない課題に直面する。例えば50億年後に太陽は爆発する。それまでに人類は太陽系を脱して生活を営める技術レベルに発展する必要がある。一方で、核ミサイルなど人類は自らを滅ぼす技術に発達することもしばしばある。技術は開発と倫理が両輪回らないと危うい。開発と倫理、2つのエネルギーもまた想像力となる。

・訝しみ、慈しむ、やさしい社会
→今をもっと良くするためにも想像力が必要だ。既存の社会の形式や運用方法をまず疑わなくてはならない。あらゆるソリューションには被害者が発生するが、それゆえに放置するとその負荷により被害者(主にマイノリティ)は滅び、多様性が減る。負荷は定期的に分散させ、ヒエラルキーが生まれないように努めるべきだと思う。そのためには他者を慈しむ必要がある。コスモポリタンとしての愛を肥やす機会が必要だ。自分の檻を超えて、自分たち全体がいい感じになる、やさしい社会のためには想像力が必要だ。

想像したことを創造できる機会もまた同等に重要である。
その理由は主に下記の3つ。

・心理的安全と解放
→頭の中の想像を現象世界に創造するためには相応の条件がいる。まずはそれを放出することが許されている社会であること。現代では当たり前のことのように思えるが、言論が弾圧されず、自由な思想を持てる社会は人類史で見れば最近の(そしてもしかしたら一時的な)ことだ。創造機会を作るためには社会が自由でなくてはならない。自由が保障された空間がなくてはならない。創造のために、それをまず創造しなくてはならない故に重要。

・流動的なリソース分配がされる社会システム
→創造するためには(資金も含めた)資源が必要であるが、現状の流動性は概ねポジショニングゲームであり、一定の位置にいる人達だけが多くの資源を活用できる仕組みになっている。一方で一定の規定を超えた経済圏に属する近似の集団はエコーチェンバー的に成功した運用方法を共有し、固持し、淀む。創造機会を作ることは創造の淀みを回避する流動性を社会システムとして如何に実装するかということであり、社会になるべくフェアに計画された偶発性を仕組む営みでもある。

・新たなそうぞうの輪廻のため
→イマジネーションとクリエイションの大きな違いは共有可能な質と量にある。想像は創造した方が他に多くの情報が共有可能になる。五感により知覚可能になる。その情報の濁りなさについては感受する側に依るところだが、想像to想像のコミュニケーション手段が現代技術ではまだ一般的ではないため、一度現象世界で創造することで想像を共有する。創造は観察者の新たな想像のための機会であり、その輪廻のために創造機会は必要となる。

これらを総合して「そうぞう機会の最大化」というステートメントにまとめ、自身の創造媒体であるOzoneの核とした。その実装において、フェスティバルをはじめとした様々な作品群や場において想像と創造を続けている。

その反復は他者はもちろん自分自身にもイレギュラーな想像機会を付与し、仮想世界の身体知を得てもらうことで、人類未到の世界観に辿り着こうと努める営みでもある。

イマジネーションは断片的な記憶のコンビネーションによるものだが、できるだけ規則性のない多様な記憶を取り入れることによって、偶発的に生まれる新たな結合パターンの出力を企図しながら、人生を嗜んでいる。

そんな個人として、雨宮として「どう生きるか」を問われた時に「新しいイマジネーションの媒体として生き続ける」という生き様の表明が済んだところで「どう死ぬか」を考えたい。

どう死ぬか

死とは季節のようなものだと考える。春から夏にかけて明確な境界がないように、生と死もグラデーションになっていて、僕らは生きているが少しずつ死んでいるとも言える。

そして恐らく、死の季節は生の季節よりも長い。その季節に時間や記憶という概念はないので、体感覚として味わうことはできないが、結構長いと思う。死を超えて次の季節に移ったところで記憶がないので、その巡りを感じることはできないが、俯瞰してみればそれは循環しているものだと思う。

死はその循環のための駆動力であり、種の変化率を維持するための恒常性なので、死ぬこと自体が「そうぞう機会の最大化」に資することでもある。

季節が死に移り変わる境目が分からない以上、未来の技術に期待するのはやめて、現在の文明レベルで、どう死ぬかを考えたい。

僕は過去作において未来の技術や異文明に終わり方の思想を託してきたので、今の自分のことはあまり考えてこなかった。なので少し助走を挟んで「何を為せたら死んでもいいか」から考えてみる。

結果、1000年後までそうぞう機会の媒介となれるような傑作をつくれればその時点で死んでもいいかなと思った。

自分の表現媒体といえば概ね文藝と祭礼になるが、1000年前から続く文藝といえば『古事記』や『源氏物語』思想もその領域に入れるならば穢土と浄土の概念を記した『往生要集』なども入ってくる。祭礼で言えば「住吉祭」や「祇園祭」など結構ある。

1000年後にどんなメディアが存続しているのかは誰にも分からないものの、自分は体験小説という形式で1000年間そうぞう機会としての機能を放ち続けられるものがつくりたい。

前作『KaMiNG SINGULARITY』は2045年まで今作『RingNe』は2046年までの物語なので、次作からは飛んで1000年以上先の物語を書き始めようと思う。それを体験として現実に現すにはかなり難易度が高そうだが、その挑戦自体が未来から見れば興味深く映るはずだ。

助走を経たところでどう死ぬかだが、できるだけ心身に負荷のかかっていない状態で死にたい。というのも、人は死ぬ間際それをなんとかしようと脳活動が最大限活発になるらしく、いわゆる走馬灯と言われるようなものを見ることが多いらしい。

それは人生の総集編たる映画であり、人は最後に自分しか見れない映画を見て終わるのだと思ってる。その視聴環境を最適化したい。最悪な状態で見る映画と最高な状態で見る映画は映画体験の質がだいぶ異なる。なのでできれば最高な心身の状態で死んで、最高の映画体験をもってして幕を閉じたい。

死後は使えるだけ使ってもらえればと思う。ソフトウェアはユニークで有用な言語モデルに発達していれば電脳世界のキャラクターの1部として何に組み込んでいただいても良いし、ハードウェアは再生墓という作品に全ゲノムデータを埋葬しているので、使えるようなら好きに再生、複製していただいて構わない。

死後の世界とは目を瞑ればそこにある想像世界のことで、そう遠い場所ではない。暗景の中に常に潜んでいるし、変わらずエンタングルメントして相互干渉している。生者だから死者を概念的に意識するだけであり、本来そこに区別はないので、安心して関わって良い。

では、さらば。




なんて書くと物語的には面白いけど、まだそこに至れるものが書けていないので、まだまだ精進して生きて参ります。


それでは、また。



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