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イサムノグチがヒロシマに残した「死者への追悼」

序文

この地底のどこかに眠る原始の古墳を想像したそのとき、権威的なアーチの威光は濁る
いずれも失われた命や未来には結局のところ何もできないままに

写真はノグチミュージアムより

(最初に、この文章は芸術人の苦悩や経験に焦点を当てその作品の在り方を解釈したものであって、祀られた人々や敗戦そのものに対して意見を言うものではない。戦争により失われた尊い死者やその家族達への敬意は別で記しておく必要がある。改めて人類にとって平和祈念公園の価値は無限大であって未来へ永劫伝え残していかねばならぬと前提をおいて。)


ドライブ・マイ・カーと建築

ドライブ・マイ・カーをこちらの映画館でみた。
すでに世の建築マニア達がきっと話題にしていかもしれないが、丹下・谷口建築が立体的に浮かび上がるような舞台設定になっていた。それらの有名建築もさることながら、僕はイサムノグチの平和大橋の姿が映画を通して世界に流れたところに興奮させられた。
東京から広島にシーンが移る際、鳥瞰図のアングルで平和大通りの様子が映画館のスクリーンに映し出された。その記念公園へと続く先に架かる道はほとんど平坦である。柔らかいとか優しいといった控えめな言葉が似合う欄干を持つこの橋は完成した時点で「生きる」という名前がついていた。
そして、対に位置する橋の名は「死ぬ」。こちらはあまりに直接的ですぐ後に「逝く」(ゆく)に命名され直す。
それだけではなくて様々なことがあってこの名前は変えられてしまうのだけど、僕は今も作者がはじめにつけた名前こそ本来の呼び名であると思っている。

生きる(To Live)と 死ぬ(To Die)

橋とは中間を繋ぐもの。イサムがこの地で渡そうとしたものは、そして結果的に往来することになったものとは何だったのか。その先にあるはずだった人類のためのモニュメントに何を繋ぎ止めたかったのか。
果たして、イサムによる幻の慰霊碑は実現しなかった。


(平和大橋の命名、平和祈念公園の計画から完成後までイサムは時代・個人的ナショナリズムに翻弄され続けることになる。その顛末についてはノンフィクションの力作、ドウス昌代『イサムノグチ_宿命の越境者』に詳しいので参照されてほしい)

イサムノグチによる幻の慰霊碑

まるい。やわらかくて、かたい。大きくて小さい。余剰と不足。質量と真空。光のようで影を同じだけ持つ。
その形を見た人のもつ感想は本当に多岐に渡るのではないかと想像する。ことばでどちらか一方だと決めることができない中庸の有り様、斬新でありつつどこか狂おしいほど懐かしさを孕む。これを誰かの墓だといった人がいた。
まるで白昼夢の中の古墳をモチーフにしたようなこのメモリアルは、実は地上からは見えない地中に繋がる内部の空間を持つ。
イサムノグチの作品の中心である石の存在感はいうまでもない。僕にはこれが天と地の「境界」を繋ぐ太い糸の結び目にも思える。圧倒的に無駄を削ぎ落とされた黒い石の絹糸は僕らの住む世界と地底世界を縫い合わせるかのように、その一端を僕らに露わにし、太く荘厳な両端は深く深く潜っていく。僕らはその到達する先を追うことができない。永遠に伸びたその先は死者の世界か、それともこの大地そのものの魂かもしれない。
彼は胸像から抽象彫刻、庭園へと作品の幅(規模)を広げていく過程でヨーロッパの広場や日本庭園はもちろん、アジアの庭・広場へと脚を運んで研究を進めた。彫刻というジャンルを軽快に越境して、大地そのものへと連なるイサムらしいスケールにモエレ沼公園を想起する人もいるかもしれない。(彼の作品の目指すものを論じたら、戦争すらちっぽけになってしまいそうだ。)
僕は美術評論家でも建築家でもないので作品の客観的価値に触れるのはわずかにとどめておく。ただ個人的にこの作品こそイサムノグチの最高傑作だと思っている。
幻の作品だから特別に感じるというのももちろんある。だが、最終的に計画が頓挫したイサムノグチ作品は庭園を含めて世界に他にも例があるので、それだけが要因ではない。芸術作品としてというより人間イサムノグチにとってのひとつの到達点のシンボルになるはずの仕事だったからだと僕は思う。長くなるのでまた書きたい。

初春のA市、音響も施設環境も良いとは言えない古い映画館で、ヒロシマの立体的な街並みが巧みに物語の構成に組み込まれていることが嬉しかった。
そして、そこにあるのがもしイサムの慰霊碑だったならこれだけ建築を愛している監督ならば、ドライブマイカーのシーンやカットもほんの少しでも変わっていたのかなとひとり妄想していた。

実在しないメモリアルなので写真は少ない

"Memorial to the Dead"
死者(もしくは死そのもの)への追悼

この永遠に実現しない慰霊碑の作品名が "Memorial to the Dead" (死者への追悼) だというのだから凄まじい。
初めてタイトルみたとき、シンプルだが死のど真ん中をずんと捉えているこれ以上ない名前だと思った。
そしてそれを知って、平和の街に架かる2つの橋 (To Live/ To Die) へ込めたイサムの思いは未完だったと思わずに居れなかった。

参照:https://www.noguchi.org/museum/exhibitions/view/memorials-to-the-atomic-dead/


丹下健三と国家高揚

決して現存する丹下健三のメモリアルが劣っていると言っているわけではない。
寧ろ、ドームへと続く平和の道を讃えるアーチのアイデア、作品を石碑や彫刻以上のものと捉えた都市計画との合体は素晴らしいと思う。個体からマクロへと広がる空間性は、未来の広島という街の形を決定づけるほどのパワーと先見性を孕んでいて、発案から実践までの過程を見ても如何にも昭和最大の建築家らしいと思わされる。(彼の存在自体が日本の戦後復興という神話や、国家の権威を漂わせるアイコンにもなってしまってもいるのだが。)
平和祈念公園の計画そのものの原動力は間違いなく彼であったし、当時の日本に彼がいたことは日本の誇りであったに違いない。

それでも尚、僕はイサムの、原始的である意味ではあらゆるものに中立的な形状のMemorial to the Deadが忘れられない。


人類の死のシンボルとしての古墳

幻になったイサムノグチの慰霊碑は、ニューヨークのイサムノグチミュージアムでそのミニチュアを観ることができる。
僕はまだイサムノグチなんて名前程度しか知らなかったときにそこで作品を観ているんだけど、どうもはっきりと思い出されないので不思議だった。
だが今は、当時の僕の鈍感さだけでは説明できないその理由をなんとなく理解できる。

世の中には、在るべき場所になければ意味がないものがある。
なにかの意思を持って生み出された(もしくは発見された)ものがあるとして、その物体の創造者と観察者の間にある「繋がり」を芸術と呼ぶのだとしたら、その糸が全く断絶してしまった状態といおうか。その場所でなければいけない、本質的な根っこのようなものが失われた抜け殻。

それが叶わないのなら、つまり、イサムの慰霊碑がヒロシマに在ることができないのなら、いっそどこか、この大地の底で永遠に未完の古墳のように眠っている方が良いと思う。
時代に翻弄され日米だけでなくあらゆる境界を越えようとしたひとりの彫刻家が到達した(ひょっとしたら彼にしか辿り着けなかった)完成された死のシンボルとして。


平和について

さて、後のイサムに対する丹下の態度と何より現在の作品の類似性をみても、平和公園の計画はとても芸術的な成功を収めたといえないと思う。
それでも平和祈念公園という人類史の「墓標」がアンバランスで未完成なのはどこか必然的にも思う。

これが人間だと皮肉的に美しく在るのがこの場所なのかもしれない。


原爆投下 1945年
中島都市計画の立案が1949年
平和記念施設全体の完成は1954年
イサム、丹下の死はそれぞれ1988年、2005年
そして 2022年
平和は果たして。