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フィルムカメラの重み、記憶の軽さ

あとX日
僕は渡米する。少なくとも数年は帰らない。

記録を形として残すためにフィルムカメラを手に入れた。日本製で長く使えて、何より手に馴染むものが欲しかった。
きっかけは何でもよかったのかもしれない、単純にずっと探していた。
にわかにも関わらず、ハーフフィルムカメラの中では少し珍しい1964年製のYashica Half17を写真屋さんに勧めてもらった重厚な手触りに涼し気な流線型が同居していて、恥ずかしながら機能なんかそっちのけで造形に一目惚れした。メカへの愛というものが僕にもわかってきた。これについてはまた書きたい。

と同時に、ここ数年の写真をふと見返していた。写真と言っても、つまり一眼レフ、パソコン、スマートフォンに散乱する無数のデータを液晶画面を通して、である

カメラと購入したKodacのフィルムは軽いながらも確かな存在感があった。
装填の手順は思ったよりも簡単だったが、カメラ屋さんで教わってやっと安心できた。
そのフィルムとは対象的に、液晶の中に閉じ込められた写真達。
エンドロールみたいな写真の洪水に酔ったからか、あるいは放心したからか、だんだんとぞわぞわとしてきた。どこにもやり場のない不安が立ち現れてきた。

僕の愛すべきこの記憶たちはこれからどこにいくのだろう。


いつの日にか、写真という言葉は現像することのできる「データ」を指すことになった。
かつて皆がキーホルダーを付けていたUSBや重たいハードディスクは下火になり、クラウド管理が主になった。

でもソフトだって全くの無限ではない。すごく単純なようだが「電気」が足らなくなるらしい。
誰もが利用するデータセンターのストレージは今後も爆発的に増加、人間の使用する電気量の30%が消費される。この先、あっという間に世界の総消費電力を枯渇させる。
そこは科学の力で世界を変えてきた人類のことだから今も技術革新に余念がない。
「光子化」技術や、根本的に新しいコンピュータアーキテクチャを利用した ”The Machine” なんていうSFみたいな超コンピュータ設計も既に動き出しているから大丈夫データ爆発時代は叡智をもって乗り越えよう…だそうだ。

うーん、聞けば聞くほど不安になる。

この地球のどこか気持ちのいい気候の街、無菌室のような部屋の中、僕らと全く違うものを食べている人達によって人類の未来が決定づけられるのは、なんだか本能的に我慢がならない。
きっとフリーズドライしたオーガニック野菜のシリアルをその日の体調に合わせて調合しているような人たち。
血統書付きのピンクのチワワとエメラルドグリーンのプードルを交配するような人たち。
小さな頃からゲーティッド・コミュニティに住み、自らのことをリベラルで多様性に寛容な人間だと思い込んでいる人たち。


離脱した意識は、改めてジメジメした東アジアの夏に戻ってくる。
窓から見えるあまりに青すぎる空が眩しく光り、引き籠りの僕でさえ勢いよく外に出たいと思うような日曜日。
病院食は今日もくすんだ緑色のお盆に載っている。調理師さんはもう僕の少なめのごはんの量を知ってくれていて、何も言わずとも適量がお椀にある。
病院の持つ独特の匂いにももう何も感じない。
高齢者病棟。病室には自由意思や聡明さという段階を通り過ぎた、激しくも愛くるしい生き物としての本能が満ちている。
人間の認知機能は一夜の夢ほどにも儚いものなのだと知ってから久しい。

友人や大事な人たちとの時間の尊さは多忙になる程に増していき、
日常のあらゆる出来事・自然の動きを五感で感じていたいと日々思う。
幸せとは何かを考える。


もう一度涼しげな流線形のフィルムカメラを触る、見た目よりもずっと重みがある。それに対して僕らの記憶はどうだろう。ざらざらとした思考は、たしかに今この瞬間は存在するように思える。

大切なものは過ぎる季節のように忘れ去られてしまう。あるいは暗いデータの海を永遠に漂うように。