随筆(2021/8/6):完璧超人になれないことに対する憤りを飲み干す
1.社会生活能力がないため、それを獲得するために、40年間費やして来た
俺は、社会生活能力のない子供だったんですよ。
それを獲得するため、40年間費やしてきたんですよ。
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「障害じゃなくて個性です」
という話は、好きに生きているうちは良かったが、そのうち採用できなくなっていった。
仕事をするなら、報酬をくれる人とは、うまくやらなならん。特に、第三次産業の者は。(第一次産業と第二次産業については詳しくない)
また、他人と仲良くして、場に落ち着く場合、そりゃあうまくやるか、うまくやれなかったら、立ち去るかしかないだろう。
今まで基本的にはうまくやれずに立ち去ってきたのだ。それでは仕事も社交も処世も出来ない。
2.20年目の夢と希望は、40年目の諦めと覚悟に取って代わられつつある
今、40歳なんですよ。
職場では馬車馬としてそれなりにやっています。
だが、出会いということはしていない。
飲食店でマスターや隣の人と上っ面の会話は弾んでも、場合によってはバーベキューに連れて行ってももらえるが、自分で人を誘うと大抵「コレジャナイ」になる。
家庭内では、家長の母はともかく、弟君たちと喋っていても、いまいち噛み合っていない。
なんか上手く行かない。試行錯誤が足りない。あるいは物事のエッセンスが掴めていない。
完璧超人からは程遠い。才能の上でも、成果の上でも。
そして、それでも、日々のやるべきことはやってくるし、その都度やるしかない。
上手く行かない苦手なことを、克服する余裕はないまま、苦手なままやって、上達せずに一生やっていく。
そういう覚悟を、決めるしかない。
くそー。腹立たしい…
3.完璧超人になれなくても、事を成せなくても、皆、生きている
何でも出来る才能が欲しい。
でもそれより本当は、目に見える成果が欲しい。
さらに言うと、この世からズレていない証拠としての周囲からの評価が欲しい。
この世の中の自分の生活に違和感がなくなるくらいの自信が欲しい。
何の問題もなく満喫できる幸福が欲しい。
死ぬ前に真剣な後悔の残らない納得が欲しい。
4.「それでも俺は事を成したいんだよ」という妄執
まあ、もうちょっと正直に言うと、周囲からの評価は欲しいが、社交や処世はそこまでやりたい訳ではない。
「そういうところだぞ」
まあ、それはそうね。
「寂しくないのか?」
そこがあんまり強くないんだよな…
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「じゃあ何がしたいんだよ」
自分のやりたいことをしたいんですよ。
私は小説が書きたい人で、推しもいて、その推しみたいなやつが大活躍する小説を書くのがライフワークなのですね。
それを書き終えるまで、死ねない。書き終えたら途方も無い納得があり、脳の中の後悔はかなりなくなるだろう。
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「死にたくない理由、お前の生きがいとやらは、これを終わらせないと脳がかゆくてムズムズする、ということに過ぎないのでは?」
えー。俺にとっては大事な話なんですよ。
脳のかゆみだから何なん。矮小化を試みようとしておられる? 大きなお世話だ。
これが俺にとっては生きる指針なんだよ。これに近いものを、俺に与えられないなら、話にならんわ。聞く耳持たんわ。
5.才能や成果は過程に過ぎず、その先に評価や自信や幸福や納得がある。いつまで下拵えでモタモタしてるんだ
とはいえ、一つ反省もあって。
あれがしたい、これがしたい、をやるために、たくさん修行を重ねては来た。
だが、評価されてはいない。
馬車馬としての評価はそれなりにあることは確認しているが、「報いるに値する人間である」という評価は得られていない。
そのくらい、俺の給料は、仕事に対して、低い。
40歳で手取り14万円に届かないとなると、かなり難しい顔になってくる。
これは転職中途採用なのと、社会生活能力のなさで干されてメンタルやって一時期ダウンしたせいもあるが。
つまりは、やはり社会生活能力、要るんだわ。
***
仕事においても、仕事で干されてメンタルやって低い報酬に喘ぐ、という話は受け入れられない。そこは克服しなければならないポイントだ。
そういう社会生活能力は、足りてないので、とにかく増やさねばならない。出来れば途方も無いメリットがあるだろう。やっていく値打ちのある投資だ。
それが、上で書いた意味の評価や自信や幸福や納得をもたらすのだ。
下拵えのために才能や成果を積む? 大事な話ですね。
で? そのまま評価されずに成果だけ積むの、バカじゃん。
6.評価されなくても、自信をついぞ持てなくても、幸福でなくても、納得いかないままでも、己の生を、生きて、死んでいく
ふと冷静に考えると、そもそも、評価も自信も幸福も納得も関係なく、というか何一つ納得行かないまま、死んだ人たち、たくさんいるんだよな。
そんな中で、「納得してから死ぬんじゃないとダメ」という話をするの、あまりにも「見えてない」。
そんなのはみんなへの侮辱にしかならないだろ。
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それに、ワクチンを打ってようが(2回打ってます。2回目はすごく熱が出てダルかったですね)、あれは感染の確率と重症度を下げる効果のあるもので、依然として低確率でかかる可能性は排除できない。
だから感染対策はいろいろ出来る範囲内で自分でやるんだが、デブの自分にとってはマスク状態での呼吸は苦しく、マスクを外す度に爽快感がある。家族もそう言っている。アカン。
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コロナ、かかる時は、やはりかかってしまうのだ。
俺もそのリスクからは究極的には自由ではない。
そうして俺の中の戸愚呂弟が言う。
「おまえもしかしてまだ、自分が死なないと思ってるんじゃないかね?」
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まあ、そういうことなのだ。
人間、死ぬときは、死んでしまう。
評価されなくても、自信をついぞ持てなくても、幸福でなくても、納得いかないままでも、己の生を、生きて、死んでいく。
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ものすごく嫌だ。悔いもある。
ことに俺の場合は、悔いを抱えたら、場合によっては憤死してしまうだろう。それくらい理不尽に対する怒りが強い。
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でも、「自分は最後まで生きていられて当然」なんて、そんなもん、理でも何でもないからなあ。
ただの願望だし、何ならバイアスだからなあ。
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そして、一個一個の現象を正確に予測できるような、正確な因果律の予測、今のAIだって完璧には出来てないのだ。
まして、自分の願望やバイアスなど、そういうのからは程遠い。
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何かあったら、ジエンドだ。
そういうリスクは、常に、ある。
だから、じゃあ、
「完璧超人になれなかった」
「やり残しのあるまま人生が終わる」
「やったことは世の中にとって何の評価にも値しなかった」
となった時に、喚き散らして苦しみ抜いて死ぬのではなく、そこは受け身が取れるようにしなきゃならん。
やり遂げられなくても、世界に負けて理不尽に死ぬのだとしても、
「やるだけやったんだからな」
くらいのことは思えるようにしたい。
まあ、やっていくしかねえな。
できれば、足りない特質を全て手に入れて、華開きたいが、それが出来るとも限らん。
ダメだった時に、憤死しないようにはしていよう。
完璧超人になれなかったとしても、その憤りを、飲み干そう。
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