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TVアニメ『弱キャラ友崎くん』が映し出す現代資本主義の袋小路:宇野常寛『ゼロ年代の想像力』と終わらない「自己啓発」を超えて

はじめに

資本主義の終わりを想像するより世界の終わりを想像する方が簡単だ。
――フレドリック・ジェイムソン「アメリカのユートピア」
(フレドリック・ジェイムソンほか著、スラヴォイ・ジジェク編(田尻芳樹/小澤央訳)『アメリカのユートピア:二重権力と国民皆兵制』書肆心水、2018年、13頁)

 資本主義を飼いならすことはできないし、資本主義の外に出ることも決して容易ではない。2021年3月に放送が終了したTVアニメ『弱キャラ友崎くん』(以下『友崎くん』)は、そんなことを教えてくれる傑作である。
 本作の主人公・友崎文也は、友達も彼女もいない「陰キャ」で「ぼっち」の高校生だ。しかし、その裏の顔は家庭用格闘ゲーム「アタックファミリーズ」(通称「アタファミ」)のレート一位、日本最高峰のプレイヤー「nanashi」である。友崎は人生を「クソゲー」であると言い切る。なぜなら、彼に言わせれば、人生とはたまたま「強キャラ」に生まれた者だけが無双できる理不尽な環境であって、その中で人間は顔・体格・年齢などで差別されるからだ。ある日、彼はレート二位のプレイヤー「NONAME」からオフ会に誘われる。彼が髪も服装も整えずに待ち合わせ場所に向かうと、そこに現れたのは、才色兼備・文武両道のクラスメイト、日南葵だった。日南は「nanashi」の正体に落胆を隠さず、「私はがっかりだわ。あなたみたいな人生を負けたまま放棄しているような最低の人間が、私が唯一尊敬していたあの『nanashi』だったなんて」と友崎を一方的に罵倒する。友崎は、人生は初期パラメータで全てが決まり、努力も実らない「クソゲー」なのだから、お前の価値観を押しつけるなと反論するが、日南に逆に言い負かされてしまう。彼女が言うには、「リア充」の人生を経験したこともないのに人生を「クソゲー」と決めつけるのは「負け犬の遠吠え」であって、友崎は「ゲーマーの風上にも置けない」というのだ。こうして不思議な縁で、友崎は日南から「キャラ変更」の指南を受けて、「リア充」を目指すことになる。彼は表情・姿勢・話しぶりを矯正し、髪型と服装を整え、話題を身につけることによって、クラスメイトと少しずつ打ち解け、男友達もできるようになっていく。
 本作の梗概からお察しの読者もいると思うが、「陰キャ」をプロデュースして「リア充」ないし「陽キャ」に成長させるという筋書きは、白岩玄『野ブタ。をプロデュース』(河出書房新社、2004年;河出文庫、2008年)を彷彿とさせる。この小説(以下『野ブタ。』)は、「着ぐるみ」をかぶってクラスの人気者を演じる高校生・桐谷修二がいじめられっ子の転校生・小谷信太(通称「野ブタ」)をプロデュースして人気者に成長させる過程を描いている。主人公がプロデュースする側ではなく、プロデュースされる側に置かれているという違いはあるが、『友崎くん』の構図は確かに『野ブタ。』のそれと酷似している。また、『友崎くん』におけるクラスの人気者・中村修二が、『野ブタ。』の主人公・桐谷修二と同名であるという奇妙な符合も見られる。
 しかし、『友崎くん』は単なる『野ブタ。』の焼き直しではない。『友崎くん』を自己責任論や弱肉強食論を打ち出した作品と評価するのは失当である。むしろ、本作は現代資本主義の行き詰まりを描いた作品と見ることができるが、この結論に到達するには議論を何段階か積み上げる必要がある。本稿はまず、先行作品としての『野ブタ。』とそれに関する宇野常寛の見解を再検討し、続けて現代日本の就活/婚活に顕著に見られる「自己啓発」への陶酔に着目して、現代資本主義の抱える問題に切り込む。そして、これらの議論を踏まえて、『友崎くん』が提示するオルタナティヴについて論じる。なお、本稿では、本作の登場人物に格闘ゲーマーとしてのリアリティがないといった評価は行わない。本作における格闘ゲームという要素の意義は、本稿の後半で明らかにする。

宇野常寛『ゼロ年代の想像力』再読

 改めて『野ブタ。』の話から始めよう。『野ブタ。』はいわゆるハッピーエンディングの作品ではない。主人公の桐谷修二は「野ブタ」こと小谷信太を人気者に仕立て上げた後、ふとした気の緩みから「着ぐるみショー」の内幕をクラスメイトに見抜かれ、クラス内で急速に信頼を失ってしまう。修二は誰からも相手にされなくなり、最終的に転校を選んで学校を去っていく。文芸評論家の斎藤美奈子は『野ブタ。』の河出文庫版解説において、「劇場型の学校生活、その栄光と挫折」というフレーズで『野ブタ。』の骨子を端的に言い当てている(文庫版197頁)。
 『野ブタ。』については、評論家の宇野常寛による解釈がよく知られている。宇野はデビュー作である『ゼロ年代の想像力』(早川書房、2008年;ハヤカワ文庫、2011年)の中で『野ブタ。』を取り上げている。宇野は同書の中で「データベースからコミュニケーションへ」という標語のもと(単行本49頁;文庫版58頁)、90年代の「引きこもり/心理主義」にゼロ年代の「決断主義」を対置している(ただし、宇野の「決断主義」は学問的な用法ではない畢竟独自の見解のため、注意を要する)。そして、「決断主義」が反映された「ゼロ年代の想像力」として「サヴァイヴ系作品」を列挙し、縦横無尽に分析を加えている。

1995年から2000年までの間は、1995年に大きな物語がまた一段階失効し、そんな社会像の変化を受け止め、怯えていた「引きこもりの時代」であり、2001年以降はその後に乱立した小さな社会同士が衝突(バトルロワイヤル)しあう「噴き上がりの時代」に変化したと言える。ここでは自分の選択した小さな物語に大きな物語的な超越性を読み込み、その正当性を他の小さな物語を排撃し、自分たちの生活空間から排除することで獲得しようとする決断主義的態度が支配的になる。(単行本132頁;文庫版152頁)

 ゼロ年代とは、こうして決断主義的に選択された「小さな物語」同士の動員ゲーム=バトルロワイヤルの時代なのだ。そしてこの動員ゲームとはポストモダン状況の本来の姿が露呈した形だと言える。そして……このゲームからは誰も逃れることはできない。「何も選ばない、という選択」もまた、ひとつの選択=ゲームへのコミットである以上、ポストモダン状況下にある現代社会においては誰もが決断主義者として振舞わざるを得ないのだ。
(単行本96頁;文庫版109頁)

 ただ、宇野が「サヴァイヴ系作品」をゼロ年代バトルロワイヤル状況における「決断主義」の追認とは見ていないことには注意を要する。宇野は「サヴァイヴ系作品」では「一貫して決断主義は生き延びるために選択される必要悪」とされてきたと論じており(単行本132頁;文庫版153頁)、「サヴァイヴ系作品」の主題はあくまで「決断主義」の克服であったと指摘している。そして、宇野は「サヴァイヴ系作品」を時系列に沿っていくつかの段階に分けた上で、『野ブタ。』を後期作品の一つとして位置づけている。

 これら後期作品〔注:この箇所で宇野は『DEATH NOTE』と『コードギアス』を主に引いている〕では強力な決断主義者を主人公に設定しながらも、物語はあくまでピカレスク・ロマンの枠組みの中で展開し、作品そのものはむしろ主人公=決断主義の克服を志向していると言える。サヴァイヴ系の歴史とは、決断主義を前提として受け入れながらも、その克服を志向する物語の歴史だと言える。(単行本161-162頁;文庫版188頁)

『野ブタ。をプロデュース』の桐谷修二は、より上手に人気者キャラクターを演じられた人間が権力を手にできる教室の人間関係に勝ち抜くべく、自己と他者を「プロデュース」していき、その暴力性への疑問とそれでもゲームを戦わざるを得ない葛藤が作品の主題となっているのだ。
(単行本114頁;文庫版131-132頁)

 ここで著者の白岩玄は決断主義の可能性と危険性を両方提示していると言える。小さな世界が書き換え可能であることは、世界の可能性(信太のプロデュース成功)でもあり、同時に危険性(修二の没落)でもある。そんな現実認知を、白岩は自覚的な決断主義者である主人公が、その暴力性の報復を受けるという結末をもってして読者に訴えたのだ。
 そして、本作が優れた現実認知の物語であるということは、同時に決断主義の克服という課題についてはある種の敗北を認めているということでもある。(単行本165頁;文庫版192頁)

 『野ブタ。』は「決断主義」の克服に白旗を揚げてしまった。それでは、宇野は「決断主義」の克服のために、いかなる姿勢を取るべきだと考えているのだろうか。宇野は次のように述べて、「めいっぱい楽しみながら克服すること」、すなわち現実の「ハッキング」を奨励する。

世界に「いい」も「悪い」もない。私たちに必要なのは、それぞれの時代とその想像力が孕む長所と短所、コストとベネフィットを見極め、巧く利用することで次のものへと変えていくことなのだ。
(単行本134頁;文庫版155頁)

必要なのは、不可避の潮流に目をつぶり、背を向けて引きこもることではない。受け入れた上でその長所を生かし、短所を逆手にとって克服することだ。(単行本317頁;文庫版372頁)

私たちは、多様すぎる選択肢の中(もちろん、これはあくまで単一化の進むアーキテクチャーの枠内での選択である)から無根拠を踏まえた上で選択し、決断し、他の誰かと傷つけあって生きていかなければならない。この身も蓋もない現実を徹底して前提化し、より自由に、そして優雅にバトルロワイヤルを戦う方法を模索することで、決断主義を発展解消させてしまえばいいのだ。
 ひとつの時代を乗り越えるために必要なのは、それに背を向けることではない。むしろ祝福し、めいっぱい楽しみながら克服することなのだ。
(単行本135-136頁;文庫版156-157頁)

 結局、宇野は「決断主義」を発展解消させると称して、現状追認型の俗流相対主義(どっちもどっち論)に逃げ込んでしまう。宇野はいかなる「小さな物語」も互いに等価とみなし、ゼロ年代バトルロワイヤル状況を強調しているが、以下に掲げるように、その背景には概念・制度の歴史的形成過程を冷淡に無視し、普遍性を嘲弄・拒絶する思考が控えている。

南京大虐殺が捏造か実在か、戦後民主主義が虚妄か否か、好きなほうを信じればよい。そのレベルでは、どの物語を選んでも変わらない。
(単行本49-50頁;文庫版58頁)

 物語の真正さ、比喩的に表現すればイデオロギーから、物語への態度、すなわちコミュニケーションへ。繰り返そう、「真正な物語」をめぐる議論は無効である。(単行本51頁;文庫版59頁)

本作〔注:『野ブタ。』ドラマ版〕は決断主義者である修二の成長物語である。だが、修二の成長とは当然、決断主義者としての能力を上げることではない。……「新しい歴史教科書をつくる会」を批判するリベラル派たちが結局子どもたちに別の偽史を強要するしかないように、それでは決断主義を克服したことにならないからだ。(単行本174頁;文庫版202-203頁)

 このように、宇野は歴史修正主義を巡る闘争にすら「どっちもどっち論」を適用するが、「否定と肯定」を対等に扱うことが、結果的に「否定」側を利することにしかならないのは言うまでもない。「イデオロギーフリー」を称する言説にありがちなように、歴史的事実や普遍的倫理に対する懐疑は、反知性主義・差別・暴力に対する秋波へと容易に転じていく。自由を抑圧する自由や多様性を否定する多様性は認められない。これらを認めるのは、端的に破壊の肯定であろう。しかし、いつの世も破壊主義者はその破壊の影響が自分自身にも及ぶとは考えないものである。宇野も御多分に洩れず、「俺は嫌な思いしないから」という姿勢を取っている。

何が正しいのか、何に価値があるのか、もはや歴史も国家も教えてくれない。でもその代わり、私たちは自由な世の中を手に入れた。かつては、神様がいて、それに従うにせよ反抗するにせよ大きな基準(物語)を示してくれた。そして今は、私はいつでも好きな神様を信じ、いつでも見限ることができる。自分で考え、試行錯誤を続けるための環境は、むしろ整いつつあると言えるだろう。ついでに言うと、私はこの(冷たいかもしれないが)自由な世の中が、たまらなく好きだ。(単行本334頁;文庫版388頁)

 その当然の帰結として、宇野の主張は、不断に負担を外部(国内の貧困層、途上国の人々、マイノリティ、ひいては「自然」そのもの)に押しつける「帝国的生活様式」(imperiale Lebensweise)の擁護にならざるを得ない(「帝国的生活様式」については、さしあたり斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社新書、2020年、第1章を参照)。さらに、宇野は『ゼロ年代の想像力』のハヤカワ文庫版に掲載された語りおろし原稿「ゼロ年代の想像力、その後」(2011年)において、新自由主義と結託した資本主義を擁護し、左翼を嘲笑する論陣を張っている。つまり、彼が「たまらなく好き」なのは資本主義そのものなのである。

僕はバブル崩壊後の世の中がそんなに悪くないと思っているんです。たしかに安定はなくなった。けれど自由は広がった。僕は今のほうが生きやすい世の中になったとずっと思っているんですよ。……転職や結婚の自由がこの二十年でどれだけ広がったか、仕事や家族以外の生きがい、たとえば「趣味」を人生のメインディッシュにする生き方がどれだけやりやすくなったか、考えてみてほしいんですよ。戦後的な「安定」の代価だった「不自由」がある限り、これらのものは絶対に手に入らなかったと思う。終身雇用に支えられた会社共同体が崩壊してくれたおかげで、どれだけ僕らは自由になったか。(文庫版416頁)

文学や思想の世界は圧倒的に頭が固くて、そして時間が止まっている世界なんです。……グローバル資本主義を無理やり大きな物語に見立てて物語批判によって脱構築しなければいけないというような左翼的ロジックが今でも普通に市民権を得ているんです。信じられないでしょう? けれどそういう発想をしていたら絶対に今の世界や文化を考えることはできないですよ。結論ありきで何かを読み解いていったら世の中は最悪なものにしか見えないでしょう。(文庫版458頁)

 宇野の言説は「良い子は真似しないでください」の典型例だろう。宇野が手放しに「転職や結婚の自由」を礼賛してから十年以上が経過し、明らかになったのは、就活/婚活は将来的なヴィジョンを失って漂流し、「趣味」に生きるはずのオタクは周囲の近代家族形成に苛まれてアンチフェミ・インセル・表現の自由戦士と化していったという悲しい現実であった。当然のことながら、全員が宇野的な「帝国的生活様式」を享受できるはずもなかった。これほど野放図に流動化が進行した状態を「自由」などと呼べるものか。次節で見ていくように、「転職や結婚の自由」と言ってみても、実のところは資本主義が巧妙に仕組んだ「自己啓発」という詐術に唆されているだけなのだ。議論を次の段階へ進めるために、高度経済成長期以降の「婚活」にかかる思想史を把握することから始めよう。

就活/婚活の漂流と「自己啓発」の罠

 政治学者の佐藤信『日本婚活思想史序説:戦後日本の「幸せになりたい」』(東洋経済新報社、2019年)の中で、「結婚」を「独身脱出」(=結婚する行為)と「結婚生活」(=結婚している状態)の二段階に分けることを提唱している(佐藤『日本婚活思想史序説』、26頁)。
 その上で佐藤は、高度経済成長期以降の「婚活」の展開を、「独身脱出」を重視する思想と「結婚生活」を重視する思想のせめぎ合いという観点から整理する。佐藤によると、1970年代に恋愛結婚の理想が限界を迎えたことで、二つの対極的な反応が現れたという。

恋愛の先にラブラブな結婚をするという結婚観は、生殖が余裕をもって可能な時期でのみ適用可能なビジョンにすぎない。大人たちはモラトリアム(ゆとり期間)の間は悠々と子どもを見守ってもくれよう。無論それが成功すれば言うことないが、いざ生殖の困難が予感されれば、親が介入してもはや理想の恋愛結婚は維持できなくなる。こうした冷徹な結婚の現実を目の前にして、反応は二つに分かれる。一方は自由を重視して結婚に縛られることを拒否する立場、他方は冷徹な現実に合わせて「婚活」――もちろんその当時はそんな単語はないが――を行う立場である。(同書42-43頁)

 佐藤は、前者の代表例に雑誌『クロワッサン』(1977年創刊)、後者の代表例に雑誌『結婚潮流』(1983年創刊)を挙げている。佐藤は、『結婚潮流』が「一方では結婚を否定せんとする当時のフェミニズムと闘いつつ、他方では保守的な結婚観と闘うという二正面作戦」をとったことに着目し(同書66頁)、「結婚生活」の方に重きを置く思想を提示した媒体として同誌を位置づける。

 そもそも、かつてのイエ制度のもとでは結婚はイエの存続という壮大なるプロセスの一部だった。そして、イエに合う、つまり結婚生活に合う相手をマッチングする見合いという配偶者選択はそれに適した制度だった。ところが、イエ制度が崩壊し、恋愛結婚が隆盛するようになると、恋愛→独身脱出ばかりが強調されて、結婚生活が軽視されるようになる。そんななか、雑誌『結婚潮流』は結婚生活の重視を訴えることで、恋愛→独身脱出→結婚生活というプロセスとして結婚を再構成しようとしていたと整理できるだろう。(同書63頁)

 しかし、『結婚潮流』は「結婚生活」という将来的なヴィジョンを示す力を徐々に失っていった。1985年から誌面のマンネリ化と編集方針の蛇行が顕著になり、保守的結婚観への回帰が進んでいった。結局、1987年1月に発行元が倒産したことで『結婚潮流』の命脈は絶たれ、80年代において「結婚生活」を重視する思想は敗退に終わった。佐藤はそう論じている。かわって登場したのは、シングルライフの満喫を打ち出した雑誌『Hanako』(1988年創刊)「独身脱出」に焦点を合わせた雑誌『ゼクシィ』(1993年創刊)であった。

『Hanako』のキャッチコピーは「キャリアとケッコンだけじゃ、いや」だった。つまり、いくら女性の社会進出が進んだと言っても、女性のライフコースには常に結婚が想定されていた。DINKs(子なし共働き)に明るい光を当てて結婚を明るく描き出そうとする試みもあるにはあったが、社会全体には、自由を満喫できる独身時代と、それとは切り離された結婚生活とを分断する結婚イメージが蔓延していた。(同書97-98頁)

 結婚が自由で楽しいシングルライフの終末ということになれば、自由を満喫する女性ほど、ますます独身時代を楽しもうとするだろう。そうして独身が明るくなればなるほど、ますます結婚生活は暗く見える。こうして悪循環は亢進して、恋愛の溢れたシングルライフと結婚生活のイメージの亀裂は広がっていく。(同書103頁)

同じ結婚関連の雑誌とはいえ、『結婚潮流』と『ゼクシィ』とのあいだには大きな亀裂が広がっている。『結婚潮流』は結婚生活への想像力を喚起しようと試みたが野垂れ死んだ。他方、『ゼクシィ』を含む、その後の結婚雑誌は、「完結したゴール」としての独身脱出に焦点を当て、独身脱出の方法や儀式(特に結婚式)へとその視線を移して生き残った。(同書107頁)

 こうして、90年代を通じて、「独身脱出」後に待ち構える長い「結婚生活」をどう過ごすかというヴィジョンはますます薄れていった。しかし、ゼロ年代に突入すると潮目が変わり、再び「結婚生活」を重視する思想が台頭してくる。折しも、長期不況及び構造改革に起因する雇用の流動化と賃金の引下げがマッチングの不全を生じさせる一方で、ライフスタイルの多様化を後押ししていた。これを背景として、各々のライフスタイルに応じた「結婚生活」を思い描くという形で、「結婚生活」を重視する思想が息を吹き返すことになった。

自分自身で自分の適性を見極め、適性の合う仕事を選んで、よりよい人生をマネジメントする、そのために自分自身を商品としてマーケティングする、ないしするべきという姿勢は、現代においては広く受け入れられている。(同書117頁)

 そもそも、こうして個人個人が戦略的に自分をマネジメントする、とりわけマーケティングのように婚活する前提には、ライフスタイルの自由化がある。想像してみて欲しいが、ライフスタイルの自由度が低い社会ではターゲットの選択の幅は狭いし、自分を自由にブランディングすることもできない。(同書119頁)

 ただし、「結婚生活」を重視する思想といっても、これは単純な80年代への回帰ではなく、長期不況を前提とした新自由主義的な色彩を強く帯びたものであった。将来的な安定が見込めないという冷徹な現実に順応して、熾烈な婚活市場を「条件婚活」ないし「マーケティング婚活」によって勝ち抜くという発想である。ここで、婚活市場にエントリーする候補者は果てしない「自分磨き」、すなわち「自己啓発」へと導かれることになる。

 能力開発を通したこれらの婚活ハウツー本が前提としていたのはマーケティング婚活論だった。自分が求める条件の相手を手に入れたい。ならば、自分も相手の求める条件を有していることが望ましい。容姿や収入や家柄や家族は簡単には変えられないのだから、あとは資格やファッションや立ち振る舞いを手に入れよう、そう考えられたのは至極自然なことだった。(同書169頁)

 かかる処世術は現代の「就活」にも影を落としている。「就活」は「御社」との幸福なマッチング(内定獲得)を求めて行われる点で、これまで述べてきた「婚活」と同様の原理に貫かれていると言うことができる。学生たちは、「就活」の成否がGPA(Grade Point Average)、インターンシップ経験、社会貢献活動といった「意識の高い」事柄に左右されると信じてやまず、在学中から持ち出しの「自己啓発」へと駆り立てられている。この方向性が、宇野の言う「決断主義」の時代における新自由主義的な生存戦略と軌を一にしているのは明らかであり、その意味で宇野も時代精神の申し子に過ぎなかったと言うべきだろう。
 しかし、問題の本質は新自由主義ではなく、資本主義そのものであると言わなければならない。社会学者のヴォルフガング・シュトレークは、新自由主義への肩入れこそが、資本主義にとって唯一の延命策であったという議論を展開している。

 振り返ってみれば、1970年代が一つの転換期であったことに、もはや異論の余地はない。ここで戦後復興が終わり、戦後資本主義の政治的世界秩序そのものともいうべき国際通貨体制がほころび始めた。同時に、資本主義の発展契機である経済活動が再び危機的攪乱や停滞に見舞われた。
(ヴォルフガング・シュトレーク(鈴木直訳)『時間かせぎの資本主義:いつまで危機を先送りできるか』みすず書房、2016年、26頁)

 振り返れば、1970年代以後の後期資本主義の危機の歴史は、資本主義と民主主義のあいだに介在するきわめて古く、根本的な緊張関係の漸進的な拡大過程だった。言ってみればそれは、第二次世界大戦後に資本主義と民主主義を結びつけた強制結婚の段階的解消過程だった。(同書30頁)

 シュトレークはこのように述べて、「民主主義の脱経済化による資本主義の脱民主主義化のプロセス」の提示を試みる(同書30頁)。1968年の「ストライキの波」と1973年の石油危機によって、高い経済成長率を維持することが不可能になると、価値の自己増殖を大前提とする資本主義は民間の自助努力に頼らざるを得なくなった。そして、自助努力を担う責任は企業から労働者へと転嫁されていくことになる。

民主主義的・資本主義的な平和の公式を支えてきた持続的な高度成長に頼ることなど、もはやできなかった。完全雇用を維持するために利潤を犠牲にし、多大な経費をかけて生産と生産物のあり方を工夫し、高賃金と小さな賃金格差を保ちながら安定雇用を維持する。そんな努力目標は企業や企業収益依存者に大きな犠牲を強いることになる。……資本主義経済を、戦後復興期の官僚的・政治的な、あるいはコーポラティズム的な規制から解放し、社会的規制の危険と背中合わせの国家政策に頼ることなく、自由市場と規制緩和によって適切な収益幅を再獲得すること、これが資本側にとっては唯一の解決策に見えた。(同書55-56頁)

 新自由主義への転換は時間をかけて行われた。……新たな労働市場もまた支持者を獲得した。職業労働が個人的自由と同義となった女性たちは言うに及ばず、若い世代もまた支持者の列に加わった。彼らから見ると、就業条件のフレキシビリティには、個人化し、脱伝統化した社会生活のフレキシビリティが反映しているように感じられた。少なくとも彼らは、一つの企業に50年間永続勤務をして金時計をもらうといった悪夢を心配する必要はなくなった。ただし、自分で選んだモビリティと強いられたモビリティの違い、自由業と不安定雇用の違い、解雇を通告することと通告されることの違い。この違いを、雇用者側と政治はあの手この手で言葉巧みにぼかそうとした。小さい時から世の中は実力世界だと聞かされ、労働市場をマウンテンバイクやマラソンのようなスポーツのチャレンジと同じものと感じている世代には、このぼかし作戦は大いに成功した。(同書58-59頁)

 このような詐術によって、「ヒューマンキャピタル的発想でみずからの付加価値の向上に血道を上げる能力開発ファナティズムと能力開発フェミニズム」(同書44-45頁)、一言で言えば「自己啓発」が職場に浸透し、労働者の新たな教義となった。それは思想家のイヴァン・イリイチに倣って、「シャドウ・ワーク」と呼んでもよかろう。

私の関心は、まったく異なった形の支払われない労働である。これは、産業社会が財とサーヴィスの生産を必然的に補足するものとして要求する労働である。この種の支払われない労役は生活の自立と自存に寄与するものではない。まったく逆に、それは賃労働とともに、生活の自立と自存を奪いとるものである。賃労働を補完するこの労働を、私は<シャドウ・ワーク>と呼ぶ。これには、女性が家やアパートで行なう大部分の家事、買物に関係する諸活動、家で学生たちがやたらにつめこむ試験勉強、通勤に費やされる骨折りなどが含まれる。……強制される仕事への準備、通常「ファミリー・ライフ」と呼ばれる多くの活動なども含まれる。
(I. イリイチ(玉野井芳郎/栗原彬訳)『シャドウ・ワーク:生活のあり方を問う』岩波書店、同時代ライブラリー、1990年、205-206頁)

<シャドウ・ワーク>の場合は、……時間、労苦、さらに尊厳の喪失が、支払われることなく強要される。けれども、よりいっそう経済成長をすすめるためには、<シャドウ・ワーク>の支払われることのない自己開発が、ますます賃労働よりも重要なものになってくる。(同書207頁)

 シュトレークとイリイチの議論を併せて読むと、労働者の「自己啓発」を頼みにする現代資本主義の姿が浮かび上がってくる。イリイチは「シャドウ・ワーク」を「懲役はもとより奴隷や賃労働とも異なる独自な束縛の形」と呼んでいるが(同書207頁)、この束縛は自発的なものであるかのように巧妙に偽装されているのだ。強いられた「自己啓発」という撞着語法に気づかず、「自己啓発」に励んで互いに蹴落とし合う労働者は、資本の側にとってこの上なく都合の良い存在である。労働者が「自己啓発」の罠から抜け出るためには、やはり資本主義というシステム自体を問い直さなければならないのではなかろうか。以上の議論の積み重ねを経て、話は再び『友崎くん』へと戻っていく。

自助努力と脱成長は両立するか

 『友崎くん』において、日南葵と友崎文也は両極を構成している。それは一見すると、勝ち組/負け組、陽キャ/陰キャ、モテ/非モテといった二項対立に見える。ほかにも、本作の舞台である関友高校では、女子は制服にネクタイとリボンを選べるが、暗黙の了解としてカーストが低い女子はネクタイを着用してはならないという設定があるなど、勝ち組/負け組の二項対立は表面的には際立っている。しかし、日南と友崎の対立は、究極的には自助努力の質を巡る争いであって、勝ち組/負け組(本作の言葉遣いに従えば強キャラ/弱キャラ)の二項対立と見るのは浅はかである。この通俗的な二項対立は、資本主義によって仕組まれた「自己啓発」プログラムが就労前の生徒にまで及んだ結果、生み出された幻影に過ぎない。
 第1話において、日南は「私に勝っている人間がくだらなかったら、私までくだらないみたいじゃない!」と言う。日本一のプレイヤーが「陰キャ」だったのがどうしても許せないのである。日南は、自分より上位の人間はもっと努力しているはずだという思考に支配されている。彼女の中で、自助努力は競争相手ありきのものと位置づけられる。他方で、友崎は「ただ自分のために『アタファミ』を続けてきた」と言ってのける。友崎にとって、自助努力とはあくまで自分との戦いであり、競争相手がいることは本質的な意味を持たない。本作はこの両極を主題とした変奏曲と言うべきだろう。作中で友崎は日南に所作や見た目を矯正されつつも、根本的な価値観までは揺らがないため、事あるごとに日南と衝突を繰り返す。この衝突の局面を細かく見ていくことで、本作の提示するオルタナティヴが明らかとなる。
 日南は友崎を自宅に招いて、「人生というゲームに本気で向き合いなさい!」と説教する。彼女に言わせれば、人生は理不尽でも不平等でもなく、シンプルなルールを制することで勝ち抜くことができる「神ゲー」である。人生における大目標・中目標・小目標を設定し、小目標から順に、達成へ向けた地道な努力を重ねることでステップアップを図るという、いかにも「自己啓発」的な処世術を、日南は友崎に伝授する。このように彼女が「自己啓発」へ駆り立てられる背景には、人生を戦いに準える思考が控えている。第2話で、日南は「人生っていうゲームはどんどん戦った方が得」であり、「戦闘に負けたときにこそ経験値が入るもの」だと述べる。また、「おにただ!」(鬼のごとく正しい)という彼女の口癖は、「戦うことの正しさを描いたゲーム性」ゆえに評価されているゲームソフトから取られたものであることが明かされる。人生を戦闘のアナロジーで理解する思考は、「戦わなければ生き残れない」というゼロ年代バトルロワイヤル状況と相性がよく、その意味で日南は宇野の言う「決断主義者」の典型例である。第5話における日南の言葉は、「優雅にバトルロワイヤルを戦う」、「めいっぱい楽しみながら克服する」ことを奨励する宇野の立場を代弁するように聞こえる。

自分の思う正しさに甘んじて、ただそれを叫んでいるだけじゃ、相手の意識は変えられない。それなら、こちらが変わるべきよ。自分の提案が正しいと確信するなら、それを通すため、間違ったルールを利用してやらないといけない。うわべだけ取り繕ってでも、みんなが納得するような意見にカモフラージュする。そして本質的な正しさを変えることなく、自分の提案を通す。これが正しい戦い方よ。

 このように考えると、本作における格闘ゲームという要素も蛇足とは言えず、「人生というゲーム」が絶えず競争の波にさらされたものだという日南の認識を象徴していると言えそうである。しかし、本作は自己責任論や弱肉強食論を安易に打ち出すのではなく、それらに待ったをかけることを部分的に志向している。第4話で、友崎はクラスメイトの泉優鈴から、何のために「アタファミ」をそこまで極めているのかと問われ、「別に俺は、『アタファミ』を何かのためにやってるわけじゃないぞ。みんなと仲良くなるためでも、人に褒められるためでもない」とこともなげに答える。「自分で強くなるって目標を決めたのに、達成できない方が嫌っていうか」と言う友崎は、「アタファミ」を競争の舞台とは考えていないのである。競争相手ありきの自助努力を自分との戦い(いわば「真の自助努力」)で撃つ構図は、新自由主義と野合する資本主義によって強いられた「自己啓発」を批判する道を拓く。第5話で、彼は「決断主義」を一旦受け入れた上で発展解消させるという宇野的な戦略を拒絶しようと試みる。

日南 提案の通りやすさと、その提案の実際の正しさは関係ないの。
友崎 じゃあ、極論正しくなくても聞こえのいいことで騙せばいいってことかよ?
日南 ええ、そうよ。
友崎 なんだよそれ! 必ずしも正しいことが通らないなんて、おかしいだろ!
日南 違うわ。正しさよりもみんなをより納得させた方の提案が優先されるって、シンプルなルールがあるだけ。
友崎 そんなの屁理屈だろ。クソゲーじゃんか!

 第5話では、友崎は戦略交渉ゲームの比喩によって日南に言い負かされてしまう。しかし、彼は自分の価値観を捨てず、二人の対立は回を追うごとに鋭いものになっていく。第6話から第8話にかけて展開される生徒会長選挙戦で、友崎は日南の対立候補である七海みなみの参謀役を務めることになる。彼女は天真爛漫を装う努力家の万年二位キャラである。第6話で、彼女は「一番ってすごい目立つし有名になるけど、二番は違うの」とこぼす。彼女は生徒会長選挙で日南との一騎討ちに敗れ、勉強でも陸上競技でも日南に敵わないという現実を改めて突きつけられて、心が折れる寸前まで追い込まれてしまう。努力しても報われない、正確には競争相手ありきの自助努力に囚われる彼女の姿を近くで目にした友崎は、競争に勝ち抜くことに固執する価値観に対して疑問を呈する。

友崎 一位じゃないとダメなんてこと、ないのにな。
日南 思ってもないことを言うのね。
友崎 えっ?
日南 だって、私と同じはずでしょう、「アタファミ」をあそこまで極めた「nanashi」なら。
友崎 なんだよ、お前と同じって……。そりゃ対戦で勝ちたいのはもちろんだけど、一位以外がムダになったら、世の中のほとんどがムダなのかって話になるじゃん。どっちかって言うと、俺はむしろ、自分に負けたくないっていうか……。
日南 それ本気?
友崎 ああ、「アタファミ」は自分との戦いだ。

 友崎はここでも「自分との戦い」を掲げるが、日南は「そう」とだけ言って目をそらしてしまう。なお、この友崎の言葉は、民主党政権時代の「事業仕分け」における蓮舫の「二位じゃダメなんでしょうか?」という発言を曲解・揶揄してきた人々への皮肉とも受け取れるようで興味深い。

 二人の間の溝は、第1話で友崎に課された「3年に進級するまでに彼女を作る」という中目標の達成を巡って深まっていく。第9話で、友崎は日南の指示に従ってクラスメイトの菊池風香を映画デートに誘うことに成功するが、その終盤に菊池から「友崎くんって、急にすごくしゃべりやすくなったり、逆に急にしゃべりづらくなったりします」と言われてしまう。事実としては、映画の感想を一人でしゃべりすぎたと思った友崎が、事前に暗記していた話題に頼った結果、尋問会話になって相手を追い詰めてしまったということなのだが、友崎は自分のリア充スキルが足りず、場をつなぐことができなかったから、相手に居心地の悪い思いをさせてしまったのだと解釈してしまう。しかし、第10話から第11話にかけての一泊二日のバーベキュー大会で、「リア充」たちの本音を聞いた友崎は、「仮面を選ぶか、本音を選ぶか。演技をし続けるか、本気で向き合うか。現実を画面の外からプレイヤー目線で見るか、それともキャラクター目線で見るか」という対立を明確に意識するに至る。そして彼は、菊池との花火大会デートで、暗記した話題を捨てて「素の自分」に戻り、告白せよという日南の指示を破る決断をする。こうして、しゃべりやすさ/しゃべりづらさは反転し、友崎と菊池の関係は好転へ向かう。
 菊池とのデートが終わった夜、友崎は日南を呼び出して、菊池への告白を「できなかったんじゃなくて、しなかった」理由を語る。その上で、対策や攻略法という思考で人生に臨むことをやめないか、と日南に迫る。

あのときは、俺のスキルが不足してたからしゃべりづらかったのかと思ってたけど、そうじゃなくてさ、そもそもスキルを使ってたから、しゃべりづらかったってことだろ。これって感覚的に見抜かれてたってことだよな。俺の作ってた仮面を。

 友崎の問題提起に対して、日南は次のように応答する。人間の「本当にやりたいこと」は存在せず、ここにすがるのは弱い人間の証である。そんなものは一時的な幻想、勘違いでしかなく、無意味であると。この見解に友崎は再反論し、「無意味なんかじゃないはずだ。俺は本当にやりたいことを優先したい」、「誰と仲良くするとか、誰かに告白するとか、そういう人との繋がりを、課題とか目標で判断してるのが、そもそもおかしいんじゃないのか」と告げる。日南は彼の言葉に失望し、「人生の目標を放棄するなら、それはもう成長することを放棄したのと同じ」と述べて去っていく。「本当にやりたいこと」を否定し、「成長」に固執する日南の立場は、宇野の『ゼロ年代の想像力』の以下の箇所を彷彿とさせる。そして、その「成長」とやらも現代資本主義が前提として強いるものにすぎず、果てしない「自己啓発」の負担が労働者に転嫁されるのが落ちであることは、これまでの議論の通りである。

あなたはコミュニケーション次第で、あなたの所属する小さな物語での位置を書き換えることができる。あなたが自身に抱く自己像は決して「ほんとうの自分」ではなく、願望にすぎない。そしてあなたがその共同体の中で与えられた位置は、その共同性=小さな物語の中でしか通用しない(物語に隷属する)キャラクターにすぎない。あなたに与えられたキャラクターは、あなた自身のコミュニケーションによって書き換え可能なのだ。
 あなたが自分の思い浮かべる「こんな私」という自己像を誰かに承認してもらおうとしている限り、そしてそんな人間関係こそあるべき姿と考えている限り、おそらくあなたはどこへ行っても変わらない。
(単行本314頁;文庫版369-370頁)

 注意すべきは、友崎が自助努力を全否定しているわけではないということだ。本作はある種の二正面作戦を敢行している。競争相手ありきの自助努力を自分との戦いで撃つことで、努力したくない/努力せずに認められたいという幼児的な自己愛と、努力して現下の体制(特に資本主義)に順応してやるというイキリの双方を批判対象に含めている。
 宇野が『ゼロ年代の想像力』の中で「引きこもり/心理主義」と呼んで槍玉に挙げたのは、『新世紀エヴァンゲリオン』、「セカイ系」、そして「泣きゲー」であった。宇野は、現実に背を向けていじけたり、自分たちは現実を華麗にスルーできる「ニュータイプ」だと主張したりするオタクを徹底的に攻撃した。当然ながら、宇野の「オタク叩き」に猛反発するオタクも少なくなかった。しかし、今になって考えると、オタクも宇野も資本主義が好きでたまらないという点においては同じ穴の狢だったのではなかろうか。つまり、有り体に言えば、本作はオタクと宇野一派を一網打尽にしようとしているのだ。
 とはいえ、本作は日南と友崎の訣別には終わらず、一応の軟着陸を遂げる。第12話(最終回)で、友崎は自身の言行不一致に苛まれる。

俺は、本当にやりたいことで動かないと意味がないと日南に言いながら、日南に設定された目標を達成できたとき、心の底から嬉しく思っていたのだ。

 「本当にやりたいことで動かなくてもいいのだろうか」と悩んだ友崎は、菊池に「スキル」のネタバラシをして、相談を持ちかける。すると菊池は次のように述べて、競争ありきの自助努力すら肯定してみせる。

友崎くんと話してて浮かぶ映像って、最初の頃はモノクロだったんです。それはちょっとさみしい世界で、私が見てる世界に似てて、友崎くんも私と同じで世界がモノクロに見えてるってことなのかなって思ってたんです。(中略)けどね、何度も会って話すうちに、友崎くんから伝わってくる映像が、だんだんと、カラフルになっていったんです。(中略)友崎くんは短い間に、自分から見える世界の色をまるごと変えたんだなって。だから私は頑張って自分を変えるって、とても素敵なことだと思います。

 かかる聖女ぶりが視聴者に媚びたものであるというのはともかく、友崎は菊池に背中を押され、再び日南との対話に挑む。彼がその際、人生をゲームや戦闘のアナロジーで理解する日南の土俵に敢えて上がっていることを看過してはならない。彼は「俺はお前のおかげで、この人生ってゲームのことも好きになれた」と日南に寄り添う姿勢を見せつつ、泥臭い自分との戦いの重要性を「アタファミ」という共通項を使って主張する。

自分の本音を見つけようともがいて、本気で進んでいくことで初めて、そいつの本当にやりたいことが分かるんだ。いいか日南、お前は人生をプレイヤー目線でうまいことこなすばっかりで、本気の楽しさを知らないだろ。一つ教えといてやろう。確かにお前は「強キャラ」だ。けどな、いまや人生というゲームを楽しむことに関しては、お前よりも俺の方が上なんだよ。

俺は今まで、本当にやりたいことって燃料を使ってゲームをしてきた。だから俺は「アタファミ」で日本一になれているし、お前は俺に勝てないんだ。(中略)俺とお前の「アタファミ」の実力差を生み出しているもの、それこそ、本当にやりたいことを持っているかどうかなんだよ。(中略)悔しかったら、本当にやりたいことを持たないままで俺に勝ってみるんだな!

 日南は友崎の主張が「文句があるなら『アタファミ』で勝ってから言え」という詭弁であることを見抜くが、反論もできないことは認め、「私も半分は折れることにするわ」と述べる。こうして二人は一時休戦に至り、友崎は「俺のプレイスタイルはスキルと本当にやりたいことのハイブリッドってことだ」とまとめる。これはどっちつかずの暫定的な結論だが、自助努力と脱成長を両立させる可能性を残し、TVアニメ2期への布石を打ったと見ることもできよう。しかし、日南と友崎の対立の火種はいまだ燻ったままである。それはやがて再び表面化して燃え上がることだろう。日南葵という「強キャラ」はまさに資本主義の権化である。資本主義は死に体になっても、今際の際まで「成長」を諦めないだろう。本稿の冒頭で述べたように、資本主義を飼いならすことはできないし、資本主義の外に出ることも決して容易ではない。だが、この容易ならざる課題に取り組まない限り、我々は何度でも強いられた「自己啓発」の罠にはまることだろう。
 なお、本作のキャストを「弱キャラ」と揶揄する向きについても一言触れておく。確かに知名度だけで言えば、日南葵役の金元寿子と菊池風香役の茅野愛衣が二強であり、長谷川育美前川涼子稗田寧々といった女性声優陣はエマージングな位置を占めている。男性声優陣についても、クラスの「リア充」側を岡本信彦島﨑信長が固めてはいるが、主人公の友崎文也役を演じる佐藤元は現在絶賛売出し中といった様子である。しかし、メインキャラクター経験の少ない声優を起用することで、過去の出演作を過度に文脈化する声ヲタ的な邪念を差し挟む余地がなくなり、却って物語に集中できるようになったと言うこともできる。しかも、音声面で特段拙く聞こえる部分はないため、声優アニメとしても新鮮な喜びを与えてくれる。本作はモノローグや一人長台詞が多く、朗読劇的な自由度を持っているが、その分声優にかかる負担も大きかったことだろう。特に第4話においては、佐藤元は「人の努力を笑うんじゃねえ!」と1分半以上にわたって啖呵を切っており、まさに「声に画面がついていかない」状態が現出していた。とはいえ、こうした先走る感じは、自分との戦いを強調する友崎にマッチしており、悪くなかった。佐藤元の起用は「おにただ!」であったと言えよう。

おわりに

 かつて、「革命的非モテ同盟」は、「生き方は人それぞれで、恋愛をしない『非モテ』、そんな生き方があってもいい」と主張していた。あれから十年以上が経過し、「非モテ」の闘士たちはどうなったのだろうか。遺憾なことに、ある者は表現の自由戦士と化し、またある者は鍵アカウントで女性研究者の誹謗中傷を行う手合いの幇間となった。

 どうして、このような事態になったのだろうか。原因は複合的と思われるが、資本主義批判を貫徹できなかったことが一因なのは否定できないだろう。希少性を生み出し、相対的に値付けを行う(恋愛)資本主義の中では、人間は不断に消費行動へと駆り立てられ、他人から「モテ」たくなる。「モテることが『正義』という扱いはおかしい」という問題提起自体は悪くなかった。それが「なぜ私だけがモテないのか」というインセル的な不遇感へと転じてしまったのは、(恋愛)資本主義が好きでたまらないからである。(恋愛)資本主義というシステム自体を問い直さない限り、「非モテ」が競争原理に苛まれることは避けられず、恋愛工学的な「自己啓発」に没入してゲームを勝ち抜くか、それとも「弱者男性」意識を内面化してアンチフェミに堕ちるか、という最悪の二択が待ち受けている。「モテなくてもいい」という第三の道はそうそう選べない。
 既に述べたように、「帝国的生活様式」を奨励し、結果的に強いられた「自己啓発」の問題に目を瞑る宇野は、時代精神の申し子であった。『ゼロ年代の想像力』は、『SFマガジン』2007年7月号から2008年6月号に連載されたものに加筆修正を加えて、2008年7月に刊行された。これは後から振り返れば、絶妙な刊行タイミングだったと言わざるを得ない。2008年9月、リーマン・ブラザーズ証券の破綻をきっかけに金融危機が本格化すると、日本でも派遣切りが横行し、2008年末から2009年初にかけて「年越し派遣村」が耳目を集めることになった。アメリカでも2011年9月に「ウォール街を占拠せよ」運動(Occupy Wall Street)が巻き起こり、これ以来「99%の我々」対「1%の富裕層」という表現が人口に膾炙することになった。反資本主義の潮流は、世界的にますます激しさを増して、現在に至っている。2013年9月には経済学者のトマ・ピケティ『21世紀の資本』を発表した。ピケティは著書の中で、人類史のほぼ全期間にわたって資本収益率が経済成長率を上回ってきたという主張をして一世を風靡した。2019年9月の国連気候行動サミットでは、環境保護活動家のグレタ・トゥーンベリ「あなたたちが話せるのはお金のことや永遠の経済成長というおとぎ話ばかり」(all you can talk about is money and fairy tales of eternal economic growth)という演説をして喝采を浴びた。あまり売上至上主義的なことを書きたくないが、日本でも脱成長コミュニズムを打ち出した斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書、2020年)が「新書大賞2021」を受賞するなど、資本主義というシステム自体を問い直す思考は着実に広がりを見せている。歴史を嘲笑した宇野は歴史の一部となり、かつての宇野の立場を代弁するようなキャラクターがアニメの中でやり込められるとは、なんとも隔世の感がある。そうした意味では、『友崎くん』もまた時代精神の発露と言うことができるのかもしれない。

参考文献(2022年1月12日追記)

宇野常寛『ゼロ年代の想像力』ハヤカワ文庫、2011年。

斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社新書、2020年。

佐藤信『日本婚活思想史序説:戦後日本の「幸せになりたい」』東洋経済新報社、2019年。

白岩玄『野ブタ。をプロデュース』河出文庫、2008年。

I. イリイチ(玉野井芳郎/栗原彬訳)『シャドウ・ワーク:生活のあり方を問う』岩波書店、同時代ライブラリー、1990年(文庫版:岩波現代文庫、2006年)。

ヴォルフガング・シュトレーク(鈴木直訳)『時間かせぎの資本主義:いつまで危機を先送りできるか』みすず書房、2016年。

フレドリック・ジェイムソンほか著、スラヴォイ・ジジェク編(田尻芳樹/小澤央訳)『アメリカのユートピア:二重権力と国民皆兵制』書肆心水、2018年。

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