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#464 学びを止めた人は、その人自身の尊厳を失う

 私は民主主義がこれまでの人類史の中で最も高度で、且つ私たちの自由を保障する政治思想であると考えています。その民主主義を支える上で大切なのが「言論・表現の自由」。自分の考え方や意見を述べる権利は、一人ひとりの多様な価値観を反映するために非常に役立ちます。

 一方で、何事においても「自由」を扱うためには、多くの知識、正しい思考、想像力など多くの能力を必要とします。言論の自由においても、「何をいっても良い」という間違った解釈によって他者を傷つける人もたくさんいる。それは言論の自由が本来意図する目的とは全く異なります。

 『私はクルド人が嫌い!」はヘイトスピーチ? とっても難しい「誹謗中傷」と「意見論評」は何が違うのか』という記事を見つけました。

 国際大学GLOCOM客員研究員である小木曽健氏は記事の中で、誹謗中傷(=ヘイトスピーチ)と意見評論の違いに言及しています。

 実はヘイトスピーチの定義って凄く難しくて、しかも「言論の自由」の眉間ど真ん中に突き刺さる話なのに、ちゃんと議論されることが殆ど無いんですね。(中略)例えば、「クルド人はダメ人間だ」これはヘイトスピーチですね。特定の人種や宗教、出自などを一括りにして攻撃・侮辱する=ヘイトスピーチ。クルド人全体を雑にまとめ、その存在自体を批判している。(中略)「わたしはクルド人が嫌いだ」これはどうですかね? 恐らく多くの方が「これもヘイトスピーチでは?」と判定しそうですが、残念ながら違います。この発言、実はクルド人を批判しているのではなく、その人の気持ち(なぜ嫌いなのかは知りませんが)を表明しているだけ。人種に対する悪口ではありません。(中略)もちろんこの発言は本人にとってリスクだし、そのリスクはすべて本人が背負うワケですが、だからこそ「ご自由に」なのです。つまり「~ダメ人間だ」は誹謗中傷で「~嫌いだ」は意見論評。ただ、困ったことに多くのケースでこの2つは混在しています。「クルド人はダメ人間だから嫌いだ」みたいな。SNSで地獄の殴り合いが起きるやつですね。ヘイトスピーチって論じるのが本当に難しいのです。

 以前職場の同僚と批判と否定の違いについて話したことがあります。批判とはある共通の理念(目的)を持って現状をよりよくするためのもの。現状を適切に把握し、改善すべきことを明確化し、相手の心情に寄り添い言語化することです。否定は、相手への攻撃を目的とした暴力行為です。自分の何かしらの心の葛藤や不満、嫉妬に起因する負のエネルギーを言葉という武器を使って相手に乱れ打つ。これは決して言論の自由ではありません。

 自由を扱えない私たちは、いずれ自ら不自由を選び、結果言論の自由も民主主義も滅びてしまう。だからこそ私たちは「賢く」ならなければならず、そこには必ず「学び」が必要なのです。学びを止めた人は、その人自身の尊厳を失うのです。


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