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❛自分❜とは? 「十牛図入門」

「十牛図入門 『新しい自分』への道」 横山紘一 幻冬舎新書

お勧め度 ★★★☆☆

適当に借りた本の中で、一番薄かったから読んだこちら。
仏教、禅思想の本であるため、私も含め、無宗教という方には、
少し手が出しにくい、というか出す気が起きない類の本かもしれません。

【全体の感想】
正直悟りがすぎて別世界の人、という感じは残るものの、
それに関連?する仏教の教えや、十牛図をめぐっての「自分とは」「幸福とは」という問いについては、丁寧で、論理的な解説をしています。

たとえ話や説明が上手いし、口語調なので硬い感じもしない。ので、読みやすいです。
押しつけがましい宗教色は薄く、純粋に学問の書としても楽しめるかと思います。
そして何より本書の一番の肝は、「自己」についての、「視点の広がり」にあるかと思います。

【中身】
今回の題材となっている「十牛図」。

「一言で説明すると、『牧人』が、逃げ出した『牛』を探し求め、飼い慣らし、やがて姿を消していく過程を十の図で表したもの」(まえがきより)。

すでに本書のタイトルからも連想されるように、「牧人」は「真の自己を探す者」、「牛」は「真の自己」をあらわしており、❛真の自己を探す旅❜の過程と結末を、十の図で表現したものです。(画像は本書の導入部から転載。また、各章には拡大した図が、それぞれ単体で掲載されている)

第八図の空白が気になりますが、一見すると、❛ある人が苦労をして牛(自己)を探し出し、鷹揚《おうよう》な心をもって、他人(子童)に対して手を差し伸べる聖人になった❜、
そういう比喩的ストーリーのように見えます。

ところが、本書で明かされる「旅」の道程、仏教、釈迦の教えに基づく解釈では、単純な自分探しの旅ではなく、「自分が存在しているというのは自分の思い込み」、「言葉で考えられたものは非存在である」など、ここだけ切り取ると、まるで難解な哲学からの挑戦のような数々の・・・なんというか、憑きもの落とし(否定)の応酬が起こるのです。
ここで私たちに問われるのは、私たちが絶対的に信じて疑わないもの、例えば「自分」という単一の存在、「言葉」の絶対性、さらには「可視」と存在の絶対性、などなど・・・・・・。

興味深いのは、私たちの悩み、苦しみ、憎しみは、すべてわたしたちが絶対的なものとして存在を疑わない、あるいは価値を置いているものに宿るといった旨の指摘です。
本書は、これらに解毒的に介抱を施すのではなく、読者それぞれが静かにそれらを吟味し、問い直す時間をただ得ることができるというところに、その特色があるように思います。

仏教には、人間の発する3つの疑問詞に対する答えが、以下のようにあると記載されています。すなわち、

・「なに」に対しては、「無我」「空」
・「なぜ」に対しては、「縁起」
・「いかに」に対しては、「菩薩行」

これらは第八図、「真っ白な空(人牛俱忘)」についての解説から引用したものですが、「自分」というものが思い込みであるなら、「言葉」が絶対的なものではないなら、いったい私たちはどこに、何に生きているというのでしょう。

十牛図の最後の図では、かつての迷える「牧人」(お分かりの事と思いますが、これは私たち「凡夫」を表しています)が、微笑みを浮かべて「子童」(小さい子という意味ですが、十牛図での本意は別にもあります)に手を差し伸べています。

迷える人であった彼はいったい、何者になったのでしょう。
なぜあのような表情をし、町に出て子童に手を差し伸べているのでしょう。

後だしじゃんけんのようになりますが、本書に通底するもうひとつのテーマは、「自分とは何か」「幸福とは何か」ということであると思います。

論理、科学、経済、次から次へと湧いてくる人的分類、そして、価値・・・・・・。
私たちを測る私たちの指標は、いまや有象無象に転がっています。

そのような中にあって息が苦しくなったとき、本書の言う「ただある」ことに思いを巡らす時間が持てれば、現代という閉塞の中で、「自ずから然り」の、「自然」の景色に出会うことができるかもしれません。

【最後に】
この本に「価値」という言葉をあててしまうのは、一読した身としては無粋に思いますが、ひとつの「価値」に対する回答(正答ではなく)ではないかと思います。
ご興味をひかれた方、そしてここまでお読みいただいた方、
ありがとうございました。

西奈





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