大江健三郎氏の死を悼む

 今年3月13日、大江健三郎氏が老衰のため死去したと報じられた。報道によれば、3日に死去したとのことであるが、3月11日という日付を考慮に入れたのかどうかはわからないが、とにかく10日後の公表ということになった。
 この一面識もない文学者の死をなぜ悼むのかと思われるかも知れないが、大江氏は私に多大な影響を与えた文学者の一人であった。実のところ、私が大江氏の作品を本格的に読み始めたのは史学科の学生の頃のことである。これは非常に遅いと思われるかも知れない。これまでに、夏目漱石や太宰治、三島由紀夫、カフカ、カミュ、ドストエフスキーの作品をいくつか読んでいたが、大江氏の作品には当時あまり関心がなかった。読むには読んでいた。ただ、「死者の奢り」や「飼育」や「奇妙な仕事」あたりを収録した初期短編集ぐらいである。
 大学に進学するにあたって、文学に自信のなかった私は、成績が良かったという理由で歴史学を専攻することにしたのだが、これが失敗であった。以降、以前にも増して小説や批評文を読むようになった。『芽むしり仔撃ち』といい、『万延元年のフットボール』といい、『同時代ゲーム』といい、私は大江氏の想像力に圧倒された。同じ頃には、中上健次の小説や柄谷行人氏の批評文も読み始めた。そこから、サルトルやフォークナーをも読むようになったが、その難解な内容をどれだけ理解できたかあまり自信がない。
 そして、それを背景に私は小説を書くことを試みたのであるが、なかなかうまくいかず、結局は断念した。今から思えば大江氏の諸作品を理想としたこともあったが、私には小説を書く才能がないとつくづく思わされたものである。
 ところで、大江氏は小説やエッセイの執筆の他に、社会的な発言でも大きく際立っていた。いちいち具体例を挙げるつもりはなく、戦後民主主義者という自己規定にも批判は多いが、ただ一つだけ、東日本大震災とそれによる福島第一原子力発電所の事故は私にとって非常に大きな出来事であった。偶然にも、その日は大学の合格発表日であったが、その日のその時刻に私は屋外にいた。私の住む神奈川県でも揺れは非常に大きかった。私は当初、疲労による眩暈と思ったものだが、周囲の人々の様子から地震であったことに気づいた。揺れが大きかったことから震源地はここから近いと考えたものだが、後からの情報で宮城県と聞いて驚愕した。私はすぐに家に戻り、テレビを見た。画面には現地の津波の様子や原子力発電所の事故の様子が映し出されていた。阪神・淡路大震災の時に2、3歳でしかなかった私にとって、大震災とはこのようなものかと身震いしたものである。
 それからしばらくして、大江氏が呼びかけ人の一人となった「さようなら原発1000万人アクション」が始まった。それは、私が大江氏の作品を本格的に読み始めた時期と重なる。だからと言って、それとこれはあくまで別である。「さようなら原発1000万人アクション」とも関わりはない。ただ、福島第一原子力発電所の事故と、当時は民主党政権であったが、その後の政府と東京電力の対応は私を脱原発やアナーキズムに傾斜させるには十分であった。私は個人の資格でデモに参加するようになった。
 大江氏はその後、2013年に『晩年様式集』を刊行し、これが最後の小説作品となった。2014年には、純文学を志す有望な若手作家を世界に紹介する目的で創設された大江健三郎賞が終了となった。そして2018年には、『大江健三郎全小説』の刊行が開始された。それ以降、大江氏の動向がメディアを通じて伝えられることはほとんどと言っていいぐらいなかった。脱原発のデモに参加する様子もなかった。参加するだけでもニュースになるはずだからである。日が経つにつれ、私は大江氏はもう公に姿を見せないのではないかと思うようになった。
 そんななかの訃報であった。訃報に際して、私は大江氏の影響力を改めて思った。大江氏に匹敵する小説家が誰もおらず、原発再稼働の気運が高まる現在を思えば尚更のことである。
 大江氏の死を惜しむ。

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