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エッセイ | 光と影の話ではない

私は、世の中には「表の世界」と「裏の世界」があると思っている。「裏の世界」なんていうと犯罪が横行して危ない世界を想像してしまうが、そうではない。

「日なたの世界」と「日かげの世界」という方があっているかもしれない。

生活をしていく中で普段から目にするモノは「日なたの世界」のモノだと考えている。意識をしなければ気付かないモノは「日かげの世界」のモノだ。


「日なたの世界」のモノは人々からありがたがられ、感謝される。それがソフトであろうとサービスであろうと変わらない。ソフトを作っている人、サービスを行っている人は尊敬されるのだ。

対して「日かげの世界」のモノはそうならない。「日かげの世界」のモノは「日なたの世界」のモノを構成するための一部にしか過ぎない。それがなければ成立しないことは皆んな分かっていても、目を向けることはない。だって気付かないのだから。

どうして「日なたの世界」と「日かげの世界」ができるのかを考えると、日なたを作る光源が存在することに気付く。


私は「光源」の正体を自分自身だと思っていた。私が見た世界は「日なたの世界」になると考えていた。見たものや聞いたものに意識を奪われ、気付かないうちに「日かげの世界」も生まれている。

これは一瞬のうちに生成され、あらがえないのだ。日かげの存在と決めつけてしまう自分が嫌いになってしまう。

勝手に「日かげの世界」の烙印を押された人たちは文句をいうだろう。


ある日、友だちと話をしている時にこんな話題が出た。

「私たちがやっている仕事って業界的には1番大切で主人公のポジションだけど、世間から見たら『なにそれ?』っていうようなものだよね」

業界の中では大切だからまつり上げていい気にさせて、お金は全然もらえない。世間的には存在もあまり知られていない。嫌になっちゃうよね、と笑っていた。

確かにそうかもしれないと私も思った。
「私たちの仕事がクローズアップされて、ドラマにでもなればいいのにね」そうすれば世間にも知ってもらえるよねと言うと「つまらないだろうね」と友だちは苦笑していた。


「日なたの世界」ができるのは光を放つ「光源」があるからだ。その正体は私たちに娯楽を提供してくれるテレビや映画、小説や漫画だし、ネット上の口コミだって光源になりうる。

その上、光源を操作している人たちもいる。これについて私は想像もできないが、広告関連の仕事やインフルエンサーがこれにあたるのだろう。

光の先にあるモノを見て私は日常を生きている。私が見たから「日なたの世界」になるわけではなく、照らされた先は既に「日なたの世界」になっているのだ。

「日かげがなくなるように光を向けてよ」というわけではない。私自身も日かげに生きる身だ。光があたるモノの後ろにある「日かげの世界」に目を向けてほしいし、目を向けて生きたいと思った。



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