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いるものの色は

先月。築八十年の家を出る直前のこと。

「この箱の中、必要なものありますか」

引っ越しを手伝ってくれている何でも屋さんが、古い段ボール箱の口を広げつつ差し出してきた。
私は一瞥してから、押し入れの下にあったものですよね、そう聞き返すと、女性業者さんが首を縦に振った。

「じゃあ、ぜんぶ捨ててください」

業者さんはもう一度だけうなずいて、いったん箱を畳に置いた。
長年、タンスに隠れていた場所と比べると、部屋の畳のほとんどが茶色と黄色をまぜたような褪せ方をしていた。タンスで隠れていた部分だけがくっきりと青い。それは前日に暮らしはじめた新居の青さそのものだ。
フローリングの洋室と畳の和室、私は後者をメインに使うことに決めた。理由はいろいろあったが、結局は畳が好きなのかもしれない。

でもあの部屋も数年もたたずに畳の青さなんて忘れてしまうんだろうな。
そんなことをぼんやり思いながら私は私で別の荷物の仕分けを続けようとした、その矢先。
何かが視界のすみをかすめた。
赤。ほろほろと崩れそうにもろい、なつかしい色。

「すみません、そのメモ帳。それ、いります」

慌てて手を伸ばし、既にゴミ袋の中へと落ちていたその赤を取りあげた。ほとんど奇跡の瞬間をつかまえるかのように。

「こんなところにあったんだ」

思わず声に出して呟いた。

「何か思い出のあるものですか?」
「ええ。二十代の旅の記録です」
「旅?」
「ぜんぶイギリスなんですけど」

業者さんが、へえ、すごいですね、と無難な相槌を打ってくれている間に、私の意識は旅ともイギリスとも違う、別のものに奪われていた。

うっかり整理の手をとめてめくっていたメモ帳のあいまに、一枚のモノクロのポストカード。

上半身をさらした男性がベッドに座り、かがみ気味になってタバコに火を点けている。
裏返すと、細かい字がびっしりと並んでいた。

そうだ、と思い出した。
あいつは、意外と繊細な字を書くんだった。そう、そうだった。それを何度か、私はからかっていた。意外すぎる、と。

『親愛なる友に我が神シド・ヴィシャスを捧ぐ』

こんな文面も、あいつの意外なようで、今となってはそれも、そうそう、そうだったなとのみこめるあいつらしさだった。

『二〇〇〇年、明けましておめでとう。
年賀状を買いに行くのが面倒なんで俺のとっておきのシド・ヴィシャスをくれてやります。有り難くお思いください』

うっかり吹き出しそうになったところで隣室の業者さんに呼ばれ、私はその稀少な新年のあいさつを、そのへんにあった「いるもの」に分類した袋に放りこんだ。崩れそうな赤いメモ帳ごと。はい、いま行きます、そう応じつつ。
タンスに守られた青に比べれば琥珀と呼べそうな色あいの畳から立ち上がり、その場を後にした。

外は雨が降っていた。

それは午後をだいぶ過ぎてもやむことはなかった。

じゃ、これで、と業者さんが新居に荷物をすべて運びいれてから、トラックは雨の中に姿を消した。
新しい部屋でひとりになったのも束の間、すぐに留守番をしてくれていた猫をキャリーから出して、ごはんをあげた。
洋室に積まれた途方もない本の量に慄然とも呆然ともしていたが、とりあえず、どうにかしていかなければならなかった。

本の整理に二、三日をとられ、別の荷物に取りかかったのは、あの雨の日から既に五日は過ぎていたと思う。
陽あたりの良い部屋は前の家と比べてとてもあたたかく、ちょっと動くと汗ばむほどだった。
上着を一枚だけ脱いで水分を補給し、さて、今日はもうちょっとやらなきゃなと広げた袋の奥、そこに、ちらりとのぞいていた。あのくすんだ赤が。まるで待ちかまえていたかのように。
どんな種類の片づけであれ、こういう寄り道がどれだけ時間を喰うことか。
分かっていても、指は気ままに動いてその弱々しい赤を引きずり出し、ページをたぐっていき、あのモノクロームのシド・ヴィシャスを探りあてていた。

『他に書くこともないしまた学校で。とりあえず二〇〇〇年がおまえにとって素晴らしき年になるよう祈っています』

ここまでわずか四行。
ポストカードだから紙面の半分しか使っていない。
それでもあいつの細やかで整った字ならこれくらいの文を四行に納めることができていた。しかも、その後の余白も不思議なほど乱れることなく最後まできちんと埋まっていた。

『追伸』

そこから先を読んでいって、たぶん私は笑っていたのではないかと思う。本棚に入りきらずに積まれた本と、その他の荷物に雑然と囲まれて。フローリングに座りこんだまま。
だって追伸のほうが本文よりもはるかに長かったのだ。
二〇〇〇年の私もそのあいつらしさに、同じように笑ったはずだ。



二十一年まえの、二〇〇〇年の一月。
私は大学四年生だった。
昨年末になんとか卒論を提出したは良いものの、院へ進むはずがさまざまな事情でふいになってしまったこともあって、お正月も帰省はせずにアパートでふて寝していた。
そのアパートも春になっても住み続けるはずだったのに、実家へ戻らなければならない。
就職活動をまったくしていなかったからには、お正月やすみが明けたらひとまず実家のそばでバイトを探そうと危うげな計画を立てるのでせいいっぱいだった。

あのシド・ヴィシャスが元旦に届いたかは、おぼえていない。
ただ、裏面に几帳面に書かれた住所は、あいつのアパートのものだった。
しかしあいつが帰省していても実家の住所を書くとは限らないし、どうなのだろう。追伸の内容によると、どうも実家に戻っている様子だ。

それはさておいて、その住所を見たとたん、そうだ、とまた記憶の扉が音を立てて開いた。

そうだ。こういう住所だった。
私とあいつのアパートはちょっと離れていたけれど、途中まではそっくり同じだった。
電話で漢字を聞かれるとこの市って説明しづらいよね、と卒論の時期になっても就職活動を続けていた友人たちが笑いあっていた。
そう、そうだった。私もさいしょは読めなかった。
そして大学を出て半年とたたずに、住所なんてすっかり忘れてしまっていたのだ。

大学生活がおわりに近づいても就職先が決まっていない学生は、私のまわりにはたくさんいた。
私が専攻していた西洋史学科の就職率は、マンモス校として知られる我が大学全学部全学科の中で何と最下位よりひとつ上だった。
最下位を免れたのは、単に大学が独自に組んだ特有にもほどがある謎の学部のおかげだ。その学部の学生たちにいったい何を研究しているのか尋ねても、本人たちも実はよくわかっていないと困惑ぎみに語っていた。

でも、あいつは卒論の話にも、就職の話にも入ってくることはなかった。
大学一年のころは確かに隣の席にいたはずなのに、あいつはまだ三年生だった。

私の苦労を返せよ。
春先に、学食で缶コーヒーを飲みながらなじった。
学籍番号がひとつちがいというだけで入学した翌日に出会って以来、電話でそいつを起こす役目を担うことになってしまっていた。
一年の必修授業を落とすと、まず四年では卒業できない、そう学部の主任教授ににらまれたときも、あいつは遅刻しておいて、ならしょうがないっすね、五年で卒業します、とか何とか言ってまったくやる気のなさそうに机にふんぞり返っていた。
私はその講義のあとでも、今朝の私の苦労を返せよ、と詰めよっていた気がする。
あいつの苦労の返し方は、たいてい缶コーヒーだった。私が紅茶派だと知っていながら、どういうつもりかいつでもブラックの缶コーヒーばかりだった。

いま思ってもあいつと仲がよくなる理由なんてひとつもなかったはずだ。
学籍番号のならび以外には。

それどころか群馬出身のあいつは私の出自を知るや、おまえ天敵な、といきなり言い出したくらいだった。出会ってからわずか五分で。
群馬と埼玉は互いに親の仇だろ。
それが一年のころから変わらない、あいつの主張だった。



『追伸。新年早々、今からライブに行きます』

群馬にライブハウスなんてあるのかな。
自然とそんなことを考えてしまうのも、もとをたどればあいつの影響に他ならない。

『ところで借りてる日出づる処の天子、いつ返せば良いですか。いつでも良いと仰ってくださるので借りっぱになっていますが、四年生さまはもうあまり大学に来なくなりますし、早めにお返しした方が良いですよね。都合のつく日にちを教えてください』

なんでこいつ、手紙になると妙に礼儀ただしいんだろう。
たぶん、二十一年まえにも私は同じことで苦笑いをしていただろう。
狭くて寒いアパートの、ソファベッドに寝っ転がって。
冬が終わったかのようにぽかぽかする2DKのアパートの、フローリングにしゃがみこんで。

『卒業前には必ず返しますからご安心ください。そろそろライブ行くんでこれで。改めて、A HAPPY NEW YEAR』

そうだ。
このころ、私はまだ携帯を持っていなかった。そういう学生のほうがずっと多かった時期だ。ポケベルかPHSを持っているかいないか。二〇〇〇年といっても、そんな時代だ。
あいつは確かPHSを持っていた。それで遅刻癖が治るわけでもなく、あいつが二度目の三年生をやっているときも、私の手間は単に固定電話とPHSで倍増しただけだった。

四年生になれたと知ったのはいつだったろう。
卒論が通ったことも、でも卒業式には出なかったことも、本人の口から聞いた。
まわりがあんなに苦労していた就職も、毎年、夏にだけ帰省しつつバイトをしていたところで正社員として決まっていたとも、字に似合わない低い声で話してもらったはずだった。

だけど、どうやって、どんな方法でだったか。
思い出せない。

古い住所と同じことで、こうだったよと教えられたら、また記憶の回路がつながるのだろうか。



色の落ちた赤のメモ帳にモノクロのシド・ヴィシャスをはさんで閉じ、私は本棚を仰いだ。
あいつが気にしていた「日出づる処の天子」は、全巻がちゃんとそろった状態で、そこにある。

たぶん、遠まわしにさみしがってたんだろうな。

そう、そういえば一度だけ、やっぱり院に行けよと言われたことがあった。

で、朝、起こせよ。
引っ越しの前に目覚まし時計やるから頑張りな。
あの壊れたやつ?いらねえよ。
私もいらんわ。じゃなきゃやらないし。
ていうかおまえ、どうやって起きてんの?
根性で。
ふざけんなよ。
おまえがふざんけんなよ。使命感だよ。
何だよそれ。
ところで卒業祝いは?
なんでそんな見返りのないこと俺がするわけ?
あんたが来年、卒業できたら祝ってあげるけど。
まじ?
一応。
じゃあ実家の住所、教えろよ。あと電話番号。

そうだ。
思い出した。
そうだった。

私はあいつに実家の電話番号を教えたのだった。

実際に何度か、かかってきた。
そして、一年後に、確かにお祝いもした。
サッカーファンでもあったあいつが、仇敵、埼玉の中に見いだした唯一の停戦区域で。

そうだ。
そうだった。

そのときに結婚することも教えてもらったのだ。



ねえ。あんたたち、つきあってるんでしょ。
大学時代、しつこいぐらいにまわりから投げられた半確定の問い。
あいつと私はそういうことはいっさいなかった。

でも結婚は何だかちょっとショックだったな。
本棚を見上げながら、うっすらとあの感覚をよみがえらせてみようとした。
けれども、あのショックは失恋とかそういうものでは決してなくて、きっと、私が卒業したときにあいつが受けたものと似た何かだろう。

すりきれそうなメモ帳をおぼえやすい場所に置いたのち、私はまた片づけをはじめた。
無造作につめられた「いるもの」の袋の中には、タオルもペンもルームシューズもいっしょくたになっている。

思い出があるものと、そうでないもの。
私にほんとうに必要なのは、どっちだろう。

この寄り道も、いただけない。
頭で理解しながらも、私の手はその理解とケンカをする。

しかたないなあ、ちょっと休もう。

立ち上がり、台所に行って段ボールをよけてから、紅茶の準備をした。

そういえば、いくつかの就職先でブラックコーヒーを飲んでいると驚かれたっけなあ。
まわりがカフェオレや微糖を飲んでいるなか、ブラック。

そうだ。
あれはあいつのなごりだ。

そうか。
そうだったんだなあ。

まだ生活のにおいのしない台所で、私は立ったまま、ミルクも砂糖も入れない紅茶を一口、そっとすすった。何にともなく、馳せながら。




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