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凡人による天才の考察

これは職種問わず、また仕事以外に趣味の世界などでも多くの人が一度や二度は耳にされたことがあるだろうし、身近な人の中にもこう呼ばれる人が1人くらいおられるかもしれない。

〇〇の天才

あるいは、天才〇〇とか。
例えば天才シェフとか。
また、〇〇の天才ほど多くはなさそうだけれど、同じようなものに〇〇の神様というのもあるな。そしてこれらは、テレビをはじめとかくメディアが好きそうな言葉でもある。

天才料理人、天才パティシエ、天才ブーランジェ、天才バリスタ、天才野球選手、天才サッカー選手、天才バスケ選手、天才経営者、天才プログラマー、天才演出家、天才デザイナー、天才建築家、天才ミュージシャン、天才漫才師、天才ドライバー、天才漫画家・・・と、この調子で書いていると1000文字なんてあっという間に超えるほど挙げ出すとキリがない。更に細分化すれば、オムレツの天才、チャーハンの天才、煮物の天才、天才バッター、天才投手、天才ドリブラー・・・と、更にキリがなくなる。

身の回りにあるモノやコトなど、何を取り上げてもそこには必ずというほど天才と呼ばれる人がいる気がする。また、トイレの神様までいるらしいので(これは妙に納得をするけれど)、それぞれのカテゴリーに1人、2人は〇〇の神様もいそうだ。つまり、この〇〇の中には何でも入るんじゃね?と言いたくなるほど汎用性の高さがある。
そこで凡人代表のぼくなどは、ふと思うのである。

天才が多すぎやしませんか?

きっと、これは凡人の僻みに違いない。しかし、そこを言及し始めるとこの話が滞ってしまうので、このまま進めることにする。

天才とは文字通り「天性の才能」のことであり、先天的にそれを持って生まれた人を指す言葉で合っていると思う。それに対し、努力や訓練によって後天的に才能を身につけた人を秀才とするなら(正しい定義がいまいちわかっていないのだけれど)、実は天才〇〇といった修飾語で呼ばれる人たちの大半は、秀才〇〇、あるいは〇〇の秀才が正しいのではないか。それなら世の中に大勢おられることも腑に落ちる。

稀に天才を自称する人までいたりするけれど、本当の天才は自覚もない気がするので、そういう人はそっとしておくとして。大抵の場合、他者がそう呼ぶのだと思うけれど、少し器用な人、賢い人、仕事のできる人を安易に天才と呼びすぎなのではないか。そりゃ、そんなことをしていたら世の中、天才だらけになるよ、と思う。

例えば、生まれながらにカメラアイを備えている記憶力とか、絶対音感を持って生まれてきた音楽家と聞けば、あぁ天才なんだろうな、と思うけれど、料理人に生まれてくる人はいないし、野球選手に生まれてくる人もいない。まして、オムレツを作る才能を持って生まれてくる人なんていないでしょ、と。
ほとんどの人は後天的な努力などによって備えた能力なんだから。
まぁ、これだと身も蓋もないことを述べている気もするし、線引きが難しいんだろうなぁとは思うけれど、才能ある人=天才とは違う気がする。

それに、天才という言葉からはもっとこう「類稀な」とか「稀有な」といった華やかさとは対極にある孤独さ、希少さを連想させる。
昔、新生UWF旗揚げのとき、リング上から前田日明兄さんが挨拶をされた際、太宰先生の作品に載っている詩人の言葉を引用されたことがあった。

選ばれてあることの恍惚こうこつ と不安二つ我にあり

ぼくは、これだと思うんだよなぁ、天才って。
孤高で、ぼくのような凡人には到底理解をされず、そういった意味では孤独で。
だからメディアや周囲から天才ともてはやされているのは、本当のそれとは違う気がしている。
ま、やっぱり僻みだな、これは。

あっ、〇〇の天才や天才〇〇でなく、これならおそらく言葉的にもアリだろうな、と思うものがあった。


天才的 〇〇


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