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教員の「問い返される」権利

いつだって、教員は生徒から「あなたの言葉は正当なのか」という問いをつきつけられている。

知識の伝達はもちろんだが、進路相談、さらには普段の雑談もそのすべてを言葉を媒介にして行われる。一方向講義型、ファシリテーター型、オブザーバー型、どんな授業のスタイルにしても、やはり言葉を介して児童生徒とコミュニケーションが行われるはずだ。教員の仕事の大半はコミュニケーションに費やされる。

コミュニケーションを図る中で、生徒をエンパワーできることもあるし、これからの社会を創っていくために必要な要素を伝えることもできる。ときには生徒との対話の中から新しい発見もあるし、授業でいえば私が想定していなかった作品の解釈が生まれることもしばしばある。

学校の本領は「場の形成」である。解釈の場、対話の場、ときにはコンフリクトの場、個人と個人が対話を媒介にして一時的に接続され、そして学校が終われば接続が解除されてまた違う個に戻っていく(スマートフォン、SNSによってその接続の解除がうまく行われない場合もかなり多い)。ただの知識の伝達の場ではなく、そのような場が持てるというところが学校の最大の利点だ。

その中で教員は「発信側」にいることが多い、と思われがちだが、実は「生徒から問いを受信する側」に立たされている場合がとても多い。
何かを生徒に向かって発信しているように感じるが、そのときに発信している言葉は、果たして正当なものなのか。破綻はないか。差別は含まれていないか。空疎な詩的言語なのではないか。そのような問いによって、教員の言葉は常に晒されている。

もちろん、生徒がそのように直接問い返してくることは少ない(直接問い返してくることができれば、それは対話の場としては理想。危ういけど)。しかし、言葉を受信した生徒が見せる表情の変化、小さな仕草、問いではない言葉、それらのメッセージを教員は受信し、解釈する中で、教員自身が形成する「想定される生徒」が、「あなたの言葉は本当に正しかったのか?」と問い返す。

その問いと、どれだけ向き合っていけるかが教員にとって重要である。自分が抱いている「正しさ」を相対化し、再構築し、さらに脱構築し、アップグレートしていく。そのプロセスの中には問いへの対峙が必要不可欠だ。
そういう意味では、普段子どもと接することが多い教員という職業は「問い返される経験」を豊富に得ることができる職業でもある。教員は、生徒を社会の創り手に育成しながら、生徒と共に社会を創り、そして教員自身も社会の創り手として成長していくことができる。

自分自身を問い返すこと、自分を疑い続けることはとても労力の要る作業だ。しかし、教員も「対話の場」である学校に所属している。個人で問い続けることには限界がある。他者と問いを共有し、答えを形成していけば、その労力もシェアすることができる。
問い、問われ、分ち、創る。そんなプロセスが形成できる学校を創っていきたい。

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