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名もなき「当意即妙」のために

 「当意即妙」…その場にうまく適応した即座の機転をきかすさま。
 この当意即妙の様が主題となっている日本の古典は様々あります。その最たる例が『十訓抄』に描かれている「大江山」の一節です。

 和泉式部の娘である小式部内侍が定頼中納言から「丹後に遣わせた使者は帰ってきたのですか」とからかわれる。そのとき和泉式部は夫に伴われ丹後に移住していて、つまり定頼は「丹後のお母さんからの手紙は届きましたか」もっと言えば「お母さんに代わりに作ってもらった歌は届いたのですか」となじられる。

 それを聞いた小式部内侍は即座に
「おほえ山いくのの道も遠ければまだふみも見ず天橋立」
と和歌で返します。
解釈をすると、「大江山を越えて、生野を通って行く道も遠いので、まだ天橋立に踏みいれたこともないし、母からの文も届いていません」となります。「生野」と「行く」、「踏み」と「文」の二つの掛詞を起点にしながら見事に文脈を重複させつつ、定頼からのからかいを一蹴します。

 定頼はあまりのことに和歌を返すことができず、赤っ恥をかく、という有名なお話です。
 他にも『枕草子』などを見れば清少納言の機知に富んだ当意即妙のエピソードが多く残されていることがわかります。

 ただこれは生の当意即妙というよりは「当意即妙の物語」であり、本当にこんなことがあったかはわからないし、あったとしても後世の書き手がよりおもしろく読めるように脚色していることでしょう。話としてあまりにもよく出来すぎている。しかし、その語りの力によって長い時間の中で淘汰されずにこれらの当意即妙の物語は現代でも語り継がれています。

 教員の仕事をしていると、この「当意即妙」をしなければならない場面が多々あります。生徒指導、進路指導、授業展開、ありとあらゆるところで瞬時に何かを判断し、アウトプットしなければならない瞬間というものが到来するのです。

 授業で考えれば、授業中に教員が全く想定しなかった解答、質問、創作物が出てきたときに、その瞬間教員はそのイレギュラーにどう応えるのか問われます。もちろん、すべての想定外を拾いきる必要はまったくありませんが、時にはその想定外を起点にしながら新しい解釈が見つかることもままあります。もしくは教員が想定していなかった生徒の躓きを発見することに繋がります。授業を教員の想定内の空間だけで終わらせるのではなく、生徒とともにより深い世界に入り込むためには、想定外に当意即妙に対応することも必要です。

 生徒指導、進路指導の中でもこの当意即妙が求められる場面は多く訪れます。生徒指導も進路指導も「線」のコミュニケーションであり、1日で完結するものではありません。6年、3年かけて長く対話を重ねながら生徒の人格やキャリアが形成されていく。そんな「線」としての対話の中で当意即妙が求められる場は少ないようにも思えます。

 しかし、時には「絶対にその時に何かを言わなければならない時」が絶対にあります。その時に何かを言わなければ、目の前の生徒の人生が大きく変わる、というタイミングは必ず来る。その時にはそう思わないかもしれないけど、時間が経ってからこれまで引かれてきた「線」を過去に向かって辿りなおしたときに「あの日はとても大切な日だった」と思い起こされる、なんてことも時折あります。

 その瞬間に、完全な回答を教員がするのはおそらく無理です。何を言ったとしても、何かを言い逃し、何かを伝えきれず、何かを受け止めきれないというものです。そしてその生徒との話が終わって帰っているときに「あ~~あーやっていってあげればよかったな~」と別の回答例が次々と頭をよぎって後悔するものです。
 でも、言い切れなかったとしても、それでも密度の高い言葉を生徒に投げかけたい。生徒の思考がどこかに進むのを手助けできるような言葉を。

 これら授業や生徒指導における「当意即妙」にとって不可欠なのは、やはり「遅さ」なのだと思います。
 「瞬発力」を鍛えるために「遅さ」が不可欠、というのはいささか逆説的にも聴こえますが、要は自分が使っている言葉、発信している記号にどれだけじっくり対峙しているかどうかで、瞬発力が決まると思っています。あらゆるケースを想定するというよりは、自分が普段使っている言葉を、他者の言葉を吸収しながら相対化して磨き続けることが大切なのです。

 小式部内侍の「おほえ山」の和歌も、仮に本当にあの定頼にからかわれた瞬間に思いついただのだとしても、そこで思いつくためにはその問いかけまでに長い時間をかけて膨大な数の和歌を勉強し、暗唱し、和歌の修辞技法を身に着けてきたからこそ、瞬間的に和歌が詠めたはずです。教員の生徒指導もそれと同じなはず。その瞬間の「点」としての指導を行うためには、じっくりと時間をかけた学習、思考が必要なのです。

 ただ、教員の当意即妙は「おほえ山」のそれとは違ってそのほとんどが歴史に名を遺すことなく忘れ去られていきます。しかし、その当意即妙によって救われる生徒がいるかもしれない。そんな名もなき当意即妙を実現するために、やはり教員は学んでいかなければならないのです。

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