見出し画像

「文学教育」の領域はどこからどこまで?

 これが発端だったわけだけど、やっぱり『高瀬舟』で安楽死を論ずるのはかなりやばい営みだと思う。

『高瀬舟』の愉しみ方

 『高瀬舟』の物語を十二分に楽しむためには、間違いなく羽田庄兵衛と同じ立ち位置に立つことが条件になる。
 喜助の「足るを知る」という言葉に意表を突かれ、ついには喜助に聖性を見出していく。ついには、弟殺しの内情を告白する喜助に対して同情し、同心の身でありながら「殺したのは罪に相違ない。しかしそれが苦から救ふためであつたと思ふと、そこに疑が生じて、どうしても解けぬのである」と自分自身の既存の常識にメスをいれていく。
 この庄兵衛の語りに読者は身を寄せていく。物質、それ以上に情報にまみれた現代において、我々は満足ということを知ることができるのか。高度資本主義経済では価値と価値の差異を消費して生きている以上、その差異に満足することはない。そんな現代人の資本主義的価値観にもメスを入れてくれる。
 我々が罪だと思っているものは本当に罪なのだろうか。喜助が弟にした行為は「救い」だったのではないか。だとしたら、罪とはなんなのか。
 そうやって喜助の語りに没頭していく羽田庄兵衛の隣で、読者も喜助の語りに溺れていく。これが『高瀬舟』の一番の楽しみ方だ。
 しかし、これは批評でも何でもない。もちろん、国語の授業でも上記のような読みはまず展開しなければならない。場面設定、場面の移り変わり、登場人物の心情の把握、これらは「読み」の技術としてトレーニングしなければならないことだ。
 しかし、これだけで本当にいいのか?

喜助の語りは信用できる?

 翻って、喜助の語りの実態はどんなものであったのだろうと考えると、正直喜助の語りは、信用に足らないと言わざるを得ない。というよりは、語りが一方的過ぎて、信じるも疑うも、確定することができない。喜助の語りがどこまで「真実」なのかは、読者はもちろん、当人である喜助にもわからないはずである。本当に喜助の弟は「弟の目の色がからりと變つて、晴やかに、さも嬉しさうになりました」という表情をしたのであろうか。いや、したのかもしれないけど、その表情というのは喜助が読み取ったコードの表象であったのか? それも喜助にもわからなければ、やはり弟にもわからない。いわんや、庄兵衛や読者にだって絶対にわからない。だとするならば、そんな地盤の弱い語り「だけ」を材料にして安楽死の議論ができるだろうか、いや、できない。
「其目の怨めしさうなのが段々險しくなつて來て、とう/\敵の顏をでも睨むやうな、憎々しい目になつてしまひます」という一節の中にも「~さうな」とか「~やうな」という憶測の描写が多くみられる(これは羽田庄兵衛の語りにも見られる。入れ子構造なんですね)。先ほど引用した部分(「さも嬉しそう)と、この部分は、喜助が弟の首から刃物を抜く場面における語りであり、喜助の語りの核心部分である。しかし、喜助の語りは、核心に近づけば近づくほど、憶測というベールに包まれていく。昔、「古畑任三郎」の「さよなら、DJ」という回(第1シリーズ11話。桃井かおりが犯人の回。シリーズ屈指の神回として名高い。FODで全話観られるからみんなも登録しよう)で、古畑はこう述べる。

嘘の下手な人はですね、すべてを嘘で塗り固めようとします。嘘のうまい人はですね、肝心なところだけ嘘ついて、あとは、できるだけ本当のことを話そうとする。つまり、正直者ほど嘘が、うまい。

「古畑任三郎」第1シーズン11話 

 喜助の語りは、古畑の言う「嘘がうまい人」の語り(騙り)にとても近いものなのではないか? いや、それはやはりわからない。喜助の語りを「騙り」だ、と断定することはできない。一方で、「真実だ」と断定する根拠もない。そのような断定のできない語りだけを材料にして、人の命を大きく左右する「安楽死」を論ずることなどできるだろうか。自殺ほう助という罪についても、読者はそれを論ずることはやはりできない。読者が人の死について、暫定的であれ、なんらかの結論を出すだけの材料はやはり存在しない。
 それなのに、議論した場合「やむを得ない事情があれば安楽死はやむを得ない」という「読み」が生徒から提出される可能性もある。それってめちゃくちゃ危険ではないか? その生徒は、その議論以降も、偏った語りによって形成された「安楽死の肯定」という価値観を持ち続けながら生きる可能性がある。ものすごく危険だ。しかし、その結論を生徒に出させるだけの力が、喜助の語りには、それがいかに信憑性に欠けるものであったとしても、含まれている。
 だとするならば、その喜助の「力」の源がどこにあるのか、ということを分析するのが、「文学教育」の仕事なのではないか?

『高瀬舟』の構造を批評してみよう

 結論から言えば、小説を材料にして安楽死を議論したり、罪の定義を議論するという営みは「文学」の領域ではあるかもしれないけれど、少なくとも「文学教育」の領域ではない、と思う。「文学教育」の役割は、どこまでいっても作品を、物語を分析し、再構築すること、つまり批評することなのではないか。その営みの中では登場人物の語りに溺れていくことも不可欠な過程であることは間違いない。しかし、それはゴールではない。語りに溺れたあとは、また海の上に浮上しなければならない。もっといえば、空にふわりと浮いて、自分が潜っていた海はどんな海だったのかを俯瞰して、初めて文学教育が成り立つ。では、『高瀬舟』ではどんな分析が可能か。

 この『高瀬舟』とは、「語順の妙」を最大限に生かした作品である。
 『高瀬舟』は次のような構造になっている。
①語り手によるイントロダクション
②喜助の「足るを知る」という語り
③庄兵衛の内省Ⅰ
④喜助の弟殺しの告白
⑤庄兵衛の内省Ⅱ
 つまり、『高瀬舟』はこの順番でなければ成立しない物語なのである。
 ③の最後と④の最初に、庄兵衛は喜助に聖性を見出し、「喜助さん」と呼称するようになる。最後の弟殺しを「真実である」と庄兵衛が鵜呑みするためには、この喜助の聖性が必要不可欠となる。この聖性があって、初めて庄兵衛は喜助の語りを媒介にして「罪」というものを再構成しようと試みる。となれば、②の「意表に出」た喜助の「足るを知る」という告白はここでされなければならない。
 たとえば、④の弟殺しの語りを②のタイミングでした場合、物語はどうなるか。喜助が弟殺しを告白する際にこう述べるところから始まる。

どうも飛んだ心得違ひで、恐ろしい事をいたしまして、

森鷗外『高瀬舟』

 喜助は自分がしたことは「心得違ひ」だと述べている。ここで①のイントロダクションを参照する。

高瀬舟に乘る罪人の過半は、所謂心得違のために、想はぬ科とがを犯した人であつた。

森鷗外『高瀬舟』

 高瀬舟に乗る過半数の罪人は、「心得違ひ」によって罪を犯したものであった。つまり、この語り手による語りによれば、喜助の弟殺しという罪は、いたってありふれたものなのである。「足るを知る」という③の語りは意表を出るものであったかもしれないが、この話は高瀬舟に何度も乗っているであろう庄兵衛にとっては、何度も反復して聞かされたような話なのである。「場合によつて非常に悲慘な境遇に陷つた罪人と其親類とを、特に心弱い、涙脆い同心が宰領して行くことになると、其同心は不覺の涙を禁じ得ぬのであつた」とあるように、もしかしたら、喜助よりももっと厳しい境遇の罪人もいたかもしれない。となれば、この④の語りを先に聞いていたら、おそらく庄兵衛は喜助の中に聖性を見出すことはなかったはずであり、喜助の語りによって「罪とは一体何なのか」と常識が揺さぶられるようなことはなかったかもしれない。

 喜助の特殊性はあくまでも
①親類縁者が同じ船に乗っていない
②島流しにされるのに楽しそうにしている
③庄兵衛にはない、「足るを知る」ということを知っている
 三点であり、弟殺しはその中には含まれない。庄兵衛が最後に自分の常識を相対化するためには、さらには読者が庄兵衛の立場にたって喜助の語りに没頭するためには、この『高瀬舟』に書かれた語りの順でなければいけなかったのである
 語る順番で、物語の見え方は全く違ってくる。『高瀬舟』というテクストからはそんなメッセージが見えてくるだろう。

「文学教育」の領域はどこ?

 というように、語りの分析に閉じても、『高瀬舟』は十分分析に堪え得るテキストなはずである。そこに安楽死という別の社会現象を持ち出す必要は果たしてあるのか? 説明文、評論文ならばその営みは成立し得るだろうが、文学教育の責務として成り立つのか。
 文学教育の領域は、あくまでも「語りの分析」に留まるのではないか。それは「物語の真実の姿」を探す営みでもなく、文学を材料にして文学の外にある価値観の是非を問うことでもなく、テクストを分析し、そのテクストが孕んでいる価値を掘り起こすこと(まるで『夢十夜』の運慶のように)なのではないか。
 しかし、その「語りの分析」の技術は、文学だけではなく、文学の外、社会の中でも十分機能し得る。メディアの中にも多くの語りが流通している。語りを分析する技術を有するのであれば、その語りも相対化しながら触れることができる。そうすれば、安楽死という極めて難しいテーマを、多角的な語りを分析する中で議論できるかもしれない。
 文学教育は、文学に閉じた営みをするからこそ、逆説的に文学の外、社会に広がる語りにアクセスすることができる。語りに溺れて社会に繋がろうとすると、そのまま語りの底へと引きずり込まれて、いつのまにか這い上がれなくなる。

 語りの海に潜り、そして浮上する技術を身に着ける。それこそが、文学教育の領域なの、ではないか(最後の最後で日和る)。

この記事が参加している募集

国語がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?