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【小説】ノウゼンカズラ

 子供の頃、家の離れに父の会社の倉庫があった。倉庫には外付けの水道が設置されていて、その横に亡き祖母が大切に育てていたノウゼンカズラが植えられていた。

 倉庫は赤茶けた鉄製の骨組みにトタンを貼り付けただけの二階建てだった。二階は従業員の休憩所になっていて、泊りの時などは夜遅くまで騒ぐ声が聞こえた。しかしその後景気が悪くなり、次第に泊りはなくなってしまった。その頃になると従業員が倉庫に資材を取りに来る回数も減っていた。ぼくは学校や家でむしゃくしゃしたことがあると、倉庫に行って、堆く積まれた資材の上で仰向けになり、気持ちが落ち着くまで赤茶けた鉄骨の天井を眺めるのが好きだった。

 その日は学校で嫌なことがあり、家に帰らずまっすぐ倉庫に向かった。季節は9月を過ぎた頃で、まだ暑かった。喉が渇いたので、入り口の水道の金口を上にして元栓をひねり、水をゴクゴクと飲んだ。ふと顔を上げると、ノウゼンカズラの頭上の異物に目が留まった。ジョロウグモだった。

 倉庫から突き出ていた鉄骨とノウゼンカズラの間にジョロウグモがいつの間にか巣を作っていた。ジョロウグモは体長4センチほどだったが、足の長さを合わせるとその倍はあった。体は黄色く、黒と白の線が入っているのが妙に気持ち悪かった。

 もともとクモは好きじゃない。網を張って餌が掛るまでじっと待っているその根性が気にくわない。そのうえ、大好きだった祖母のノウゼンカズラを利用してクモの巣を作っていることにも腹が立った。

 そこで水道口に親指を当てて元栓をひねり、クモの巣目掛けて勢いよく放水した。ところが、意外にクモの巣は頑丈で破れず、ジョロウグモはスススッと上の鉄骨まで網を伝って逃げてしまった。巣に付着した水滴が夕日の光を浴びてキラキラと輝いていた。その巣の姿が、何故だか美しいものに見えた。それが余計に腹立たしく思えた。ぼくはノウゼンカズラの枝を一本だけ折って、その棒でクモの巣をズタズタに切り裂いてやった。いつも見ていた「水戸黄門」のような気持になった。


 翌日、学校から帰るといつものように倉庫に向かった。9月の夕方にしてはまだ暑く、倉庫の中もやけに蒸々としていた。そこで、倉庫の窓を開けた。スッと外から心地よい風が入ってきた。ふと、窓枠を見ると、黒い物体が引っ付いていた。よく見るとアマガエルの死骸だった。手足を上下に上げ下げしたまま干からびてしまっていた。おそらく梅雨の間に紛れ込んだのを、誰かが窓を閉めたために挟まってしまったのだろう。なんだか可哀想に思えた。

 干からびたアマガエルの足を人差し指と親指で抓まんで、窓枠からペリリと剥がした。窓の外に捨てようとすると、昨日のジョロウグモが目に留まった。既にクモの巣は元通りになっていた。ジョロウグモを少しだけ見直した。引っ掛かってくるエサを待つだけのズルい奴だと思っていたけれど、一日でクモの巣を元通りにしたのだ。大した奴だ、と思った。手に持っていたアマガエルの死骸をひょっとクモの巣に投げると、ピタっと引っ付いた。ジョロウグモは慌てて巣の上のほうに上っていったが、しばらくするとスルスルとエサに向かって下りてきた。昨日のお詫びのつもりだった。

 このことを両親に話してあげようと家に帰った。家では両親がお金のことで大声で争っている最中だった。

 「ジョロウグモにアマガエルの死骸を与えたら、喜んで食べてたよ」と言うと、母は「女郎ねぇ」と父を睨み付けた。父はスッと目をそらし、「今の話とそれは関係ないだろ!」と顔を真っ赤にして怒り出した。

「圭吾は外で遊んでろ!」と、父はぼくに怒鳴った。

「圭吾に八つ当たりしないでよ!」と、母は父にきつく当たった。そしてポケットから黒いがま口を取り出し、ぼくに「おやつでも買っておいで」と100円を手渡した。

 ぼくは泣きそうになるのを堪えて家を出た。商店に向かう途中、気持ちを落ち着かせるため倉庫に立ち寄った。2メートルばかし積まれている資材の上に上って、仰向けになりジッとしていた。なんでか涙が頬をすぅと伝わった。

 しばらくそうしていると、段々と気持ちが落ち着いてきた。そろそろ商店におやつを買いに行こうと立ち上がった瞬間、ポケットに入れてあった100円が資材と資材の隙間にポトリと落ちてしまった。子供一人が入れる程度の隙間なので、資材に足をかけゆっくりと下りて行った。そのとき、ズルッと足が滑り、地面に落ちてしまった。幸いにして怪我はなく、ちょっと膝小僧をすりむいた程度だった。それでも資材と資材の隙間に挟まってしまったことが、とても怖いことに思えた。今から考えると馬鹿らしい限りであるが、そのときはひょっとしてこのまま上によじ登ることが出来ないのではと思った。

 大きな声で助けを求めたのだけど、誰の返事もなかった。先ほどのアマガエルの死骸のことが頭を過った。ジョロウグモなんかのエサにせず、丁寧に墓を作ってやればよかった。アマガエルの祟りだと思った。手足で必死にもがく姿はアマガエルの死骸のようで、ゾッとした。もう一生このままで、干からびて死んでしまうんじゃないかと思うと涙が溢れてきた。

 泣きながら手で資材を押すと、少しだけ隙間が出来た。そこに足を掛けて、ようやくよじ登ることができた。もう100円のことはどうでもよかった。

 涙と汗で顔も手足も汚れてしまった。服もホコリまみれだった。外の水道で顔と手足を洗った。ようやく一息つくと、目の前にピンク色のものが動いているのが見えた。ノウゼンカズラの花だった。ジョロウグモの糸が花に引っ付いて、落花せずに空中に浮かんでいた。すると、ジョロウグモはエサと間違えたのか巣の中心からスルスルと下りてきた。

 そのとき、風が吹いた。

 糸に引っかかっていたノウゼンカズラの花がクルクルと回った。ジョロウグモも一緒にクルクルと回った。なぜか、ぼくはそれを笑えなかった。

 夕暮れ時で辺りは次第に暗くなり始めた。太陽は旅伏山の向こうに隠れようとしていた。旅伏山の稜線が太陽の残り日で輝き始めると、まず初めにクモの巣が見えなくなった。そのあと、ジョロウグモやノウゼンカズラの葉が暗闇に呑まれていった。ノウゼンカズラのピンクの花だけが闇の中でぼんやり浮かんでいたが、それもほどなく見えなくなった。




 しばらくして、父の会社は倒産し、倉庫も解体された。ジョロウグモも、いつの間にかいなくなった。ノウゼンカズラだけは、今年もピンクの花を付けた。


おわり



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