【小説】 草葉の陰
1.おぞぞ
息子がまだ保育園に通っていたころの出来事。
保育園から帰るなり、「人は死んだらどげなるん?」と聞いてきた。
どうやら園の絵本で習ってきたらしい。妻も困った顔をしていたから、帰りの車内でも聞かれたのであろう。
いつか息子に聞かれると予想していたものの、いまだにその答えは見つかっていない。亡き祖母のように虚仮の一念で極楽浄土を思い続けることもなく、かといって天国があるとも思えない。ましてや、何もなく「無」になるとは、ちと寂しい。「おとうも死んだことないけん、よくわからん」というのが正直なところだ。
「まだまだお前が死ぬのは先のことだがね」と、やんわり答えをかわそうとした。
すると、息子は「でも、おとうは先に死ぬがね」と嫌なことを言う。
何とか息子を安心させようと、こう言ってやった。
「おとうは死んでも、草葉の陰からずっとお前を見とうけん」
息子は、ぎょっと驚いた顔をした。
「お前は大人になって好きな人と結婚し、いつか子供ができる。歳をとり、おじいさんになり、孫もできる。そして、寿命が尽きて死ぬその日まで、お前をおとうはずっと見とうけん」
それはほんとうのことだ、と思った。
すると息子はちょっと考えて、
「それは嫌じゃ。出て来んで!」と言った。
「何が嫌じゃ? ただ、見とうだけだわね」と言うと、
「だって、おぞいがね」と言う。
どうやらお化けと勘違いしているらしい。
「そげん、おぞいかや?」と重ねて聞くと、
「おぞぞ」といった。
息子は嫌な顔をし、私は微笑んだ。
*
2.間違い
息子が小学生低学年の頃の出来事。
小学校から帰るなり、「おとう、大発見だ!」と興奮気味に話してくる。
「何が、大発見だかね?」と尋ねると、どうやら息子は学校で地球が丸いということを習ってきたらしい。地球は太陽の周りを1年かけて周っていて(公転)、地球自体も1日かけてくるりと周っている(自転)。すると地域によって時差というものができ、例えば日本が昼でもアメリカはまだ前日の夜ということになる。
そこで、息子は考えた。
「おとうがもし死にそうなったら、ぼくが飛行機に乗せて東に向かって飛んであげぇがね」
「そげすうと、どげなぁかね?」と聞くと、「おとうはこれで死なんですむがね」と自信満々にそう答えた。
「これで、お化けにならんでもいいがね」と嬉しそう。
よほど草葉の陰が怖かったに違いない。
息子は破顔し、私は苦笑した。
*
3.草葉の陰にて
息子が高校に上がったころの出来事。
高校から帰るなり、「今朝、斐伊川の河川敷で鹿を見たよ」と興奮気味に話してくる。
昔、私も斐伊川の河口で2頭の鹿を見たことがある。そのことについては息子に何度も自慢していた。後にも先にも斐伊川で鹿を見たのはそれきりだった。だから、息子が興奮するのもわかる気がした。
息子は高校に通うようになり、部活動の野球で疲れているせいか、子供の頃のように元気に帰ってくることがなくなった。いつも小さな声で「ただいま」という。声変わりもしているため、一層元気がないように見えてしまう。だからなのか、その日は余計、新鮮に映った。
斐伊川はうちのすぐ後ろを流れている天井川で、毎年川上から流れてくる砂を掻き上げるために、河川敷が設けられている。上流ではサッカー場やゴルフ場などの多目的広場として使われているが、うちは宍道湖に流れ込む斐伊川の河口付近なので広場としてよりは砂上げ用の道路の役割が大きい。自然、動物が住み着きやすい。それでも鹿を見るというのは極めて稀なことである。
息子は自転車で斐伊川土手を渡り、隣町の駅から電車通学をしている。毎日、河川敷を通学時に見ているのだから、鹿に出会う確率は高い。もうすでに、4回見たという。妻も雨の日に息子を駅まで送るのに2度、鹿を見たという。私の鹿目撃談は自慢ではなくなってしまった。
*
今年は11月の好天のせいか、北山の紅葉もいつもより遅れた。12月に入ると、秋の気配を感じる間もなく、急ぎ河川敷も冬支度に入った。国土省も土手の草刈りを終えて、丸めた草の束を数日かけて片付けしまった。はるか西には三瓶山が灰色に見え、東に目を移すと夕日を浴びた大山の雪景色が薄桃色に輝いて見える。河川敷にはいつの間にかススキが目立つようになり、葦の周りを銀色に彩っている。どうやら、今年はセイタカアワダチソウが繁殖しそびれたようだ。
去年、飼っていた猫ビッケが亡くなり気落ちしていると、息子がこういって慰めてくれた。
「ビッケも草葉の陰から見とうわね」
私は、今も鹿を探して、いるはずのない河川敷を飽かず眺めている。
【おわり】
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