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【拝啓 私】親になった私が子供を頭ごなしに怒ってしまった時の私へ【手紙note】

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拝啓 私へ

お元気ですか?

これを見ている私は、いつの時代の私ですか?

どの私でもいいから、見てくれてる事を願って書きますね。


今日私が伝えたい事、

それは【親になった私が子供を頭ごなしに怒ってしまった】ことについて。


私が相手よりも強い存在であったり、

私の意見の正しさを強く主張できると

無意識で思ってしまう相手についやってしまうこと。

悪気のない感情表現・強要・強制・暴言暴力etc。


どうですか?

「特定の相手にのみ強気に出れる私」に気付いていますか?

その繰り返しが私自身にどんな影響を与えているかを知ってますか?

今、生きてて良かったと思えていますか?

正直言うとね、

今の私はその生き方を自覚・自認し、

そのパターンから抜け出すことができました。

もしこれを読んでいるいつの時代かの私が、

私より弱いと無意識に思っている存在に、

私の思想を押し付けてしまっていると思っていたら、

これを見て一つの参考にしてもらえると嬉しいです。



人は各々に意識的にも無意識的にも、

判断基準というものがあります。

善悪、快不快、強弱、明暗、好不調など、

それらは相対的な概念で表現できるものが多く、

ほとんどがどちらかに属する分類で構成されています。

そしてその判断基準というものは厄介なことに、

一度決めてしまった分類に属されたものは、

相対の対に認識が移ることは難しいという点です。

固定観念というやつです。

基本の発想という土台を作り上げ、

その先入観を基軸として、

物事の感受性を展開していく。

これが人の思考方式の特徴です。


・お父さんが怖いと思った子供は、

 大人になってもその認識は心のどこかに残って、

 自分の成長やお父さんの弱体を認識するなど、

 立場チェンジを自覚するその時までなかなか変わることはなかったり。

・子供や仕事の仲間に対して、

 最初に思い込んでしまった特徴的なところは、

 それが相手の人間性の本質なんだと勝手に決め付け、

 そういう人間だという先入観からその人への印象がズレることなく、

 成長や変化を純粋にみることができなかったり。

そういったことが起こりやすいです。


何か驚く程の出来事がない限り、

固定した自分フィルターを通した相手の認識が、

大きく好転・暗転することはない。

そして好印象→暗転の方が容易に起こりやすく、

悪印象→好転することの方が圧倒的に少ない。

好きだった人が気持ち悪いと思うことは、

一つの出来事でも簡単に思ってしまい易いが、

気持ち悪いと思った人間が好印象になることは、

余程のことがない限り認識を改めることはない。


先入観からの思い込み・決め付けによって固定観念が生まれ、

自分に見せたその人の個性の一部分だけを、

勝手に切り取って作り出した固定した他者への認識は、

自ら意図的に変化させることはほぼなく、

他者の直接変化や自己認識の大きなショックがない限り変化しない。

纏めるとそんな感じ。

要は勝手に作って自分じゃ変化しないってこと。



親になった私が、

子供に頭ごなしに自分の正しさを押し付けて、

それを理解・実行しなかったことに怒っていたのは、

私が思う正しさこそが子供にとっても正しいんだと決め付け、

子供が子供なりに思う正しさを聞いて確認することもせず、

子供の心を完全無視して自己主張を強要していたからだと気付いた。

なぜそんなことが出来たのかを考えると、

子供なんだから大人の私の方が場数踏んでて経験値が上だという、

自分の勝手な子供に対して持った偏見的な固定観念を持っていたから。

子供にだって私より短期間であっても培ってきた人生観はあり、

自分なりの正しさはもう既に持っているだろうに、

私は私の正しさこそが正しいのだということを子供に承認させることで、

私が生きてきたことが、

してきたことが間違いじゃなかったと、

他者から承認されることで、

自信を醸成・維持しようという欲求を満たすが為に、

子供の心を無視していたんだということに気が付いた。

子供の為に怒っていたんじゃない。

私の心が壊れないように、

親という立場だったり、

断言力という圧力だったりを使って、

子供を利用して自尊心を保とうとしていたんだと。


私より弱い立場の存在に対して承認させて自己満足しようなんて、

とんでもないクズだと自分で思った。

楽な方法で努力もせずに押し付けられる相手に強要して・・・


自分で自分の言動の行動原理を自分で見つけることは、

自分自身を先入観無しで見れないと難しい。

そんなことは慣れてないとほぼ不可能に近い。

だから人に客観的に自分を見てもらうことが必要となる。

いつも見ている自分の思う自分とは、

違う角度から見た他者視点の自分を知る必要がある。

自分で自覚していない自分を。

他者から見た私は、

必ずしも嬉しいものだけじゃない。

私が私の事を蔑んで思う事は許せても、

他者に言われた認めたくない自分像を、

自分自身で認めることは、

なかなか素直に受け入れがたいものがある。

でも間違いなくそういう印象を与えている自分も居るという事実を、

認識・受諾・承認しなければ、

自分の行動原理を正確に理解することも、

自らの意思によって変化をさせることもできない。


かっこいい私も居れば、

ダサくて汚い弱い私だって居て当然なのにね。

私の中の私を素直に認められないなんて、

哀しいよね。

可哀想だよね。

私が私のことを認められないから、

私以外のダサくて汚くて弱いとこが認められないんだろうね。


逆に言えば、

みんながみんな自分の嫌な部分の私が認められれば、

人の嫌な部分も容認したり支えたり助けたりできる、

そんな人間関係が作れるかもしれないね。



私が子供に対して怒ることを止めて、

ちゃんと話を聞いて意見交換をし、

私なりの選択肢をプレゼントして、

あとは子供に選ばせるというコミュニケーションにしてからは、

子供との関係が変わりました。

顔色伺うことも無くなり、

子供に作らせてしまっていた見えない壁も、

少しずつ薄くなっていったように思います。

子供が自分の意見を言うようになり、

自信を持って主張するようにもなっていきました。

時には我が儘だと思うことがあっても、

それも私の主観的な見方であって、

もっと他の捉え方もできないかと、

先入観の固定をして子供を決め付けないようにと、

ちゃんと話を聞くようにしています。



「子供・大人などの分かれた関係性から物事をみるのではなく、

同じ人間であり、

同じように心を持った存在であるという、

共通の土台から相手を見るということができれば、

自分と同じように相手も大切にできる。」

私はそう思います。



ひとつだけ付け加えると、

自分が相手に対して気になる部分は、

そこに自分のこだわりがあるということ。

子供に対して○○しちゃダメでしょ!と言ってしまうのは、

自分がそれをすることもダメだと思っているから。

相対的認識の片方しか取れないという状態は偏見的。

ダメをダメとしてでしか思えない考えでは、

それを良いと思っている人の気持ちは解らない。

そこを解ろうとしない限りは認識を合わせることは不可能だよ。

両極を認識していない人の意見は必ず偏ったものになるし、

自分の正しさの対極になる意見は否定しかしない。

それでは公正な判断なんてできないよね。


自分の認識に多様性を持たせて、

自らが偏見的な思い込みで作り上げた固定観念からの脱却を目指すなら、

自分のスタンスの対極にある思想を経験することが必要だよ。



頑張れ私!

自分を超えて!!

自分が作った自分の偏りは自分で打ち壊すしかない。

全てが私次第だよ!



これを読んだ私の心が、

少しでも自由と自分らしさを大切にして生きられますように。



                         敬具



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追伸

そうそう、

これを読んでる私やその知人友人に

「他者じゃなく自分を自分で決め付けて苦しんでる」って人居る?

もし居たらこれ読むと参考になると思うから載せておくね。

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