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もののあはれ〜散り際こそ美しく

最近聞いた話だが、日本人は昔から散り際の桜を美しく思う風習かあり、日本に来た外国人は、散り際ではなく、満開の咲き誇る桜に心をうたれるそうてある。この話の実感がみなさんにあるかはさておき、実際に平安時代の文学から、散りゆくさくらにいとをかし、という作品は多いし、日本人が桜といって目に浮かぶ情景には、桜吹雪はつきものではないだろうか。

こうしたところから、アメリカのヒーロー像が、とにかく強く悪を叩きのめしていくのに対して、日本の作品には散りゆく敵にもストーリーが強く残ったり、主人公が必ず勝つとは限らない作品も多い気がする。

こんな感じで。

他国の作品を多く知らないので、探せば出てくるかもしれないが、日本の価値観の一つの特徴である気がする。

ただ、近年こうした価値観はなかなか現実生活では掴みづらくなってしまっているのではないかと思う。
受験戦争を勝ち抜き、優良企業に入って出世街道を突っ走り、たくさんのお金を巻き上げて行くことが、資本主義の幸福の王道と言えるのではないかと思う。とはいえ、年数が経つにつれて、格差が注目されていたり、日本は特に将来を悲観視する風潮が子供や若年層に蔓延り始めてしまっているものの、王道の幸せの獲得が大変難しいことを意識し始めたことで、勝ちに行くより負けないようにしていく保守スタンスが流行り始めているように思う。こうした考えは、やはり大前提の王道の幸せ金持ち家庭に生まれて、やりたいことがなんでもできる子供が幸せなんだ、という基本的な考えは変わってないように思う。
こうした幸せに対しての考え方は、アメリカの勝ち負け重視、西洋から伝わってきた資本主義の勝ち抜き方が日本にも強く伝わったことの現れではないかと思う。ただ、先程も行ったように、価値がモノに集約され過ぎた価値観では、必ず負け組が生まれ、さらに生まれた環境によってスタートラインがどんどん変わっていき、勝ち組が固定されてきている。とても人の一生だけでは下剋上が年々難しくなっている。
こうしたモノの価値で見るだけでは社会はかなり限界に近づいていっている。そういうなかで改めて、日本古来からのもののあはれは再評価されるべきではないかと思う。人生の中で咲き誇る場面よりも、散りゆく場面をどう美しく生きるかに重きを置くべきではないだろうか。人生勝負ごとはつきものだし、思った通りにいかないことは非常に多いと思う。しかし、勝ちたい勝負で勝つ、やりたいことを成し遂げることは素晴らしいことだが、それは人生の咲き誇り方であるように思う。戦いで負けていく、うまく行かないときに、どのように折り合いをつけて、美しく散っていくかに重きを置く文化がもっと評価されてよいのではないかと思う。上手く咲き誇れなくとも、きれいに散り、また新しい若葉をつけて栄養を吸収し、次の春に備えていく。このサイクルを重視することでさらに次にはきれいな花、きれいな桜吹雪を吹かせられるのではないかと思う。

もちろん、貧乏人は貧乏であれ、とは思わない。どんな人でも生活に困らない金額が回ってくる社会制度は必要だと思う。たたただ、各々幸せでない原因を全てモノやカネに集約させず、大金持ちになる必要は全く無いのではないかと気づいたほうがいいと思う。(もちろん経済文脈では、大金を正しく潤滑させていく人は必要なんだろうが)
私も金がなく将来の夢を一つ中学生の時に諦めたし、なりたいと思ったものには今現在全く慣れていないし、世間的に見ればちゃんとした社会人にすらなれていない。ただ、当事者だからこそ、自分の価値を納得できる形で発揮し、自分で認められるように、今後もののあはれを大事にしていきたいと、そう思った次第である。

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