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父と語れば、父を語れば

突然ですが、「父と語れば、父を語れば」というマガジンを始めてみようと思います。

日本、フィジー、ニュージーランドで、これでもかぁ~というくらいバラエティに富んだ職歴のある私は、書くことを仕事にしていた時期もあります。

何を隠そう、書くことが大好きで、いつかは、書くことだけで食べていくことが出来るようになったらいいなぁと願っていました。


60歳くらいまでは、とにかく、出来るだけたくさんの旅や学びや仕事を経験して、その後、執筆業に専念しよう!と大まかに計画していました。
「うっ、ちょっ、ちょっとキツイなぁ~」という出来事が続いた時なども、「老後の執筆活動の肥やし肥やし~」と、いろんな経験を書き記す日を夢見て、乗り越えてきました。

noteも、いつかは始めてみようと思いつつも、そのままになっていました。

そんな書くことを先延ばしにしていた私に、noteへの最初の投稿をするきっかけをくれたのが、2年ほど前、コロナ禍の真っ只中での、予期していなかった父の死でした。

私のnoteへの最初の投稿が、父の書いた文章の代理投稿になるとは、予想だにしていませんでした。


実は、父とは、話らしい話を、じっくりとしたことがありません。

亡くなるひと月ほど前に、Web面会という形で、スカイプで話をした時が、人生で一番長く、話らしい話を父とした時なのかも知れません。
父のそばには施設の方がいらっしゃったし、時間も、その方の都合に合わせて、話の途中で切り上げる形になってしまいましたが、それでも、あの時が、人生で一番、父と話すことが出来たという気がしています。


小学生の途中くらいから、話らしい話を全くしなくなり、その状態が続いたまま、高校卒業後は、家を出て、関西にある大学へ通い、卒業後もそのまま関西で就職し、その数年後には、私は、日本を飛び出してしまいました。

父が亡くなった後、しみじみと思い返してみると、私は、父と、本当に、話らしい話を、したことがなかったなぁと、、、。
今思えば、父の言い分を聞く機会を全く持たないまま、父以外の人からの話を鵜吞みにして、父とは一度も語り合うことがなかったなぁと、残念な気持ちでいっぱいです。


父が亡くなって、一年以上経って、ようやく、去年、日本へ一時帰国することが出来ました。
父が残した日記や、父の投稿が掲載された新聞の切り抜きや、倒れる前の元気な頃に興味を持ったと思われる情報をまとめたものや、直接語られることはなかったけれど、父の残したことばを読めば読むほど、私の知らなかった父の一面や、教育への想いや、人生の苦労が伝わってきて、切なくなりました。

一度、父と語り合ってみたかったなぁと、つくづく思いました。


そんな時、ふと、浮かんで来たのが、亡くなった父と語り合うということです。勿論、私が、一方的に、語り掛けることになるわけですが、、、。


言い訳等をすることがなかった父は、娘の私だけでなく、多くの人たちに誤解されていたのではないかと思います。

父と語り合うだけでなく、同時に、そんな父について私のことばで語るということも、してみたいと思います。


子供のころに戦争を経験して、その後の激動の時代を生き抜いて、核家族化が進む中で子育てをし、高齢化社会が進む中で親の介護をし、デジタル社会が進む中で発言権を持たないまま旅立ってしまった父や、父と同じ世代の人たちの声は、インターネット上のデータに公平に反映されていないように思います。
note上に、父について書き記すことは、意味のあることではないかと思っています。


まずは、「父と語れば、父を語れば」というマガジンの開始宣言でした!


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