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僕の目から見たあなたは(小説)

「あのう、写真撮ってもいいですか?」

振り返ると、大きなカメラを持った女がじっとこちらを見つめていた。

◇◇◇

犬というのはつくづく散歩に人生(犬生?)を懸けている動物だな、と洸希は思った。それまでぐでんと横になっていても「散歩行くか?」と声をかけるだけで飛び起きて洸希をぐいぐい玄関へと引っ張る。

今日は散歩は少しだるいな、と思っていたのだが、犬の1日の楽しみを奪うのは気が引けた。

「散歩行くか?ウサギ」

ポメラニアンのウサギに声をかけると、案の定、彼はソワソワし始めて洸希の目をじっと見た。

ウサギという名前は、ポメラニアンが白くてふさふさでうさぎみたいだったことに由来する。以前、兄の愛犬の名を知った妹は「狂ってる」とだけ言った。

散歩に出かけると、春の陽気が町中にこぼれていた。オレンジに光る。紺色のアスファルトも、歩道の白線も、錆び付いたブランコまでもが光を放っていた。

今日はちょっと走ろうや、と洸希はウサギに声をかけた。ウサギが駆け出したのは洸希の言葉が通じたからなのか、それとも早足になった彼に合わせたからなのかは分からない。

走り出す瞬間、後ろから声を掛けられた。

「あのう、写真撮ってもいいですか?」

振り返ると、大きなカメラを持った女がじっとこちらを見つめていた。

「え、いいですけど。僕なんか撮ってどうするんですか」

洸希は反射的に前髪を直した。突然の出来事に驚いたが、写真に抵抗はなかった。

「あ、ちがいます。ワンちゃんを撮らせて頂きたくって」

女は慌てて訂正した。

洸希は前髪を触ったまま少し赤面した。

📷📷📷

「へぇ、ウサギちゃんって言うんや。面白いですね」

女、もとい北原一子は優しく言った。

「犬にウサギなんて変じゃないっすか?」

ポメラニアンの名前を告げるとき、洸希は今までの経験から、訝しげな反応を覚悟していたのだが、あまりに自然な返答に少し拍子抜けした。

「そんなん言うても、ほんまに白くてもふもふやし。洸希さんが『ウサギ』って思ったんならこの子は正真正銘、ウサギやと思いますよ」

一子はそう言いながら、ウサギの顔をシャッターで切り取った。人見知りする方だが、ウサギは一子にはわりと心を開いているようだった。

「北原さんはカメラすきなんですか?」

「あ、イチコでいいですよ。…はい。カメラ大好きです。私、撮りたいものが撮れなくなるのが怖くて、常にカメラ持ち歩いてるんです」

一子は長くてボサボサの髪を左側だけ耳にかけていた。風が髪を時おり煽るが、その度にめげずに彼女は髪をかきあげた。

「一子さんって変わってるって言われません?」

「犬にウサギって名前つける人に言われたくないです」

こいつやっぱ俺のこと変わってるって思ったんやな、と洸希は思ったが、悪い気はしなかった。

🍓🍓🍓

次の日、洸希は同じ時間に散歩に行ってみた。錆び付いたブランコのある公園のベンチに座り、ウサギと遊んでいた。

「あ、やっぱり」

一子が小走りで駆け寄ってきた。ウサギが反応して彼女の方に走り出そうとするので、洸希は思わずリードを強く握った。

「ウサギがこんな人に慣れるの珍しいですよ。しかも一子さんのことちゃんと認知してるみたい」

一子の両腿に足をかけてしっぽをブンブン振るウサギに、微笑ましくも少し妬けるような感情を洸希はおぼえた。

「あ、妬いてますね」

一子がウサギを撫でながら上目遣いでそう言った瞬間、洸希の胸の奥で真っ赤な果実が破裂する感覚があった。

「あの、一子さんって被写体にはならないんですか」

洸希は話を逸らすように訊いた。「それだけ撮ってるなら、うまい撮られ方も分かるんとちゃいます」

「ううん、私は撮る専門。自分の容姿があんまり好きちゃうくて」

明るかった一子の声色が、少しだけ暗くなったように思えた。しまった、と洸希は直感した。

🐶🐶🐶

それから1週間、洸希は毎日同じ時間に同じコースでウサギを散歩させた。偶然を装って一子に会うためだが、そんな不純な動機などつゆ知らず、ウサギは散歩に積極的になった飼い主にただただ喜びを示していた。

「ポメラニアンって顔が笑ってるみたいでほんま可愛いですよね」

「そうなんです、そこが決め手でした。こいつが俺のこと見てくるんですよ」

一子もやはり、同じ時間に同じ公園にいた。真っ白なスニーカーに深緑のスカートはいつも同じで、ブラウスの色だけが毎日違っていた。

「カメラ、なんでそんな好きなんですか」

昨日は地雷を踏んでしまった気がしたので、これならポジティブな返答にしかならないだろうという質問を選んで、洸希は尋ねた。

「うふふ、それ聞いちゃいます?」

悪戯っぽい笑みを見て、少しホッとする。今回の質問は悪くなかった、と。

「私の目、良くないんです。眼鏡をかけてやっと人並みかちょっとそれ以下の視力、って感じで」

彼女は淡々と続けた。

「カメラが私の目なんです。私は写真を撮ってるんやなくて、カメラの目を借りてほんの少し外の鮮やかな世界を覗かせてもらってるだけなんです」

春の生ぬるい風が、彼女のロングヘアを右へ左へとぐちゃちぐちゃにする。いい匂いがするな、と洸希は思った。

「例えば、ほら」

一子がカメラの内側のモニターを洸希に見せた。

「この空って、私の目には文字通り空色って感じで、これはこれで綺麗に見えるんですけど、レンズを通すともっとグリーンっぽい水色に映るんです」

カメラについて一子はとても嬉しそうに話した。首から下げた彼女の大きな一つ目を洸希は改めて神秘的だと思った。

「あの、少なくとも、なんですけど」

洸希は切り出した。

「その理論をお借りすると、少なくとも僕の目から見た一子さんはめっちゃ可愛いし、魅力的に思えます」

「は?」

またやってしまったと洸希は後悔した。しかし、口説こうと思ったわけではない。素直な気持ちを口にしたら結果的にそうなってしまったというだけだ。

「なんて言うんかな、やから、カメラは一子さんの目なんですよね。僕にはこの両目しかないんですけど。少なくとも、この目にはそう映ってます」

一子は驚いていたが、ふうん、と目を細めて笑った。

「ウサギちゃん、退屈そうにしてますよ」

後ろ足で器用に耳の裏を搔くウサギに「あ、ごめん」と言うと、洸希は走り出した。

…明日も、錆び付いたブランコのある公園で。

ふいに押したシャッターは、白くて丸い毛玉を連れて走る男の後ろ姿を捉えていた。

(おわり)




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