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30年日本史00638【鎌倉前期】承久の乱 公家5名の処刑

 さて、承久の乱の戦後処理において特筆すべきは、公家が次々と処刑されたことでした。
 一条信能(いちじょうのぶよし:1190~1221)は、義時の命を受けた遠山景朝(とおやまかげとも)に護送され、承久3(1221)年7月5日、美濃国遠山荘(岐阜県恵那市岩村町)にて斬首されました。信能が死を前にして念仏を唱えたところ、美しい紫色の雲が現れ、良い香りが漂い、空から音楽が聴こえるという奇跡が起きたといいます。この一条信能を憐れんだ村人たちが祠を建て、それが現在の岩村神社となりました。
 葉室光親は、武田信光(たけだのぶみつ:1162~1248)に護送され、7月12日、甲斐国の加古坂(山梨県山中湖村)で斬首されました。葉室光親といえば前述のとおり、義時追討の宣旨を起案した人物でしたね。しかし処刑後、泰時は光親が後鳥羽上皇に送った諫状数十通を発見します。光親は上皇に、挙兵を思いとどまるよう何度も上申していたのです。泰時は光親を処刑したことをひどく後悔したといいます。
 葉室宗行(はむろむねゆき:1174~1221)は、小山朝長(おやまともなが)に護送され、7月13日、駿河国浮島原(静岡県富士市)を過ぎたところで光親の遺骨を持った従者に出会いました。命だけは助かるかもしれないと一縷の望みを抱いていた宗行は、光親の斬首を知って「自らも死は免れまい」と覚悟を固め、次の歌を詠みました。
「今日過ぐる 身を浮島の 原にても つひの道をば 聞こさだめつる」
(浮島の原で死の淵から浮かび上がれるかもしれないと期待していたが、終わりを迎えることが分かり覚悟を決めた)
 翌7月14日、宗行は駿河国藍沢原(あいざわがはら:静岡県御殿場市)で斬首されました。
 藤原範茂(ふじわらののりしげ:1185~1221)は、名越朝時に護送され、7月18日、相模国早河(神奈川県小田原市)の川底に沈められて処刑されました。残酷な処刑に思えますが、範茂自身が「刀で斬られたのでは極楽往生できない」として望んだ処刑法だったそうです。
 源有雅(みなもとのありまさ:1176~1221)は、小笠原長清(おがさわらながきよ:1162~1242)に護送されて甲斐国小瀬村(山梨県甲府市)に連れられていきました。有雅は「北条政子と懇意にしているので助命嘆願をしたいから、死罪を猶予してほしい」と主張しましたが、長清はこれを許さず7月29日に斬首してしまいます。その後、政子から赦免状が届き、「早すぎる処断により、亡魂の恨みが残ったであろう」と吾妻鏡は記しています。
 なお、葉室宗行が斬られた駿河国藍沢原には藍沢神社が建てられ、そこでは宗行のみならず殺された公家5名全員を祭神としています。

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