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アメリカ海外特派員クラブでスピーチしてきました

上の画像の人物は、先月28日、Overseas Press Club of America(アメリカ海外特派員クラブ)財団学生賞の授賞式で壇上に立つ僕、小宮貫太郎です。

海外特派員クラブとは、AP・Reuters・New York Timesといった米国メディアの国際ジャーナリストらによって構成される業界団体です。このクラブの関連財団が運営する学生報道賞に日本人として初めて選ばれ、先月末、ニューヨークでの授賞式に参加してきました。

久々の投稿となる今回は、そこでの体験と僕の授賞スピーチについて書いていきます。(小宮貫太郎 @KantaroKomiyaJP

日本人初の受賞者として

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受賞者集合写真。右から2番目が僕です。

このOPC財団学生賞(Scholar Award)は、アメリカの大学に在籍する学生・院生で、前年にアメリカ以外の外国で優れた報道活動(文章・ドキュメンタリー・写真など)を行った者に与えられます。他にもOPCはその名もOverseas Press Club Awardという、プロのジャーナリストのための賞も運営しているので、その学生部門とも言えます。

ただ実は今回の受賞者の16人中13人はコロンビア大学・ニューヨーク大学・スタンフォードなどのジャーナリズム修士課程に在籍する経験豊富な方々で、学部生は僕とイェール・UCLAの学生の3人だけ、そして21歳の僕は最年少の一人でした。

後述のように、僕は昨年Bloomberg東京支局でインターンしていた際に書いた記事を提出し選ばれたのですが、他の受賞者はラテンアメリカ・ヨーロッパ・中東・南アジア・中国など世界各地で・また地域を股にかけてストーリーテラーとして活躍されている方々ばかりでした。モンタナの大学でアラビア語を専攻したのち中東で翻訳者をしていた方や、化学エンジニアから転身して写真家になったコロンビア出身の方、中国でホームステイしながらやがて北京特派員になった方、香港からシンガポールまで貨物船に同乗しエッセイを書いた方など、めちゃくちゃ面白い若手ジャーナリストたちの話を聞くことができました。

また各受賞者は、大手報道機関のフェローシップか、フリー活動のためのスカラシップを受けることができるのですが、僕はAP通信社のスタン・スウィントン・フェローに選んでいただきました。

そしてなんと、OPC財団会長のビル・ホルステインさんによれば、この学生賞を日本人が授賞したのは、1992年の創設以降僕が史上初めてとのことです。彼自身は自動車畑出身のジャーナリストとして90年代から東アジア各地で特派員経験の長かったベテランで、そんな彼から「日本出身者として英語圏でジャーナリズムに進む言語的な難しさはよく分かるよ」と声をかけられ、感無量でした。

授賞イベントは3日間続き、中でも2日目の2月28日金曜日の昼食会が本番の授賞セレモニーということで、タイムズスクエアのイェール・クラブ大広間で執り行われました(この時はまだNY市内でのパンデミックは起きていませんでした)。僕はAP通信の編集幹部の方々と同じテーブルに座り、緊張しながら自分の登壇順を待っていました...。

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授賞式の様子@Yale Club, New York

授賞スピーチ

各受賞者は、広間を埋める名だたるジャーナリスト・編集者の方々を前にして、2分程度のスピーチを求められていました。僕の場合は果たしてこのようなものになりました:

例年の受賞者は本番直前でスピーチがあることを言い渡されていたそうで、それはあまりにショートノーティスという声もあったのか、実は我々今回の受賞者は事前にCNNのプロデューサーの方などからスピーチのアドバイスを受けていました。それでも最終的に原稿をガン読みするスタイルになってしまい、ヴァーバル能力をもっと伸ばしていかなければと痛感した次第です。

英語力はどうであれ、内容そのものは僕の胸の内を率直に語ったいいスピーチになったのではないかと思います。以下は、その日本語訳全文です。適宜[訳注]を入れてます。

昨夏、ブルームバーグ東京支局にて、日本のインバウンド観光ブームの中で台頭した音声翻訳機市場についての記事日本語要約版]を書き、本賞をいただくことになりました。

私は、この記事は今の日本の一つの象徴とも言えるのではないだろうかと思います。急速に高齢化が進む社会の中で、テクノロジー・観光といった分野が、20年以上に及ぶ低成長の時代を脱するための鍵となりつつあるという点においてです。

また、この翻訳機の物語にはもう一つこのようなメタファーを見出すことができるかもしれません。それは、こんにちのニュースメディアの置かれた状況、つまりテクノロジーの発展がグローバル規模で一変させたコミュニケーションの様態です。

10歳の時、東京のとある新聞社で始めたボランティア活動[ヨミウリ・ジュニア・プレス]が、私のジャーナリズムへの情熱に火を灯しました。それ以来、私の中でジャーナリストとは、この世界に対する私の果てしない好奇心を役立てることのできる、夢の仕事であり続けました。

しかし、ニュース報道のあり方はこの10年ですっかり違ったものになりました。

デジタル・ディスラプションによって、今では世界中の多くの報道機関が存続の危機に瀕しています[拙稿]。いち駆け出しの経済記者として私はこの潮流を見逃すことができず、ジャーナリズムにおけるアントレプレナーシップ[拙稿]について真剣に考え始めるようになりました。

昨年、東京でのブルームバーグでの勤務の後、私はマレーシアのオンラインメディア[Malaysiakini]でインターンシップを行い、データジャーナリズムの基礎から、サブスクリプションモデルのためのプロダクト開発までを学んできました。

2050年にメディアが果たしてどのようなものとなるのか、今はまだ確固とした考えはありません。ただはっきりしているのは、私はこれからの人生を、独立した立場から事実に基づいてストーリーテリングを行うジャーナリズムを、持続可能なものにしていくために捧げるということです。

今の私の興味は、世界の経済・政治のダイナミックなハブとなったアジアにおける、またアジア発の、「ビジネスジャーナリズムとジャーナリズムのビジネス」にあります。

これから、スウィントン・フェローシップと共に、そんなダイナミズムの最前線[vanguard]に飛び込んでいくことを楽しみにしています。この機会を与えてくださったアメリカ海外特派員クラブ財団とAP通信には、非常に感謝しています。誠にありがとうございます。

これまで自分が考えてきたことを2分にギュッと凝縮しました。何人かのジャーナリストの方々が「いいスピーチだったよ」と褒めてくださり、改めて今まで自分が活動してきたことが認められたのだと感じました。もちろん賞を追い求めることや内輪で称え合うことだけがジャーナリズムの目的では決してないのですが、普段人と違うことを続けていく一方で、こうして同業者のコミュニティ・ネットワークを持っているということは大きな心の支えになります。

他にも、元学生賞受賞者でピューリッツァー賞に輝いた方が夜討ち朝駆けどころではない強行取材談を語ってくれたり、ロイター通信でのレセプションでメディア業界担当記者にメディアの未来について単刀直入に聞いてみたり(彼は「大手以外は生き残れないと思う」と悲観的でした)、今回の受賞者で南アフリカ出身のドキュメンタリー作家とジャーナリズムの偽善性についてパブで語りあったり、最終日にニューヨーク市立大で「グローバル・ジャーナリスト・セキュリティ」というクラスで紛争地域での身の処し方や催涙ガスについて学んだりなど、3日間のニューヨーク滞在中には、ここに書ききれないほどの刺激を受けました。

これを書いている2020年3月末現在、僕の通う大学はほぼ閉鎖され、インディアナ州でも外出禁止令が出されるなど状況が絶えず変化しています。授業も当面なくなり、学生ジャーナリストとしての仕事以外、やることもないので、久々に筆を執りました。

これを機にもっと発信活動も続けていければと思います。日本語アカウントはほぼ休眠状態ですが、Twitterもやってますのでぜひフォローお願いします。

今後とも小宮貫太郎と、ダンエディの我々Janguardをよろしくお願いします!

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OPC正会員として受け取った記者証(一部加工済)。中国語が繁体字なのは主に香港を拠点にする特派員が多いからだろうか。