任天堂テレビゲームを__母国語で遊ぶ__ということの凄さ

任天堂テレビゲームを「母国語で遊ぶ」ということの凄さ

私は86世代(えぇ、天下のイケハヤ氏と同学年)で、任天堂のスーパーファミコン(スーファミ)・ゲームボーイ・64で育った。

3つ上の兄の影響で、マリカー・スマブラはかなりやり込み、その辺の同世代男子にも負けない自信あり。
特に64。
スーファミは64やり込んだら出来なくなったw 任天堂あるある、かな。共感する方も多いのではないだろうか。

ちなみにキャラは、マリカーだとキノピオかルイージ。スマブラは断トツでカービィ。

あとは、RPGだとドラクエ5、FF6、クロノ・トリガーなんかもハマったなぁ。

ゲームボーイは、星のカービィと、もちろんポケモン。私は青だった。


これらの日本発のテレビゲームは、言わずもがな海外へも進出した。


大学3年の1年間はUCSD(カリフォルニア州立大学サンディエゴ校)へ交換留学をしていたのだが、当時、私は仲良い男友達たちとよく64で遊んだ。

私がスマブラがやたらうまいので、さすが日本人だ、と一目置かれていた。

国籍も言語も超えて盛り上がる64。
「みんな出身はバラバラだけど、同じゲームをして育ったんだなぁ」と21だった私は、Aボタンを連打しながら痛感したのだった。


そう、世界中のアラサーは、NINTENDOと共に育ったのだ。


そしてそれは、スタンフォードでも変わらない事実だった。


私がスタンフォード留学中は、ボーイフレンドがペルー人だったのもあり、彼の友人のラティーノ達とよくつるんでいた。エクアドル人・チリ人・メキシコ人・はたまたアメリカ人だけど親がメキシコからの移民でスペイン語ネイティブ、とかね。

そこにひとり混じる日本人女子が私だった。


そんな中、あの日がやってきた。


そう、2015年7月11日ゲーム界の申し子 天才プログラマー 兼 敏腕経営者の岩田聡氏の突然の訃報。

世界中がショックと悲しみに包まれる中、ふとフェイスブックでエクアドル人Aの友人の投稿が目にとまった。

This is really sad for me, someone who gave a lot of joy to my childhood. May he rest in peace.
僕にとって、とても悲しいニュースだ。彼は、幼い僕に多くの喜びを与えてくれた。どうか安らかにお眠りください。


たまたまその日、Aと会うことがあった。

私:「フェイスブック見たよ。ショックだよね…。やっぱり幼い頃NINTENDOで遊んだんだね」

A:「うん、NINTENDOは、僕に人生の生きがいと、あと英語を教えてくれたんだ」


・・・ん?

・・・英語???


私:「あれ?なんで英語?」

A:「だってしっかり遊びたかったから、一生懸命勉強して、そのおかげで今ではスタンフォードまで来ちゃったよ」


え?英語で遊んだの?なんでスペイン語で遊ばないの?


A:「そりゃスペイン語で遊べたらどんなに楽だったか!当時、南米は英語ソフトしかなかったからスペイン語で遊びたくても遊べなかったんだ」


え?え?そうなの?

ちなみに、このエクアドル人のAは、他のラティーノたちの中でも抜群に英語が上手で、ネイティブ並みの発音とスピード。


そこで、ペルー人の私の彼もやれポケモンで遊んだとか、やれマリカーやっただとか以前話したことがあったので、聞いてみた。

私:「ねーマリカーやボンバーマンやポケモンで遊んだって言ってたよね?英語で遊んだの?」

彼:「そりゃそうさ。英語だよ」

私:「あ、そうなんだ…。でも、ポケモンとかRPGって街の住人たちからヒント集めなきゃならないじゃん?そんな幼い頃から英語できたの?」

彼:「できないよ。だから相当苦労したよ。ポケモンで一度、どうしても何をしていいのかわからない時があって、マップを何度もグルグル回って、全ての街をくまなく訪れて、やっと、ひとりの人がそれより先へ通してくれないことに気がついたんだ。そこで、その人が言ってる言葉を辞書で一言一句、調べたのを今でも覚えてるよ…(遠い目)そこで僕は、thirstyという単語を覚えたんだ…レモネードをあげて…うんぬんかんぬん」


私、唖然。
子どもの頃に、自分の母国語以外でゲームをしなければならないなんて… 

考えたこともなかった。

ストーリーが追えず、それでも手探りで進んでいくゲーム…

ゲームの楽しさが半減しちゃう。


彼:「(続・遠い目)一体いくら僕は使ったことか…」


私:「いくらってどういうこと?」

彼:「NINTENDOで遊ぶには近所のお店に行って、お金払って、30分単位で遊んでいたんだ。SUPER NINTENDO(スーファミ)は30分50セント。64やプレステは30分1ソル(ペルー通貨)だったなぁ…(続続・遠い目)」


えぇえええ 

友達の家か自宅じゃないの?!?!
ってか、それ今でいうインターネットカフェの先駆けじゃない?!?!


それにしても。

そうか、80〜90年代当時のペルーは治安も悪く、経済難。

アメリカからの輸入品であるNINTENDOを買うなんて夢のまた夢。

近所にNINTENDOが遊べる個人商店があっただけでラッキーだったのかも…


私世代のほとんどが、なんらかの形で遊んだことがある世界のNINTENDO

それでも当時の世界中の子どものうち、自分の母国語で遊べる子の比率ってどれくらいだったんだろう。

私は小さな島国出身で、ましてやそこの言語はその国でしか話されていない。

そんなニッチな言語なのに、世界中を一世風靡したゲームを、何も考えることなく、当たり前のように自分の母国語で遊べたことがいかに凄いことか。

もちろん開発した国だからなんだけど…

でも、やっぱりすごいことだ。 考えると鳥肌がたつ。


あんなにゲームに夢中になっていた小学生時代。


地球の反対側では同じゲームで遊ぶにも、外国語を勉強しながら遊んでいた子どもたちがいたんだね。

外国語を学びつつ、みんな一生懸命に遊んだんだ。

NINTENDOにはそれだけの魅力が詰まっていた。

テレビゲームを卒業してはるかたった28(当時)にして、はじめて知り得た事実だった。


いわっち、ありがとうございました。そして、おつかれさまでした。

May he rest in peace.


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