人文書院

京都の出版社です。1922年創業。サルトル、フロイト、ユングをはじめ、人文科学全般を幅…

人文書院

京都の出版社です。1922年創業。サルトル、フロイト、ユングをはじめ、人文科学全般を幅広く刊行しています。http://www.jimbunshoin.co.jp/

マガジン

  • 批評の座標――批評の地勢図を引き直す

    ■2023年4月から連載開始、月2回記事を掲載します(4月は1回のみ、1年間連載予定)。 ■書き手は新進気鋭の批評家・ライターの方がたにお願いします。

  • 本屋とコンピュータ

    ジュンク堂書店難波店店長福嶋聡さんによるコラムです。書店について、最近は資本主義について。バックナンバーは人文書院ホームページからどうぞご覧ください。

  • アート・批評・理論の現在

  • 【トーク】戦争と技術――塚原東吾×小笠原博毅×栢木清吾

    ジュンク堂書店難波店にて開催した、アーロン・S・モーア著『「大東亜」を建設する――帝国日本の技術とイデオロギー』(人文書院)の刊行記念トークの記録です。登壇者は監訳者の塚原東吾さん、訳者の栢木清吾さん、そしてカルチュラル・スタディーズ研究者の小笠原博毅。こちらのトークは、訳書刊行直前に47歳で亡くなった著者の追悼イベントでもありました。(※この記録は、すでに人文書院ホームページにて公開したものを、読みやすさ重視のため移行したものです)

  • 【対談】記憶の残し方、過去の語り方――大澤聡×水出幸輝

    2019年に人文書院から発売された『〈災後〉の記憶史――メディアにみる関東大震災・伊勢湾台風』をめぐって、批評家で、メディア史研究者でもある大澤聡さんとの対談が実現。歴史と記憶について、たっぷり語っていただきました。

最近の記事

「批評の座標」書籍化のお知らせ――まとめに代えて

1.「批評の座標」1年間の連載を終えて  2023年4月に始まった、人文書院note連載「批評の座標――批評の地勢図を引き直す」は、2024年3月第23回をもって連載を終了いたしました。  ここまでご愛読いただいた皆さま、改めまして、ありがとうございました。本企画では、月に2回の記事を1年間連載し、新進気鋭の批評家・ライターの方がたによって、以下の批評家が取り上げられました。 ①赤井浩太「ゼロ距離の批評――小林秀雄論」 ②小峰ひずみ「青春と悪罵――吉本隆明入門」 ③

    • 【批評の座標 第23回】「あなた」をなかったことにしないために――竹村和子論(長濵よし野)

      「あなた」をなかったことにしないために――竹村和子論 長濵よし野  ここにわたしがいる。脳裏には――今遠くでたしかに呼吸をしている――さまざまな「あなた」(たち)が浮かぶ。それぞれを今、個別具体的な「あなた」として思う。わたしはわたしのことを「わたし」だと思う。そしてあなたもまた、あなた自身を「わたし」と思い、わたしのことを「あなた」と呼ぶだろう。  これからはじめるのは、ジュディス・バトラーの訳者で知られる竹村和子(1954-2011)という人物とその言説についての批

      • 【批評の座標 第22回】蓮實重彥、あるいは不自由な近代人(鈴木亘)

        蓮實重彥、あるいは不自由な近代人鈴木亘 1. 批評体験  蓮實重彥(1936-)は最初の著作『批評 あるいは仮死の祭典』(1974年)の第二段落で、すでに自身の文体的特徴をかなりの程度発揮させながら、しかしいくぶん実存主義の香りを残した調子で、「批評体験」について次のように説き起こしている。 蓮實にとって「およそ「作品」と呼ばれるもの」を読むことは、未知なるものと不意に出会ってしまうことである。それは日常的な言語使用の基盤を揺るがし、その自明性を解体させる。読書とは通

        • 【批評の座標 第21回】悲しき革命家としての鹿島茂(つやちゃん)

          悲しき革命家としての鹿島茂つやちゃん 夢と現実が入り乱れる中うつらうつらとまどろむ、その深層の中、あるいは集団の夢の中で、ある一つの流れ――自動律のような――が生まれる。それは、私にも乗り移る。今どこにいるのだろうか。夢に巻き込まれ、どこまでも連れていかれてしまう私――眠っているのに運動しているかのような――。 * 鹿島茂(1949-)と聞いてまずイメージされるのは、彼が「具体」の人であるということだ。それはもちろん、世界でも有数の一九世紀フランス古書コレクターである

        「批評の座標」書籍化のお知らせ――まとめに代えて

        • 【批評の座標 第23回】「あなた」をなかったことにしないために――竹村和子論(長濵よし野)

        • 【批評の座標 第22回】蓮實重彥、あるいは不自由な近代人(鈴木亘)

        • 【批評の座標 第21回】悲しき革命家としての鹿島茂(つやちゃん)

        マガジン

        • 批評の座標――批評の地勢図を引き直す
          25本
        • 本屋とコンピュータ
          13本
        • アート・批評・理論の現在
          2本
        • 【トーク】戦争と技術――塚原東吾×小笠原博毅×栢木清吾
          3本
        • 【対談】記憶の残し方、過去の語り方――大澤聡×水出幸輝
          5本

        記事

          【批評の座標 第20回】実感としての「過去」――江藤淳論(松本航佑)

          実感としての「過去」――江藤淳論 松本航佑 1.「過去」と「現在」の距離  「私」を考えるとき、我々はどのように考えるであろうか。それはおそらく、「私」はこのような性格で、何を好み、あるいは嫌い、どのような仕事をしていて……、といったように、自身にまつわる事柄を中心にして考えるであろう。だが、「私」はそのようなものだけで本当に説明することが可能なのか。自分の属性や経歴のみで本当に「私」は語りつくせるのだろうか。  おそらくそんなことは不可能だ。「私」を説明するときに用

          【批評の座標 第20回】実感としての「過去」――江藤淳論(松本航佑)

          【批評の座標 第19回】「戦場」から「遊び場」へ――西田幾多郎と三木清の関係性を手がかりに「批評」の論争的性格を問い直す(岡田基生)

          「戦場」から「遊び場」へ――西田幾多郎と三木清の関係性を手がかりに 「批評」の論争的性格を問い直す 岡田基生 1. 「論争」が「戦争」に変わらないために  「批評」という営みが、批評の対象(言論、作品、活動など)の問題点を指摘する、という側面を含んでいる以上、それは論争的性格を離れることができない。この性格をどう捉えるのか。それが問題である。問題点を指摘することは、直ちに対象のすべてを否定することではない。しかし、しばしば論争という構えを取ると、問題点を指摘する以上の

          【批評の座標 第19回】「戦場」から「遊び場」へ――西田幾多郎と三木清の関係性を手がかりに「批評」の論争的性格を問い直す(岡田基生)

          【批評の座標 第18回】名をめぐる問い――柳田國男『石神問答』において(石橋直樹)

          名をめぐる問い――柳田國男『石神問答』において 石橋直樹 1、はじめに  かつての批評家たちの数ある文章のうちに、時折、あちらへこちらへと引き摺り出されるようにして、その特異な名は据えられてある。その名に批評家はあるとき出会い、あるときには決別し、またあるときにはその名前を読み替えていく。その不意の一撃が批評という営為のなかに絶えず現れるならば、その名の主は、批評という横断としての営為が位置する三重点そのものを指し示しているといってよい。明治という近代日本の到来ととも

          【批評の座標 第18回】名をめぐる問い――柳田國男『石神問答』において(石橋直樹)

          【批評の座標 第17回】失われた世界への旅先案内人——山口昌男と出会い直す(古木獠)

          失われた世界への旅先案内人——山口昌男と出会い直す 古木獠 1 知の集団旅行  このまえ、熊野は新宮へ行った。批評のための運動体『近代体操』の同人である松田樹、森脇透青、そして哲学、文学、芸術、政治にかかわる人らとの、中上健次の足跡を辿る旅だった。中上が描いてきた故郷の土地をめぐり、いまや「消えた」被差別部落の「路地」という場所について考え、また市民グループ「『大逆事件』の犠牲者を顕彰する会」が運営する「熊野・新宮『大逆事件』資料室」で話を伺い、中上も関心を寄せそれを

          【批評の座標 第17回】失われた世界への旅先案内人——山口昌男と出会い直す(古木獠)

          【韓国語版刊行記念】高島鈴『布団の中から蜂起せよ』序文公開(韓国語版)

          韓国語版の読者の皆さんへ高島鈴 めちゃくちゃな世の中ですね。私は韓国語圏(私は地域を国の名前で呼びたくないのでこのように表記する)の社会情勢について詳しくはないが、おそらくそっちもめちゃくちゃになっているだろう、ということくらいはわかる。 われわれははっきり言って疲弊している。疲れ切っていて、今にも布団に倒れ込んで全てを忘れるように眠りたいと思っている。そういう状態にある人間を、社会は急かし続ける。お前はまだやれるんだろう、本気を出していないんだろう、全力じゃないなら意味

          【韓国語版刊行記念】高島鈴『布団の中から蜂起せよ』序文公開(韓国語版)

          【批評の座標 第16回】「孤児」よ、「痛み」をうめいて叫べ――『鬼滅の刃』と木村敏における自己と時間の再生(角野桃花)

          「孤児」よ、「痛み」をうめいて叫べ――『鬼滅の刃』と木村敏における自己と時間の再生 角野桃花 序章.木村敏の再生――主体の獲得という扉を開くために  生まれてこのかた、「痛み」で叫ぼうとする口を世界によって塞がれている気がした。  世界は、“正しい人間”は「痛み」を感じてはいけないと私に教え諭す。この「痛み」を知ってほしいと、他者に手を伸ばそうとするなら、人間関係を円滑に進めるとかいう「キャラ」が私にまとわりつく。傷つくかもしれないから、あるいは傷つけてしまうかもしれ

          【批評の座標 第16回】「孤児」よ、「痛み」をうめいて叫べ――『鬼滅の刃』と木村敏における自己と時間の再生(角野桃花)

          【批評の座標 第15回】見ることのメカニズム――宮川淳の美術批評(安井海洋)

          見ることのメカニズム宮川淳の美術批評 安井海洋 1.はじめに  荒川修作とマドリン・ギンズは1970年のヴェネツィア・ビエンナーレで連作「意味のメカニズム」を発表した。以後いくたびか改変、再制作、書籍化を繰り返す本作を通して、荒川とギンズは視覚で認知し得る空間をどこまで二次元平面上に置き換えられるかを問う。こうしたコンセプトは、それ以前から続いている荒川個人の作品群である「図形絵画」シリーズにもまた共有されている。  視覚による認知と視覚の文法は別のものである。後者

          【批評の座標 第15回】見ることのメカニズム――宮川淳の美術批評(安井海洋)

          【批評の座標 中間報告記事】編集補助班よりふたたび愛をこめて

          編集補助班よりふたたび愛をこめて――中間報告 1.「批評の座標」ここまでの連載  note連載企画「批評の座標――批評の地勢図を引き直す」も、すでに第一回から第十四回までを数え、ようやく折り返し地点である。月に二本の記事を掲載する本企画は、一年間の連載を予定している。ここまで掲載してきた記事を、一覧にまとめてみよう。 ①赤井浩太「ゼロ距離の批評――小林秀雄論」 ②小峰ひずみ「青春と悪罵――吉本隆明入門」 ③西村紗知「最底人を生きる――80年代の浅田彰について」 ④

          【批評の座標 中間報告記事】編集補助班よりふたたび愛をこめて

          【批評の座標 第14回】SFにおける主体性の問題――山野浩一論(前田龍之祐)

          SFにおける主体性の問題山野浩一論 前田龍之祐 1.‘‘SF批評家・山野浩一’’の誕生  過去の日本の批評家の仕事を振り返りながら、「批評の地勢図を引き直す」ことを目的とする本企画だが、SF批評の「地勢図」を考える際に多くの読者が想起するのは、巽孝之編『日本SF論争史』(勁草書房、2000年)によって纏められた一連の議論ではないだろうか。  同書は、日本初のSF商業誌『SFマガジン』の創刊(1960年)を皮切りに、急速に拡散と成熟を遂げていった日本SFにおける論争の歴

          【批評の座標 第14回】SFにおける主体性の問題――山野浩一論(前田龍之祐)

          【批評の座標 第13回】舞台からは降りられない――福田恆存の再上演(渡辺健一郎)

          舞台からは降りられない――福田恆存の再上演 渡辺健一郎 演戯としての生  演劇批評なるものを試みるとき、客席のどこに座れば良いか、私は毎度困惑してしまう。対象を客観的に観察、記述すべきだとするならば、なるべく後ろの席に座るのがベターであろう。そこでは舞台上での出来事、他の観客たちの反応まで含めて一望することができる。しかし無論、俳優の表情の機微や一挙手一投足を把捉するためには前の方に陣取った方が良い。ではどうするか。より穏当と思われるのは中央の座席に座るということだが

          【批評の座標 第13回】舞台からは降りられない――福田恆存の再上演(渡辺健一郎)

          【批評の座標 第12回】西部邁論――熱狂しないことに熱狂すること(平坂純一)

          西部邁論熱狂しないことに熱狂すること 平坂純一 1・「保守的心性」揺るがぬ根本感情  人が保守主義者という時は「書斎に篭る気難しい老人」だとか「権威に棹さす山高帽」やら「横分け白髪の親米派」「神社と兵器に五月蝿い懐古主義者」と相場は決まっている。保守主義がフランス革命と啓蒙思想、主知主義批判を根拠に我が国に流れ着いて土着化したとすれば、いわゆる人士を眺めたとして果たして面白いだろうか?  熱狂と冷静の間にある中庸を知る真なる保守主義者にとって、熱狂体験を経ていないなら

          【批評の座標 第12回】西部邁論――熱狂しないことに熱狂すること(平坂純一)

          『聖杯の神話――アーサー王神話の魔法と謎』訳者解説公開

          訳者解説 キャンベルの比較神話学と「聖杯の神話」について 訳者 斎藤伸治  本書の著者ジョーゼフ・キャンベル Joseph Campbell(1904-1987)は、20世紀を代表するアメリカの比較神話学者である。キャンベルは、世界の神話の比較ということに対して、幼い頃からずっと特別な関心を抱いていた。彼は生涯にわたってアメリカ先住民の神話や文化に関心をもち続けたが、それは6歳の時に父に連れられてマディソン・スクエア・ガーデンでバッファロー・ビルのワイルド・ウエスト・ショ

          『聖杯の神話――アーサー王神話の魔法と謎』訳者解説公開