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日本人の豊かな信仰世界を覗き見る~柳田国男『禁忌習俗事典』

みとは、不吉の象徴である。避けるべきものである。

古代日本には、清浄の思想があった。清く明き心としての清明心は瑞兆を呼び込む。逆に、なにかのきっかけで人にけがれがつくと、それが凶事を呼び込んでしまう。

穢れは、個人がかぶる罪や不吉に留まらない。天変地異なども穢れが引き起こしたものと考えられていた。

一度ついてしまった穢れへの対処としてみそぎはらえという方法論が洗練され、徐々に日本人の信仰の核をなしていく。

忌みは、日本全国津々浦々だいたいにおいて見られる。忌まれる事柄やその現れかたは土地ごとに異なり、人から人へ語り継がれるなかで多くのゆらぎを内包し、さまざまな形で生活の中に浸透していく。一方で、その多様さのなかにも幾ばくかの共通点を見いだせることもある。


お産や血、死はとにかく忌まれる。

北枕、鳥、木、石、ネズミも嫌われる。その他、本書で延々と列挙される忌み物がある。

入ると出られない山、覗いてはいけない井戸、耕作者に良くないことが起こる畑、生け花、貧乏ゆすり。

忌みにある人は、体に色々影響が出たり、身内に凶事が起こるので、なんとかして清めたり、隔離されることになる。

しばらく人と会わずに忌み小屋にこもらなければならず、「四十九日」がその期間とされていた。忌みの思想が現代の我々の暮らしのあちこちに顔をのぞかせていることが、本書を読むとよくわかる。

禁忌の対象は多岐にわたり、地域の風土に合わせてさまざまな形で現れる。史料に残る痕跡も限定的で散在している。これを丁寧で緻密な文献調査で全国各地からかき集め、一冊の本にまとめてしまう柳田の手腕には相変わらず目を見張るものがある。

事典と言いながら、サクッと読み通せる軽い読み物に仕上げてある。忌みの種類、場所、もの、時間、言葉、影響、守り方、と構造整理がスッキリしているだけである。

たしかに、柳田が他所で語る習俗・文化のたぐいに比べれば、やや淡白な対象ではある。語り口が、というのでなくて、忌みという対象がそうさせる。

例えば柳田『日本の伝説』なんかで取り上げられる民話、昔話のたぐいはダイナミックで興味をそそられるような話の筋があって、登場人物も豊かである。これを面白がった子どもたちが語り継ぎ、大量の異文へと枝分かれしていく動的な伝承プロセスも瑞々しい。

禁忌はむしろ、慣習法として親が子に滔々と教え諭すような、われら大地の子らに神話的世界からの言霊がひとつひとつ規矩をはめていくような、冷たい空気の漂いとしてある。苔生す森の奥深く、朝霧とともにしっとりと立ち上がるような霊性。多神教世界に特有の、注意深く目を凝らさなければ気づけない、暮らしの隙間ごとにじわりと染み出してくるような太古からの集合意識の位相が、本書にもただならぬ雰囲気として充満している。

それがこのテーマ全体の語りを、抑制の効いたものにしている。中には中国からの陰陽思想にもだいぶ影響を受けているものや、近世以降の新しいものもあると柳田は言うが、いずれにしろ国風にアレンジされた土地土地の風習に取り込まれたものではある。

思えば西洋におけるタブーは、モーセの十戒や、わけても偶像崇拝の禁止に代表されるように、神の品位を高めたりする役割をしっかりと担って人々の前に掲げられる。特定の神や特定の祭祀と結ばれて、明確な理由とともにたち現れる表象が主であって、日本の禁忌とは趣がだいぶ異なるだろう。支配者層が生み出した擬制としての側面もあり、豊かな民衆文化をそのままに写し出しているとは言いにくいところがある。

また、忌みと西洋の神話との比較を考えても面白い。産後/乳児死亡率が高かった昔に、お産が否定性のうちに捉えられていた側面はどの文化でもあったろうと思う。死や出産が伴う悲しみを、いち早く「悲劇」として形式化し、避けようのない人間存在の形式そのものとしてパフォーマンスにしてしまった西洋古代は合理的である。

翻って、忌まるるものとしてただ遠ざける、ただ避けることを選んだわが祖先たちが、その先に何を得ようといていたのかは謎である。狭く海に囲まれた国土の中で、生存のために「世間」や「空気」の調和を重視せざるを得なかった日本人の集団的意識が、共同体から異物をさっさと隔離してしまう方ヘ向かわせたと考えるのは、乱暴に過ぎるだろうか。
悲劇という否定性を戯画化し、個々人が乗り越えていくことを賦活する方策を採るには、大陸的なおおらかさが必要なのかもしれない。


なんにせよ本書は、日本の風土と我々のルーツを緊張感とともに写しだしている。その一つ一つの禁則事項から、暮らしと密接につながった濃密な信仰の世界が垣間見える。

先祖たちはなにを感じ、なにを讃え、またなにに恐怖したのか。古代よりの意識の古層は、案外こういうところに最も鮮やかに求めることができるのである。

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