金さん、コンプレックスがなんやねん

高瀬 甚太

 体が小さくて細くて、幼い頃から親に虐待を受け、周りからいじめを受け、差別され続けてきた金英明さんの人生は悲哀に満ちている。オドオドとした表情で話す金さんの話し方は、今に至っても変わっていない。金さんの人生をそのまま表しているようにさえ思える。
 そんな金さんがえびす亭に出入りするようになるきっかけを作ったのは、常連の一人である李さんだ。
 李英雄さんは、普段は、大阪鶴橋の国際市場でキムチを売っている。キムチを作っているのは、李さんの母親と親戚の叔母で、その味が好評でたくさんの客が殺到していると評判になっている。
 一般的に日本では浅漬けと言われる方法でキムチが作られるが、李さんが販売しているキムチは、韓国本来の製法で、本格的に魚介を発酵させて作るから、酸味が強い。それが美味しいと評判になってよく売れているのだ。
 李さんの店に金さんが時々、キムチを買いにやって来る。そんな金さんを見て、李さんが声をかけた。
 「まいどありがとうございます。この近くに住んでおられるのですか?」
 金さんは、声をかけられたことに戸惑っいながら、
 「ええ、猪飼野に住んでいます」
 と小さな声で答えた。
 「そうでっか。実は私もそうですねん」
 李さんは、キムチを買いに来る金さんを見て、自分に似た匂いを感じていた。在日であること、日陰を生きてきたこと、年齢から生活まで、すべてにおいて同類だと感じていた。
 同類相憐れむではない。お互いの傷を舐めあってもどうにもならない。だが、お互いを切磋琢磨すれば変わって来るものもある。李さんは、金さんとそんな付き合いがしたいと思い、積極的に話しかけ、遊びにも誘った。
 金さんは最初、李さんの親切を有難迷惑に感じていた。どちらかといえば、そっとしておいてほしい、そんなところが金さんにはあった。李さんは、金さんのそんな気持ちを熟知しながら、それでも金さんを誘い続けた。
 人は一人では生きられない。李さんはそのことを肌で感じている。若い頃、李さんは悪い仲間とつるんで盗品を売買して生活していたことがある。泥棒たちが盗んできた品物や金品を買い取って、それを売りさばいていたのだ。もちろん、李さんは下っ端で使われる方だった。だが、警察の手が入って捕まった時、一番下っ端であるはずの李さんが主犯に祭り上げられて刑務所に入れられた。仲間たちが口裏を合わせて、李さんを主犯に仕立てあげたのだ。五年間、刑務所に収容され、釈放された李さんは、以後、その仲間たちとは付き合いを断った。これからは誰にも頼ることなく、自分一人の力で生きよう、そう決心したのだ。
 東成区の機械工場で働き始めた李さんは、工員仲間と付き合いをせず、一人、黙々と働き、昼食の際も一人、片隅でご飯を食べ、仕事終わりに仲間の工員たちに誘われても同行することもなかった。元々、在日であることにコンプレックスを持っていた李さんは、人の中に入ることを苦手としていたから、それでも平気だった。
 ある時、李さんは工場で大けがをした。機械に左足を挟まれ、寸でのところで足を失うところだった。機械に腕を挟まれた李さんを助け出し、病院へ運んでくれたのは工員の仲間たちだった。彼らは、付き合いも悪く、とっつきにくい李さんのことを親身になって心配し、みんなでお金を出し合って、見舞い金を用意した。
 奇跡的に足の筋肉が回復した李さんは、退院すると、工員仲間全員にお礼を言って回った。工員たちは、「当たり前のことをしただけだから気にすることはない」と言い、李さんの腕が元通りに回復したことを我がことのように喜んだ。
 やがて李さんは、母親を手伝ってキムチの販売をすることになり、工場を退職したが、その工場の工員たちとは今でも付き合いがあり、月に何回か、みんなで酒を呑んでいるという。
 李さんが金さんを初めて見た時、同類だと感じたのは、コンプレックスの塊で、人と接することを拒んでいた頃の自分に、金さんがよく似ていたからだ。
 しかし、金さんは、李さんがどのように誘っても決して応じることはなかった。そんな金さんを見て、とうとう李さんはある時、買い物にやって来た金さんを叱った。
 「三回、誘われたら二回は断っても、一回は、応じるものや。それがエチケットや。違うか?」
 勝手に誘っておきながら、その言い分はないだろう、金さんはそう思ったが口に出しては言えなかった。ずっと臆病に暮らしてきた金さんの引っ込み思案は相当のものだ。李さんが何を言おうと応じる気配がなかった。
 「俺があんたを誘うのはこれで六回目や。ええか、俺があんたを何で誘うかわかっているか? 別にあんたのことを好きでもなんでもない。そやのにこうやってしつこく誘い続けるのは、あんたが俺に似ているからや。あんた、ほんまに俺によう似てる。気の弱そうな顔、臆病な態度――。俺も子供の頃から虐められて育った。在日ということで差別意識を感じたこともある。――あんた、男前でないところまで俺にそっくりや」
 その時、初めて、金さんが笑った。
 「俺たち似た者同士や。でもな、俺は変わったんや。人間、コンプレックスを持ちすぎるとろくなことはない。在日が悪いか? 俺の周りで在日を差別するような日本人は一人もおらへん。育ちが悪いからといってけなすような人間もおらへん。顔が悪いからもてへんのは別にして、人の中に思い切って飛び込んでみると、意外と自分が気にするほど人は自分のことを悪く思っていないことに気付かされるし、案外、歓迎してくれるものだと知った。殻を破らないといつまでも隅っこにへばりついて生きなあかん。そんな人生なんてつまらんやろ」
 李さんの言葉を金さんは神妙に聞くのだが、李さんが誘うと、あっさり断った。拍子抜けをした李さんだったが、その翌日、やってきた金さんを李さんが性懲りもなく誘うと、
 「よろしくお願いします」
 と今度は打って変わって明るい返事をした。どういう風の吹き回しか、金さんにはさっぱりわからなかったが、何はともあれ、李さんは、金さんの心変わりを喜んだ。
 鶴橋からJR環状線に乗って、李さんは金さんをえびす亭に案内した。のれんをくぐってガラス戸を開けると、金さんは、店内にあまりにも人が多いことに驚いて、ヒェーッと奇声を発した。しかも立ち呑みである。半円形のカウンターに人が鈴なりになって群がっている。
 「李さん、申し訳ないけど、こんなに人が多いところとは知らなかった。この店は勘弁してほしい」
 金さんの泣きが入ったものの、李さんは構うことなく金さんの手を引っ張って中へ入って行った。
 「おう、李さん。キムチ、よう売れてるか」
 鈴なりの客の間から声が飛んた。
 「うちのキムチはいっぺん食べたら癖になる、そない言うてぎょうさん買いにきますわ」
 「ほんまや。李さんとこのキムチは美味しい。あんなに美味しいキムチはこれまで食べたことがない」
 「そうでっしゃろ。うちのおかん、韓国の済州島で子供の頃からキムチを漬けとったから、筋金いりですわ」
 「わしも李さんのおかんみたいな人に生まれたかった。そしたら美味しいキムチが食べ放題やったのに」
 笑いが起きる。金さんは俯いて、早くこの場から離れたい。そう思っていた。
 「李さんのお連れの方、ここへ来るの初めてと違いますのか」
 金さんをみた客の一人が言った。
 「金さん、言いますねん。わしの友だちです。よろしく頼んます」
 李さんが、金さんのグラスにビールを注ぎながら言った。金さんは、俯いたまま、小さく頭を振った。
 「金さんでっか。それはそれは、こちらこそよろしくお願いしまっさ。お近づきに一杯」
 別の客が金さんのグラスにビールを注ごうとする。李さんから注がれたビールでグラスが一杯になっている金さんは、思わず躊躇した。
 「何してまんのや。ぐっと空けて、ぐっと――」
 仕方なく金さんはグラスのビールを一息に呑んだ。空になったグラスに、ビールが注がれる。
 「おおきに」
 金さんがお礼を言うと、客が笑った。
 「お礼なんか言わんでもええんやで。差ししつ差されつがこの店の基本や。さっ、もう一杯」
 客は、再び、金さんのグラスに注ごうとする。すると、別の客が、割って入る。
 「今度はわしの番や。金さん、わしの酒も呑んでちょうだい」
 その夜、金さんは久しぶりに気持ちよく酩酊した。誰が誰であるか、わからないほど、たくさんの客から酒を注がれた。乾杯を、何度繰り返したかも覚えていない。いろんな客がいた。太った人、痩せた人、禿げた人、紳士風の人、作業着姿の人、金さんと同じ在日の人も何人かいた。二時間近く呑んで、おぼつかない足取りを気にしながら金さんは李さんと共に帰った。
 金さんの様子が変わったなと、李さんが思ったのは、その後のことだった。キムチを買いに現れた金さんの表情が妙に明るい。いつもは、俯いて、挨拶さえろくにしないのに、その日は、李さんに向かって自分から挨拶をした。
 「李さん、先日はありがとうございました」
 金さんのお礼の言葉を聞きながら、せっかく金さんを誘ったのに、立ち呑みの店しか連れていかなかったことを、あの日以来、李さんはずっと申し訳ないと思っていた。それで、まずそのことを詫びた。
 「立ち呑みの店でごめんな。でもなあ、わし、前からあの店に金さんを連れて行きたいと思っていたんや。大した店じゃないかも知れんけど、わしは、あの店で人と人との付き合いがどういうものか知った。上も下もない、媚びることも偉ぶることもなく、自然体で付き合えることがどれだけ素晴らしいか。わしは、あの店に行くまで経験したことがなかった。わし、初めてやねん。あんなふうに、みんなから李さん、李さんと声をかけられたの。他の店だったら、一人静かに呑んでいるだけや。でも、あの店はひとりぼっちにしてくれない。気が付いたら仲間の一人になって、賑やかに呑んでいるわしがいる。仲間の一人になっているわしがいる――。金さんにもわしと同じ気分を味わってほしかった」
 「李さん、おおきに。わしみたいな人間のこと、そんなふうに気遣ってくれるの、李さんだけや。感謝しています。それに、わし、あんなふうに親切にされたの初めてで、ほんま、嬉しかった。わしの中にあった、いろんなわだかまりが一気に消えてしまったようで不思議な気分やった――」
 金さんは李さんに再び礼を言うと、
 「今度、わし、一人で行ってみようと思っています」
 と意外な言葉を口にした。
 「一人で行くって――、大丈夫かいな」
 「この間は李さんがそばにいたから、ついでにわしにも声をかけてくれたんやと、後で思った。一人で行っても、相手にしてもらえるやろか。それを確かめたいと思っているんや」
 金さんの疑心暗鬼を李さんは無理もないと思って理解した。普通はそう考えるのが当然のことかもしれない。金さんは幼い頃から、一人ぼっちで過ごしてきた。誰からも相手にされずに来たと、李さんは以前、金さんから聞いたことがある。金さんがどのような人生を歩んできたか、李さんは断片的にしか知らない。金さんがどのような職業についているか、それさえ知っていない。
 自分の半生を語りたがらない金さんが、李さんにだけそっと打ち明けたのは、その日のことだった。店を母親に任せ、金さんと共に近くの喫茶店に入った李さんは、そこで金さんから話を聞いた。

 ――金さんの父親は在日二世で、母親も在日二世。上に姉と二人、金さんの下に弟が一人いる。父親が無類の酒好きでまともに働かなかったため母親が飲食店で働いて一家を支えた。生活は貧困を極め、金さんも小学生の頃から新聞配達などをして家計を助けた。
 姉は中学を卒業すると家を出て、工場の寮に入って働き始め、兄の一人は自力で高校進学し、大学まで進んでいる。もう一人の兄は、それとは対照的に極道の世界に入り、対立する組との抗争によって二五歳の若さで命を落とした。下の弟は、高校を出たものの、その後、東京へ出て音信不通になり、現在もなお連絡が途絶えたままだという。
 金さんは中学を出て鉄工所で働き、定時制高校に通うが、途中で退学している。小、中、高と成績はあまりよくなかったようで、勉強が好きではなかった金さんは、同時に学校という人の集まるところが苦手だったようだ。小学校、中学校と、学内でひどいいじめに遭い、それがトラウマになって、社会に出てからも人との交際を避けるようになった。
 しかし、仕事は大好きで、溶接の仕事が好きであったことから、中学を卒業して入社した東大阪の工場で現在も勤務している。仕事は出来たが、人付き合いが苦手であったため、役職にこそ着いていないが、腕を見込まれて、給料は年々アップし、年相応の稼ぎは手にしている。何度か、別の会社に誘われたり、恵まれた条件での転職を要請されたこともあったが、金さんはそれらをすべて断って現在の会社で働き続けた。
 現在の会社は、一日中、溶接の仕事に徹し、誰とも口を利かず働けるところが気に入っていたし、それとは別に、もう一つの理由が金さんにはあった。
 同じ会社で働く安藤よしこという事務員がいた。金さんが勤め始めて十年後に入社してきた女性で、年齢は三十歳、すでにバツイチで子供が一人いた。明るくて笑顔の絶えないよしこを慕う工員たちは多く、何人もの男たちがよしこに交際を申し込んだが、よしこは、最初の結婚で失望していたせいか、誰の誘いにも乗じなかった。
 金さんも秘かによしこのことを想っていたが、引っ込み思案でコンプレックスの塊であった金さんに気持ちを打ち明ける勇気はなかった。金さんとよしこは同年代であったため、時折は話すことがあったが、せいぜい世間話程度で、金さんとよしこの距離は相変わらず遠いまま時間だけが過ぎた。
 ある時、よしこが病気で仕事を休んだ。よしこには幼い子供が一人いる。心配になった金さんは、食料を持ってよしこの住まいを訪ねた。よしこの住まいは今里の1DKのマンションだった。チャイムを鳴らしても返事がない。何度か鳴らすが応答がなかったため、金さんは隣の部屋のチャイムを鳴らし、住人に尋ねた。
 「昼ごろ、救急車が来て、安藤さん、運ばれて行きましたよ」
 とチャイム越しに住人が言った。
 「どこの病院に運ばれたかわかりませんか?」
 「さあ、私にはわかりません」
 「幼い子供がいたはずですが」
 「救急車で運ばれた時、子供さんはいませんでしたよ」
 金さんは、何らかの事情で子供が置いてけぼりになったのではと思い、もう一度、よしこの部屋のチャイムを鳴らし続けた。しばらく鳴らし続けると、ドアがガタンと鳴って、チェーンを外さないまま幼い男の子が恐々顔を出した。
 「お母さんの会社の友だちだよ。食糧を持ってきたからこのドアを開けて」
 会社の友だちと聞いて安心したのか、子供は、背伸びしてチェーンを外しドアを開けた。
 男の子は五歳ぐらいに見えた。
 「ママが、ママが――」
 金さんの顔を見ると、男の子は堰を切ったように泣き出した。母親が救急車で運ばれて、ずっと一人で母の帰りを待っていたのだろう。金さんが、おにぎりやパン、お寿司を子供の前に差し出すと、よほどお腹が空いていたのだろう。ガツガツとむしゃぶりついた。
 金さんは、近くの病院へ電話をかけて、昼ごろ救急車で運ばれた女性がいないかと尋ねた。数軒の病院に連絡を取って、五軒目でようやくよしこが運ばれた病院がわかった。
 金さんは、男の子を抱きかかえると、部屋の戸締りをして、タクシーでその病院に向かった。
 午後八時少し前に病院に到着した金さんは、受付でよしこの病室を聞いた。受付の担当は、よしこは集中治療室に入って手術を受けたばかりだと言う。金さんがよしこの病室を訪ねると、絶対安静の札がかかっていた。よしこの身寄りの連絡先がわからず、困っていた担当の医師は、金さんが訪ねると安堵の表情を浮かべ、よしこの病状を説明した。
 「ずいぶん疲れがたまっていたのだと思います。それが元で心臓の弁膜に異常が発生したようで、救急車で運ばれて来た時、予断を許さない状態だったのですぐに手術を行いました。元々、心臓が悪かったようで、もう少し遅ければ危ないところでした」
 「安藤さんは今、どんな状態なのですか?」
 「現在は絶対安静ですが、一週間ほど様子を見て、経過が良ければ二週間ほどで退院できるでしょう」
 医師の説明を聞いた金さんは、その日はそのまま病院を出て、よしこの息子と共に東成区の自分のアパートに帰宅した。
 よしこの息子、和人に金さんは病状を説明し、しばらく自分と一緒に暮らすよう話した。幸い、和人は無理を言うことなく、素直に金さんに応じた。近くの銭湯へ出かけ、和人の体を洗ってやると、和人は、金さんの背中を洗い返し、銭湯の帰りにアイスクリームを買ってやると、アパートへ帰る途中、ご機嫌な表情でそれを食べた。一枚しかない布団に二人で寝ると、和人は金さんの懐に抱かれてスヤスヤと眠った。
 金さんは不思議な気分でいた。まるで自分の親にそうするように抵抗なく眠る和人の寝顔を見ていると、今まで抱いたことのない愛情が湧きあがり、愛しさのあまり和人を抱きしめた。
 翌日、幼稚園に和人を送って行き、その足で職場に向かった。幼稚園の先生は、金さんを和人の父と思ったようだ。和人に向かって、
 「よかったね、お父さんができて」
 と言った。和人は、恥ずかしそうに照れ笑いをし、金さんを見た。
 仕事を終えた金さんは、作業服のまま和人を迎えに幼稚園に行き、そのまま、病院へ向かった。途中、金さんは、勝手なことをしてと、よしこに叱られるのではないか、そんなことを思った。よしこと金さんには特別なつながりはない。会社で会って、朝の挨拶をし、帰りの挨拶をするぐらいが関の山だ。たまには話をするが、世間話がいいところだ。よしこが金さんのことをどう思っているか、特別な感情など持っているはずがないということは金さんだってわかっていた。よしこのことを思うたびに金さんは自分を卑下して止まない。そんな自分が和人を預かり、よしこの病室を訪ねる。おせっかいだということはよくわかっていた。だが、和人をこのまま放っておけないし、入院しているよしこの世話だってそのままにはしておけない――。
 病室を訪ねると、よしこがベッドから半身を起こして待っていた。病院に行く前に医師に電話をして確認していた。それがよしこにも伝わったのだろう。和人を見たよしこは、泣き叫ぶような声で和人の名を呼び、その小さな体をベッドの上から手を伸ばし、抱きしめた。金さんが和人の後から、おそるおそる顔を覗かせると、よしこはずいぶん驚いた表情をして金さんを見た。
 「金さんが和人を――」
 医師から、昨日の夜、息子さんを連れて男性の方がやって来たと話を聞いていたよしこだが、それが誰であるか、まるで見当が付いていなかった。
 「昨日、心配になって立ち寄ったら、和人くんが一人でいたので――」
 金さんが申し訳なさそうに言うと、よしこは首を振って、
 「ありがとう。金さん。私、和人を一人にして来たから心配で仕方がなかったの。今朝、気が付いて、看護師さんに、息子を家に置き去りにしていると言うと、お医者さんが、昨夜、息子さんを連れて男性の方が来られました、と言う。でも、私、心当りがなくて、一体誰だろうかと悩んでいたの。金さん、本当にありがとう」
 おせっかいなことをして怒ると思っていたよしこに、逆に感謝されたので、戸惑いながら金さんが言った。
 「おせっかいなことをして申し訳なかった。わし、安藤さんに子供がいたことを思い出して、心配になって立ち寄ったんです。勝手なことをして申し訳ないと思ったけれど、一人で放っておくわけにいかないから」
 言い訳のように言う金さんの手を握って、よしこが、
 「ありがとう、金さん、本当にありがとう」
 と何度も頭を下げた。
 「退院するまで、わし、和人の世話をしておくから心配せんでええよ」
 金さんの言葉を聞いた和人が、
 「わーい、わーい」
 とよしこのそばで何度もはしゃぐように腕を掲げ、バンザイをした。
 
 よしこは、予定より早く、十日ほどで退院することができた。金さんは、その日、仕事を休んで、和人と共に病院へ迎えに行き、よしこに代わって入院費用を支払うと、タクシーでよしこの住まいに向かった。タクシーの中で、よしこは何度も金さんに、入院費用の金額を教えてくれと言ったが、金さんは、
 「わしからの見舞金やと思うてくれ」
 と言って取り合わなかった。金さんが一人住まいだと知っていたよしこは、お礼のために、晩ごはんを作るから一緒に食べて行ってくれと頼むが、金さんは、
 「和人と二人で親子水入らずで美味しいものを食べてくれ」
 と言って、その分のお金まで置いていく始末だ。
 「困ります。こんなことまでしていただいたら」
 よしこが金さんに言うと、金さんは頭を掻きながら、
 「別に気にせんといてくれ。わし、和人と一緒に過ごせて楽しかった。これはそのお礼や」
 と笑って言うと、そそくさとよしこの住まいを離れた。
 「おじちやーん!」
 ドアを閉める前に和人の声が聞こえたような気がしたが、金さんは構わずドアを閉めた。
 よしこは、退院してから三日後の月曜日から会社に出勤し、今まで通り働き始めた。事務関係の仕事だったから、現場で働く金さんとの接点はあまりない。入院中に仕事が溜まっていたのだろう、よしこは昼食もそこそこに働き、忙しくしていた。金さんはそんなよしこの体調を気遣いながらも、声をかけることすらできず、自分の仕事に没頭した。
 そんな時だった。金さんが李さんに誘われてえびす亭に行ったのは――。えびす亭で金さんは、思いがけず、見知らぬ人たちに歓待されるという経験をした。一人で過ごすことの多かった金さんは、本来、そういった人の集まる場所や賑やかなところを不得手にしていた。だが、えびす亭での歓待は、金さんの心に深く刻まれた。人の輪の中に素直に入っていけたことに驚いた。
 でも、それはすべて李さんのおかげだと思っていた。自分が一人で行ってもああはならなかっただろう。そうは思いながらも金さんは確かめたい衝動に駆られ、えびす亭に一人で行ってみようと決心をした。
 金さんの話を聞いた李さんは、反対も賛成もせず、「行っておいで」と金さんを送り出した。そして、金さんを送り出しながら一言、付け加えた。
 「もし、一人で行っても、同じようにみんなに歓待されたら、金さん、思い切って、よしこさんにプロポーズしてみることや。わし、金さんは素晴らしい男やと思うてる。よしこさんかて、金さんのこと悪くは思っていないはずや。振られたら振られたでええがな。もしうまく行ったら、わしと金さんとよしこさん、それに和人も連れてえびす亭に行こう」
 李さんの言葉が、金さんの胸を射た。もし、えびす亭でこの間と同じように声をかけられ、酒を注がれ、乾杯するようなことになったら、真剣によしこさんへのプロポーズを考えてみよう。金さんはそう思った。振られても恥ずかしいことはない。それよりも、心の中でこんなに熱く思いながら、何もできないでいることの方がずっと恥ずかしい。金さんはそんなことを考えながらえびす亭に向かった。
 恐る恐るのれんをくぐり、ガラス戸を開けると、この間と同じようにえびす亭は人の熱気でむんむんしていた。
 「よう、金さん。こっちへおいで。ここが空いてるよ」
 一人の客が手招きをして金さんを呼んだ。その男の隣に立つと、別の客から声が飛んだ。
 「今日は一人か? 李さんはどないしたんや」
 「今日は、仕事が忙しいらしくて、わし、一人で来ました」
 「そうか、ほな、まあ、一杯、行こう」
 金さんの空のグラスにビールがなみなみと注がれる。
 「おおきに」
 金さんがグラスを空けると、そのグラスに、隣の客がビールを注ぐ。
 「金さんて言うんかいな。ええ呑みっぷりや。わしのビールも呑んでえな」
 空になるたびにビールが注がれ、金さんは三〇分も経たないうちに酩酊してしまった。
 金さんもお返しとばかりに、ビールを注ぐ、乾杯を何度繰り返しただろうか。そのたびに金さんの笑顔が弾けた。
 こんなわしに、こんなにも親切にしてくれて――、金さんは嬉しかった。でも、そのうち、そんな卑下した考えがいかにくだらないかということに金さんは気付かされた。この店では、人のランクなどなく、ましてや人を選別する思想すらない。酒を仲人にしながら、今を生きていることをお互いに認め合う。それだけのことだ。
 金さんは生まれて初めて自分に対して自信を持てた。酒を呑みながら、金さんは、えびす亭の面々に、好きな女性がいることを打ち明け、一〇数年来の恋であることを話した。
 「本当にその女性が好きだったら、堂々と打ち明けた方がいい。悔いを残さないようにした方がいい」
 老年の客はそう言って金さんを励ました。また、ある客は、
 「人を思うことは素晴らしいことや。それが相手に受けいれられようとそうでなかろうと、結果を気にせず、男らしく行ったらええ」
 と金さんを後押しした。
 誰もが冷やかしなどでなく、金さんを思っての激励の言葉であることを感じ取り、金さんはそのことに深く感謝しながらえびす亭を後にした。
 金さんがよしこに愛を打ち明けたのは、その翌日の夜のことだ。仕事を終えて帰る途中のよしこを呼び止めて、金さんは、後でお伺いしてもいいかと尋ねた。よしこは、金さんの緊張した面持ちを見て、「お待ちしています」と答えた。
 金さんは、よしこの住まいを訪れる前に李さんの店に寄っている。
 「昨夜、えびす亭に行って来て、勇気をもらった。その勇気を無駄にしないように、わし、今から安藤さんの家に行って、気持ちを打ち明ける」
 緊張しているのだろう、李さんに打ち明ける言葉がたどたどしくてぎこちなかったが、李さんは、金さんの背中を思い切り強く叩き、
 「頑張って来い! わしも祈っとく」
 と大きな声で激励した。
 よしこの家を訪れる際、金さんは、ケーキを買って、それを土産にした。チャイムを鳴らすと、よしこの声が聞こえて、ドアが開いた。よしこより先に和人が走って来て、
 「おじちゃーん」
 と金さんに甘えるようにして抱きついた。
 和人に土産を手渡し、よしこの前に正座して座った金さんは、よしこの目をまっすぐに見つめて、腹の底から声を搾り出すようにして言った。
 「安藤さん、わし、あんたのこと、入社してきた時から好きでした。ずっと言えなくて――、安藤さん、わしを和人の父親にしてください。お願いします」
 よしこは、無言のまま、じっと畳に頭を擦り付けたままの金さんを見つめている。和人がそんな金さんの背中に覆いかぶさるようにして無邪気に甘えた。
 「金さん、どうぞ頭を挙げてください。頭を下げてお願いをしなければならないのはこちらの方です。金さん、どうぞよろしくお願いします」
 よしこの言葉を聞きながら、金さんは呆然自失した。肩に抱きついてくる和人をやさしく抱きかかえながら、金さんは涙を垂れ流していた。それは金さんにとって生まれて初めてと言っていい、嬉し涙だった。
 三か月後、金さんとよしこの結婚式がひっそりと行われた。列席者は、李さんの他に会社の社長、職場仲間が数人、金さんの母と姉と兄、行方不明だった弟も所在がわかって出席した。よしこの方は、両親がすでに亡くなっていたのと、兄弟がいないこともあって、列席者は、高校時代からの親友二人だけだった。大阪の天満宮で式を挙げ、新婚旅行は和人を連れて北海道へ旅立った。
 五日間の旅行を終えた金さんは、帰阪したその夜、よしこと和人を連れ、李さんと共にえびす亭に行った。そこでの歓待は、金さんの心にずっと残り続けるほどの印象深いものになった。
<了>

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