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夜々に集まる 第二話 プッタネスカ

麻子・・・議員秘書。
まっちゃん・・小料理屋「夜々」のマスター。
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ガラリと引戸を開ける音が夜の西麻布に響く。
「入れますか?」
「ご予約されてます?」
「いえ。一杯ですか?」
「無問題です。お一人様ですか?」
「はい」
「あいよ。奥どうぞ」
「あ、こっち混んでるから厨房側からどうぞ」
え、一瞬ギョッとした麻子だったが、店主は慣れているようで、手招きして待っている。麻子は恐る恐る厨房の中を通って奥の席に着いた。

「どうしましょう?ビール?シークァーサーサワーとか、日本酒も、ワインもありますよ」

…うーん。どうしようかしら。
「シークァーサーサワーがお勧めだよ」
どこからともなく声が聞こえて来た。
「え、じゃあそのシークァーサーサワーで」
「はいよ。ごめんね、うちの常連すぐ会話に入って来ちゃうから」
と店主は笑い飛ばす。

「まっちゃん、マグロまだ?」
「あ、今やってます。ちょっとまってて。待ってる間に次行きます?」
「え、あぁじゃ俺もシークァーサーサワー」
「あいよ」


どうやら店主は"まっちゃん"というらしい。
お客さん、どーやって知ったんですか?
あ、いえ、たまたま通りがかって。

嘘。前から気になっていた。
彼と西麻布に飲みに来ていた時にこの裏道をよく通っていた。毎度賑やかそうなのだが、店内が暗く、やってるのかやってないのか今ひとつわからなかった。

2週間前、私は彼と別れた。振られたのだ。
他に好きな人ができたという。
彼は誰もが知っているコンサル会社の社員で、交友関係も広く、歳上の私が繋ぎ留めておくのは難しいかもしれないと思っていた。

私は某議員の政策秘書として働いていて、彼は戦略策定チームのメンバーだった。打合せの後の食事会で趣味の話で意気投合し、2回目のデートで付き合うことになった。

彼は好奇心旺盛で私の話を良く知りたがり、私は彼の語る知らない業界の話を聞くのが面白かった。2人の好きなジャズアーティストが一緒だったから、そのライブにも行った。洗練された話も下世話な話も彼と話していると不思議にキラキラ輝くような気がした。一年近く経って、結婚するのかなと思った矢先のことだった。

前触れはなかった。少なくとも私は感じていなかった。
しかし、彼の方はその時を探っていたのだと言う。隠すのがうまい奴だった。
本当の理由はよくわからないけど、無理矢理繋ぎ留めるのは無理な気がした。

今日、彼といる時に通り過ぎたこの店にやっと、思い切って入ってみたのだった。
「メニューはありますか」
「うちは無いんですよ」
「何がいただけるんですか?」
「うーん、前菜なら、茄子の揚げ浸し、小松菜のお浸し、こんにゃく焼いたやつとか、あとは今日は鮪の刺身がいいですね。あとは牡蠣のオイル煮とか」
「うーん、どうしようかしら」
「苦手なのがなければちょっとずつ出しましょうか?」
「ええ、じゃそれで」
「あいよ」


「まずはシークァーサーサワーどうぞ」
麻子の前に黄色の濃いサワーが置かれた。
「ありがとう」
麻子はそれをグイッと飲んだ。
「お、いけますねおねーさん」
「ぷは。おいし〜これ」

「何かありましたか?そんな飲みっぷりいいと」
「え?へへ。ありましたよいろいろ」
「よし、どんどん飲んで忘れよ。はい、茄子の揚げ浸し」
出し汁をたくさん含んだ水々しい茄子が置かれた。
麻子はそれを徐ろに口に運ぶ。口の中で出汁が弾け飛ぶ。
「まぁ、美味しい」
「ありがとうございます」
これは次の料理が期待できる。一気に麻子のテンションが上がった。

「はい、マグロと小松菜のお浸し」
どれもちょうどいい量が出てくる。

「まっちゃん唐揚げ」
「あいよ」
隣の客が唐揚げを頼む。鶏肉が油で揚がるカラカラとした音が心地よく、泡の出ているフライパンをぼんやり見つめる麻子。
「一個だけいきます?」
「え、やだ物欲しそうな顔してた?」
「はい、男欲しそうな顔してました」
「え!」
やはりこの店主鋭い。たった5分で見抜かれたか。

「冗談ですよ。でも、ここに来たら彼氏なんかいなくても楽しいですよ。お姉さん綺麗だし、うちの常連が唐揚げどんどんプレゼントしちゃうかも」
「やだ、もう。でも嬉しいわ」
ありがとうございます。

麻子は笑いながら、なんだかホッとする店だなと心地よく感じていた。常連客もなんだかほんわかしていて、ギラギラしていない。
「通っちゃおうかな…」
「勿論。いつでもどうぞ」
なんだか、彼のことも引きづらなくてすみそうだ。

「赤のグラスある?」
「あいよ、いいのありますよ。飲みやすいタイプ。お姉さん名前は?」
「麻子」
「麻ちゃんはどんなのが好きなの?男の好みじゃないよ」
「わかってるわよ。少し重めがいいな」
「オッケー、じゃシラーにします。で、良ければそれにプッタネスカ合わせて出すよ。食べれるなら」
「え、好き。わたしプッタネスカ好きなの」

娼婦のパスタ。プッタネスカはそう言われている。私は娼婦のように刺激的な味だと解釈しているけれど。
「あれ、もしかして、麻ちゃん…」
「まさか、娼婦にでも見えるわけ?」

既にまっちゃんにタメ口になっている自分に気づく。懐にいれてくれる優しさのある接客。歳下の可愛いイケメン。周りを見ると女性の一人客もチラホラいる。
そりゃそうよね。妙に納得する自分に苦笑する。

「違いますよ、娼婦のパスタとは言われてますけど、娼婦が客をもてなすためのパスタだから。僕、ここでは自分逆に身体売ってるんで」
愛くるしい笑顔で言ってくる憎い奴。

「あ、まだ私売ってもらってなーい」
常連と思しき奥の若い女の子がちょっかいを出す。こいつ、本気でまっちゃんを狙ってるのか。若さを武器に。なんだか悔しい。

こんな店久しぶりに出会えたな。
麻子は感動していた。

「はい、シラー。と、唐揚げ一つ」
一人で捌くのも大変そうだが、うまく切り盛りして、待たせる客のあしらいもうまい。

麻子は唐揚げを頬張った。熱っ…しかし口の中にじゅわっと広がる肉汁。醤油の下味がしっかりついたカラッとした衣。こんな時間にかなり罪深い。

でもいいのだ。そんな罪の一つや二つ。イエスも赦してくれるでしょ。知らんけど。
自然と笑みが溢れる麻子。

思い切って良かったじゃないか。捨てる神あれば拾う神ありだ。激務でなかなか早くはこれないが、ここなら深夜になっても来れそうだ。

「はい、プッタネスカお待たせです」
「なにこれ、めちゃめちゃ美味しそう。そしてこのボリューム…罪深いわ」
「喜んでもらえて何よりです」
まだ美味しいって言ってないわよ。
「あ、早かったです?はは」

「まっちゃん、俺もその娼婦風」
「だめだよやっくん、ちゃんとプッタネスカって言わないと。彼女できないよ」
「うるさいなぁ」
本当に賑やかだ。

麻子はパスタを勢いよく啜る。
トマトとケッパー、アンチョビがオリーブオイルにくるまれて、全体に香辛料と塩気が強いのに、トマトがわずに甘い絶妙な味付け。さわらの切れ端やベーコンが良いアクセントになっている。

これは飲まなくても来ちゃうわね。
麻子は独りごちた。

シラーもちょうど良い重さ。これはまずいな。ほんとにまた来たい。

***

「お会計お願い」
「あいよ。どう?気分良くなった?麻ちゃん」
「ええ、とても。また来るよまっちゃん」
「あ、言っちゃった?」
「え、何が?」
「まっちゃんって言っちゃうと、うちまた絶対来ないといけない制度になってるんですよ。すいません」
「ふふ。もう、優しい。来るわよ制度になってなくても」
「はい、おつり。じゃまたね麻ちゃん」
「ええ、また」
「またねー麻ちゃん」
カウンターの入口に座るおじさまも勝手に声を掛けてくる。
私は笑いながら店を出た。

ふぅ。なんて素敵な時間だったのかしら。しかも美味しいし。

あら?
彼だった。タクシーに見知らぬ女性を乗せてそのドアを閉めるところだった。

確かにここは彼のテリトリーだ。
彼がこちらに気づいた。

私は手を挙げた。それは彼にではなかった。
彼と私の間にもう一台のタクシーが止まる。

私は唇だけで『サヨナラ』と言って、タクシーに乗り込んだ。

彼はポカンとした顔でこちらを見ている。
ほどなくしてしてタクシーが道を曲がり、彼の姿も見えなくなった。

六本木のビル群の煌々とした灯りが窓の外を次々と流れていく。私の前からサラサラと。

彼との思い出もこのネオンのようにサラサラと軽やかに流れていくような気がした。


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