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日本をつくった国津神と天津神 ~封印された出雲王国の謎~

・出雲族と飛騨族の同盟の決裂

縄文の歴史を紐解くと、必ず現れてくる飛騨族。
飛騨口碑によると、古代、飛騨と出雲は同族で婚姻関係にありました。当時、大国主(おおくにぬし)の正妻は、飛騨族出身のお姫様。しかし大国主は他の女性の心を移し、その女性と正式な婚姻を結びます。そのため大国主は、飛騨出身の正妻をないがしろにしてしまい、飛騨と出雲の同盟にヒビが入ります。

時代は下って奈良時代、日本最古の歴史書「古事記」と「日本書記」が朝廷によってつくられます。古事記と日本書記をあわせて『記紀』と呼ばれます。『古事記』は712年、『日本書紀』は720年に作成。『古事記』の目的は「天皇家の歴史」を記すこと、そして『日本書紀』の目的は日本という「国の成立」を記すこと。そのどちらにも、藤原鎌足と不比等の親子が関わっていました。当時、藤原氏は新興豪族でしたが、じょじょに権力を握り、平安時代に入って、藤原氏は天皇家をしのぐ権力を持ちます。

古事記作成にあたったのは、稗田阿礼(ひえだあれい)と太安万侶(おおのやすまろ)。稗田阿礼は飛騨出身。太安万侶は出雲の歴史にも詳しい人物でした。そこから垣間見えるのは、古事記と日本書記のルーツとなった古代史は、「飛騨」と「出雲」が源流だったということ。
しかし古事記と日本書記作成において、権力者だった藤原氏の意向が強く、太安万侶はこれらの書物に「出雲王朝」についてきちんと記すことができなかったそうです。


・稗田阿礼は飛騨出身で、太安万侶は出雲に詳しい人物

稗田阿礼は、アメノウズメ(天鈿女命)を始祖とする「猿女君(さるめのきみ)」の末裔で、猿女君は、朝廷の祭祀に携わってきた氏族。また、稗田(ひえだ)は、飛騨(ひだ)を指し、現在も飛騨にはこの稗田家の子孫が住んでいるそうです。

太安万侶は、九州の大宰府〔地方行政役所〕に勤めていた時、中国の使節と交際しており、中国語に堪能。漢籍も多く読んでいて、中国の史書にも詳しかった。不比等は、そんな太安万侶を見込み、古事記や日本書記を安万侶に、漢語であらわさせ、朝廷の正統性を広く海外にも知らしめます。

余談ですが、安万侶の祖父・太臣将敷の妹は、百済(くだら)王子であった余豊(よほう)と結婚。余豊は、百済最後の王である義慈王(在位:641年 - 660年)の王子。百済は朝鮮半島にあった国の一つですが、縄文系の国。
百済滅亡後、百済の王族や国民は日本に移り住みます。中大兄皇子は、百済から日本に移り住んだ人々に、琵琶湖ぞいの土地と、数年間分の衣食住を無料で提供したそうです。
また平安初期に平安京をつくった、桓武天皇の母親はこの百済王族の子孫。天皇家と朝鮮王家は、古代から血縁関係でした。このことは、上皇である平成天皇が在位中に公言し、宮内庁も認めるところです。

話は戻って、さきほどの安万侶の大叔母と、百済王子との政略結婚を仲介したのが、藤原鎌足。鎌足は、中大兄皇子の忠実な部下であり、不比等の父。太安家と不比等は、古くからつながりがあり、日本書記や古事記作成に安万侶が抜擢されたのは、藤原氏の意向でした。そして日本書記は、不比等のリーダーシップの下につくられていきます。
それが示すのは、古事記と日本書記が、新興豪族であった、藤原氏の影響を大きく受けていたということ。そして古事記と日本書記作成の監督をした藤原氏は、約2000年前の飛騨と出雲の歴史を正史から封印してしまいます。



・出雲の歴史を「神話」として古事記に記した太安万侶 

日本の初代大王は、約2000年前の神武天皇。
神武天皇の祖父の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が宮崎の高千穂の天孫降臨し、その孫にあたる神武天皇が日本を統一し、日本の国造りがはじまります。これが古事記に書かれている、日本の始まりです。
しかしそれ以前、日本には出雲王朝が存在していました。安万侶はこのことを日本書記や古事記に記そうとしますが、不比等の命により叶いません。そこで安万侶は、神武朝以前の「出雲王国」の存在をフィクションとして、出雲神話に変え古事記に記したと言います。

古事記による、初代・神武天皇は宮崎県の高千穂に天孫降臨したニニギ尊である「天津神(あまつかみ)」の末裔。天津神は、高天原(たかまのはら)という天におられる神の系統で、中でも有名なのが太陽神・天照大神。
そしてそれ以前に日本にいたのが「国津神(くにつかみ)」。国津神は出雲関連の神々をさすことが多いようです。また神話では、天津神は新参の神々で、国津神のほうは古くから日本にいた古参の神々として書かれています。これは国津神である出雲族が、天皇家より古い血筋であることを示し、興味深いことに、古代は天皇家も出雲族も末子相続制で長男ではなく、最後に生まれた子供《末子》が家を継いでいました。

そういえば以前、島根県の出雲大社を訪れた際、『出雲大社の出雲国造(いずものくにのみやつこ、いずもこくそう)は、(出雲族直系であり)天皇家より古い血筋』との説明書きが、大社内に書かれていました。
出雲国造は日本の神職で、出雲大社権宮司。出雲族直系の一つです。

平成26年、皇室の高円宮家(たかまどのみや)の次女典子さまが、出雲大社の禰冝(ねぎ)千家国磨さんとの結婚されました。禰冝とは神職のこと。そしてこの千家は、出雲国造の血筋。このご結婚は、天津神(天皇家)と国津神(出雲族)の末裔の結婚と言われ、当時注目を浴びました。
(※現在お二人は別居中)

天皇家より古い血筋を持つ出雲族。それゆえ神話では、出雲は天津神より古くから日本にいた「国津神」となりましたが、その起源は、神武朝以前に日本に存在した出雲王国。神武朝以前、日本には17代にわたる出雲王朝があったといいますが、不比等の編成により、この歴史は古事記にも日本書記にも載っていません。これら17代にわたる出雲王の名前は「出雲神話」として、古事記に残るのみ。そして太安万侶は日本書記を書き終える少し前に、時の右大臣であった藤原不比等により幽閉されます。
幽閉された太安万侶はある日、出雲の向家(富家)に秘密裡に使いを出し、夜に訪ねてもらえるよう頼みます。そして夜になり、訪ねてきた向家当主にこう伝えます。

古事記にも日本書記にも、古代に日本に存在した出雲王国について書くこができなかった。最初は出雲王国を書き記していいとのことだったが、ある日突然、右大臣から出雲について書くことを禁じられた・・。

それでも安万侶は、出雲王朝の歴史を残すことを主張し、なんとか出雲神話に変えて記すことができたと伝えます。古事記・日本書紀制作の責任者は、右大臣だった藤原不比等。ですが制作の途中から、出雲の歴史は記さないよう指示されたそうです。
実際に出雲王国の成立年は紀元前660年と、今から2680年も前の時代になります。しかし日本書記では、この紀元前660年に初代天皇である神武天皇が橿原(かしはら)の宮(奈良県橿原市)で即位した年としています。
これが現在続いている「皇紀」と呼ばれるもの。

(※皇紀とは、明治政府が定めた日本独自の紀元(きげん=歴史上の年数を数える出発点となる年。 紀年法)で、1872(明治5)年に明治政府が、神武(じんむ)天皇が即位した年を、記紀(古事記と日本書紀)の記載から西暦紀元前660年と決め、その年を皇紀元年としました。)

どうも安万侶は、出雲王国の始まりをそのまま神武天皇に移行することで、日本の歴史をうまくまとめたようです。だとしたら神武天皇の即位はいつだったのか?正史では神武天皇の即位は約2000年前となっているので、もしかしたら出雲王朝より100年くらい後に即位した大王だったのかもしれません。

藤原不比等たちは、古事記、日本書記という歴史書において、出雲王国の歴史の上にそのまま、ヤマト王権の歴史を上書きし、正史から出雲王朝の存在は消え去りました。現在、神武朝以前の出雲王国は、ただの神話となり、実在を知る人はほとんどいません。それでも国津神である出雲系の神々は日本中でまつられています。きっとそれは安万侶が神武朝以前の日本の歴史を後世に残そうと、古事記に「出雲神話」として書いた願いの結果・・。そして古代の出雲族は、「国津神」として、日本で信仰されています。
一説には、太安万侶は古事記・日本書記を作成した後、これらを口外しないことを約束し、拘束(幽閉)の身から自由になったとも? 現在、出雲国(島根県)庁跡の脇、松江市竹矢町の田園の中に、太安万侶が晩年に住んだと伝わる屋敷跡が「意宇の杜」(おうのもり)として残っています。



・出雲の大王に贈られた天叢雲剣 ~三種の神器の一つ~

皇室に、天皇が持つ三種の神器の一つとして伝わる天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)があります。別名、草薙剣(くさなぎのつるぎ)。一説には、この剣は、出雲王国の初代大王であったアメノムラクモに出雲から贈られたものだそうです。
現在、この天叢雲剣は愛知県の熱田神宮にありますが、先の大戦の終戦間際に、飛騨一之宮水無神社が一時預かりしたことがあります。
その理由は終戦間際の混乱や戦火を避けるため。これは昭和天皇の指示でした。飛騨は出雲の同族。出雲によってつくられたと伝わる天叢雲剣が、同族の飛騨の神社に疎開する・・。不思議な巡りあわせだと思わずにいられません。



・天孫降臨以前に日本各地にあった、出雲王朝

でも本当に神武朝以前に、出雲王国は存在したのでしょうか?私は縄文に興味を持って以来、いろいろ調べたり、縄文ゆかりの場所を訪ねていますが、少しずつ古代の出雲王朝の存在を感じることが増えてきました。

①まず古代、関東にあった武蔵(むさし)国。武蔵国とは古代、埼玉、東京、神奈川県にあった国の名前。この武蔵国の支配地域は、東京都、埼玉県、横浜市と川崎市に及んでいました。(※神奈川県はのちに武蔵国から別れ、「相模(さがみ)」の国になりますが、この相模は古語で「荒ぶる川のほとりに、たくさんの神社、仏閣がある」という意味だそうです。確かに神奈川県は酒匂川をはじめ、河川が多いです。以前、小田原市を訪れた際、小田原市内の不動産屋さんが、中世の頃、神奈川県を治めた北条氏はこの酒匂川の治水を盛んに行い、洪水がおさまったと教えてくれました。)

そして現在の東京・埼玉の前身である武蔵国をつくったのが、古代の出雲族たち。それが残るのが、埼玉県の大宮市にある氷川神社や、東京都府中にある大國魂(おおくにたま)神社。氷川神社は武蔵国の一宮であり、出雲族の産土神であるスサノオをまつっています。そして大國魂神社の創建は西暦111年。今から1900前につくられた大國魂神社のご祭神はスサノオで武蔵国の守り神とされています。
もう一つ、出雲族により創建されたのが埼玉県久喜市にある鷲宮神社。鷲宮神社は関東最古の古社で、社伝によれば、こちらは神代の昔、出雲族27人の部族が現地の部族と一緒に大己貴命(オオナムチ)を祀ったのに始まりだと伝えています。大己貴命も出雲族。

②伊豆も、出雲によりつくられた国。伊豆(いず)という地名は出雲(いずも)から来ています。熱海にあるパワースポットとして名高い、静岡県熱海の來宮神社(きのみやじんじゃ)。そこでは主祭神である大己貴命がまつられています。今から約3000年前、出雲族である大己貴命が、島根県からこの地にやってきたのがこの地(伊豆)の始まりだそうです。
これらの伝承をまとめると、今から2000年前から3000年前くらいに、伊豆や関東地方の国づくりをしたのが、出雲族であり、これらの地に出雲王国があったということになります。

また東北の秋田県男鹿市船越の八龍神社には、出雲系ヤマタノオロチを祀っています。松本清張の小説「砂の器」では、秋田の亀田と同じズーズー弁を話す地域が島根県の亀嵩にあったと書かれています昔は出雲弁もズーズー弁で、出雲人のDNAは近畿地方よりも、東北の秋田県に住む人たちのDNAに近いそうです。
そして青森県弘前にある岩木山神社には、はるか昔、出雲の大国主が岩木山に降臨したとの伝説があり、今も、岩木山神社のご祭神は大国主です。これらのことから、東北地方も出雲族の影響が強かったようです。

④また信州にも、遠い昔、長野県の諏訪湖に出雲族がやってきて、長野県あたりを征服したとの伝承があります。この際、出雲族は諏訪族の抵抗に手こずり、なかなか諏訪を降伏させることができません。そこで出雲族は応援に同族の九州の安曇(あずみ)族を呼び寄せ、諏訪族を降伏させます。
今も長野県穂高のほとりに安曇野という地名があります。キレイな水でわさび栽培が盛んな地域ですが、この安曇の地名は、信州にやってきた安曇族が移り住んだことから来ています。安曇(あずみ)という名前は全国にあり、有名なニュースキャスター安住さんも、この安曇族から来ています。

あと、四国の愛媛県にある伊豫豆比古命神社(いよずひこのみことじんじゃ)の御祭神は、今から2000年前くらいに、海の向こうからやってきた伊豫豆比古命です。お名前から出雲からやってきた神さまのような気がします。時代的にも、ちょうど出雲族が他国に侵攻していた頃・・。こちらももしかしたら出雲ゆかりの神さまなのかもしれません。


こうやって調べてみると、約2000年から3000年前のヤマト王権以前に各地に出雲族の侵攻があり、確かに出雲王国があったことがうかがえます。



・天津神と国津神によってつくられた日本という国

奈良時代、藤原鎌足・不比等親子の監修のもと、作成された古事記と日本書記。それが現在の日本の正史となっていますが、そこに欠落していたのは、神武朝以前に存在した出雲王国。そして17代にわたる出雲の王たちの歴史。現在、それは出雲神話として残っていますが、誰も実在した歴史としてみることはありません。
しかし彼ら出雲族は「国津神」として各地の神社で信仰され、日本が天皇制以前に、さらに古い歴史を持つ民族であることを伝えています。
出雲族はもとは争いを好まなかった民族でしたが、時が経つにつれ、秦族や中近東のシュメール系とも交わり、争いという考えを持つように変わっていきます。(秦氏やシュメール系民族との出雲族との交わりは長くなるので、少しずつ書いていけたらいいなと思います。)

縄文後期くらいに出雲族が各地に侵攻し、出雲王国を築いたのは、これら渡来系民族との交わりが発端でした。秦氏やシュメール系民族がもたらしたのは、鉄製道具の発展やさまざまな技術力。やがてそれは鋭利な武器づくりに変わり、出雲は巨大な軍事力を手にします。
縄文系でありながら、渡来系でもある出雲族はその後、古墳時代に入りヤマト王権の中でも、権力を持ち続けます。

こうやって調べてみると、日本という国は、天皇の祖先である天津神と、出雲族をはじめとする国津神。これら2つの巨大な勢力によって日本の古代史は織りなされ、約2000年前につくられたのは間違いなさそうです。







《参考文献・サイト》



本だけでなく、実際に現地に行ったりして調べていますが、わからないことが多いです。だからこそ魅かれる縄文ミステリー!縄文の謎解きははじまったばかりです。(*ᴗˬᴗ)⁾⁾💕ペコリン