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「家康へのいやがらせ」ではなかった…秀吉が家康を関東に追いやった本当の理由

PRESIDENT Online 掲載

香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

1590年、豊臣秀吉は徳川家康に関東への移封を命じた。歴史評論家の香原斗志さんは「よく言われるような左遷人事ではなかった。秀吉は天下統一のカギを握る重要な土地の統治を信頼のおける家康に任せたかったのだろう」という――。

■秀吉にとって家康が「脅威」というのは大げさ


小田原の北条氏が滅亡させられると、徳川家康は豊臣秀吉の命で、北条氏の旧領だった関東に国替えになり、本拠地を小田原でなく江戸に置いた――。

のちの江戸時代、ひいては首都が東京に置かれることにもつながり、多くの人に馴染み深い史実だろう。「どうする家康」の第38回「さらば三河家臣団」(10月1日放送)でも、このことが描かれる。

よく語られるのは、秀吉にとって家康という存在は脅威だったので、北条氏が滅亡したこの機会を利用して、体よく遠方に追いやったという説明だ。たしかに、そういう面もなかったとはいい切れないが、秀吉にとって家康が「脅威」だというのは、豊臣政権が強大化したこの時点では、家康を買いかぶりすぎでもある。

むしろ秀吉は、豊臣政権のなかでいまだ不安定な関東および東北を、しっかり平定して統治するために、家康の力を最大限に利用しようとした、というのが最近の研究者たちの主だった見解である。

■ショックは受けてもチャンスだった

「どうする家康」では、秀吉(ムロツヨシ)から関東に移るように命ぜられた家康(松本潤)は、ショックを受けるとともに、家臣たちにすぐに伝えられずに思い悩むようだ。

実際、家康も家臣たちもショックを受けたことだろう。縁もゆかりもない土地に移封になった大大名など、これまで例がなかったからなおさらだ。しかし、この移封のおかげで家康は力を貯え、のちの天下獲りにつながったともいえるのである。

柴裕之氏は「小田原合戦が勃発すると、徳川氏はその軍事的解決を担うべく先陣を務めた。そして合戦後、徳川氏は関東の安定と奥羽への押さえとして、これまでに積み上げてきた政治活動の実績が買われたことに加え、北条氏が敵対したことによる始末をつける意味で、戦後処理を負わされた格好となり、関東に移封されたのである」と書く(『徳川家康』)。

妥当な見解だと思われるので、ここに書かれたことの意味をひもといていきたい。

この続きは下記のリンク先へ。

「家康へのいやがらせ」ではなかった…最新研究でわかった「秀吉が家康を関東に追いやった本当の理由」(プレジデントオンライン)|dメニューニュース(NTTドコモ) (docomo.ne.jp)


東京の起源と「江戸」

東京の起源は、古代から中世にかけての歴史にさかのぼることができます。東京はもともと武蔵国の一部であり、江戸と呼ばれていました。

江戸という名前は、河口という意味があります。江戸の地に最初に城を築いたのは、12世紀後半に源氏の家人となった在地武士団の一つ、江戸氏でした。江戸氏はこの地の名前をとって自らも江戸と名乗りました。

その後、江戸城は太田道灌や後北条氏などによって拡張されましたが、1590年に豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅びると、徳川家康が関東に移封されて江戸城に入りました。

家康は江戸を本拠地として大規模な改造計画を実施し、利根川の流路を変えたり、海岸線を埋め立てたりして都市を拡大しました。

1603年に家康が江戸幕府を開くと、江戸は日本の政治・経済・文化の中心地となりました。

1868年に明治維新が起こると、江戸幕府は崩壊し、新政府が成立しました。新政府は江戸を東京(東の京)と改称し、明治天皇が入京すると、東京は日本の事実上の首都となりました。

以降、東京は関東大震災や太平洋戦争などの災害や戦争に見舞われながらも、復興や発展を続けて現在に至っています。

以上が東京の起源についての簡単な説明です。もっと詳しく知りたい場合は、以下のリンクを参考にしてください。

  • 東京都の歴史 - Wikipedia

  • 日本の首都東京はどんな歴史を歩んでいったのか? 江戸から東京の歴史を解説! - Rinto

  • 江戸から東京へ、画像で振り返る歩み | Business Insider Japan

  • 江戸 - Wikipedia

  • 東京都はいつからあるの?|公文書に見る戦時と戦後 -統治機構・行政区画・人口-

左遷の意味と語源

左遷の意味と語源について、以下のようにお答えできます。

左遷とは、今までより低い地位や官職に移すことを言います。例えば、会社で部長から課長に降格されたり、本社から支社に異動されたりすることが左遷と呼ばれます。左遷は、一般に不利益や不名誉な処分として受け止められますが、場合によっては自ら志願することもあります。

左遷の語源は、中国の漢語に由来します。中国では古くから右を尊び左を卑しむ観念がありました。そのため、官位の降格を「左遷」と言いました。日本では律令制の時代に右大臣が左大臣より下位であったことから、「右に出る者はいない」という言葉が生まれるなど、右を上位とする考えもありましたが、漢語の「左遷」は文章語として受け入れられました。近代以降に一般語として普及しました。

以上が左遷の意味と語源に関する簡単な説明です。

紀元前、劉邦が項羽に左遷させられる

劉邦は項羽に左遷されたと言えます。左遷とは、今までより低い地位や官職に移すことを言います。秦末期の反乱で、劉邦と項羽は秦を滅ぼすために協力しましたが、その後、天下を分け合うことになりました。

項羽は自らを西楚の覇王と号し、劉邦を漢王として漢中に封じました。漢中は関中の西にある山岳地帯で、秦の旧都咸陽から遠く離れていました。地図上では咸陽の左に位置するため、劉邦を左へ遷すということで、左遷という言葉が生まれたという説があります。しかし、劉邦は漢中から東進して項羽と戦い(楚漢戦争)、最終的には項羽を敗死させて前漢を建国しました。

秀吉と家康の関係に似てなくもありません。

結論 秀吉は家康をどうしようとしていたのか?

天下統一後に秀吉は家康をどう使おうとしていたのかという質問に対して。

秀吉は、天下統一後に家康を東日本の統治者として重用しようとしていました。秀吉は、小田原征伐で北条氏を滅ぼした後、家康に関八州を与えて関東に転封させました。

これは、秀吉の天下統一構想の一環であり、家康に北条氏の旧領地を安定化させる役割を期待したものでした。

秀吉は、江戸を拠点にすることを家康にアドバイスし、大坂と同じく海に面した交通の要衝として発展する未来を見抜いていたと言われています。

また、秀吉は朝鮮出兵においても家康を参加させず、東日本の防衛に専念させました。秀吉は、家康を信頼しており、甥の秀次を処刑した後も家康を内大臣に昇進させました。秀吉は死の直前に「秀頼が成人するまで天下は家康に任せる」と遺言しました。

以上が、天下統一後に秀吉が家康をどう使おうとしていたかについての簡単な説明です。もっと詳しく知りたい場合は、以下のリンクを参考にしてください。

  • 徳川家康は豊臣秀吉によって、江戸に追いやられた!? 当時の ...

  • 未開の地を世界最大都市・江戸にした家康の覚悟 - au Webポータル

  • 秀吉は家康を危険視していたワケじゃない? ──天下人秀吉が ...

  • 小牧長久手の戦いの勝者は秀吉か家康か?勝敗とその後を解説

かの有名な「関東の連れ小便」


関東の連れ小便とは、豊臣秀吉と徳川家康が小田原城を攻めた際に、秀吉が家康に関東の領地を約束して一緒に小便をしたという逸話のことです。

この逸話は、秀吉が家康を信頼して重用したことや、家康が関東に移封されて後に江戸幕府を開いたことの吉兆とされています。

関東の連れ小便が行われた場所は、石垣山城と呼ばれる秀吉が築いた陣城であり、現在は石垣山一夜城歴史公園として一般開放されています。石垣山城は関東で最初に造られた総石垣の城であり、天守台跡や井戸曲輪の石垣などが残っています。

以上が、関東の連れ小便についての簡単な説明です。もっと詳しく知りたい場合は、以下のリンクを参考にしてください。

  • 関東の連小便(かんとうのつれしょうべん)とは? 意味や使い方 ...

  • 小田原城の戦い - 歴史年代ゴロ合わせ暗記

  • 石垣山一夜城公園(小田原市)

  • 石垣山城 - Wikipedia


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