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(超長編)【本要約】菊と刀


2022/2/12

「 日本の文化に見られる行動するパターン 」について、論じられた著作である。

解説

菊と刀の核心的部分についての解説である。

日本人の行動の核には、恩の賃借という概念があり、それが、日本人の倫理規範の要になっている。

そのトリガーは、夏目漱石の『 坊っちゃん 』からであった。

恩を受けておきながら、それをそのままにする者は、借金を返済しないのと同じことである。アメリカで借金の返済に向けて強制力が作用しているのと同様に、日本では恩返しを促す力が働いている。その強制力は、恥である。義理を果たさないと、恥を知らない人間として世間の嘲笑を買う。だから、日本人は、義理を尽くす。

日本独特の子育てによって、日本人の倫理規範は育まれている。幼年期の行動は制約されることなく、気楽である。ところがある年齢に達すると、親は、急にしつけに厳しくなる。「 そんなことをしたら、人に笑われる 」という言葉によって、子どもに「 恥 」を教え込む。

子どもは、やがて、家族や世間から笑い者にされたり、のけ者にされたりすることを恐れるようになる。そして、次第に、自分の衝動を抑えつけ、慎重の上にも慎重を期して世間を渡っていくようになる。

だが、しつけが変わる前の自由奔放な日々の記憶は、潜在意識に刻まれている。自由を許されていた子ども時代の経験は、ことあるごとに表面に噴き出す。だから、日本人は矛盾した行動を繰り返す。日本人は、臆病なのに、無謀である。従順な態度を取る反面、統制に応じない。礼儀正しいけれど、不遜なところがある。この様な矛盾は、幼年期のある時点で、しつけが一変することに起因する。

恥は周囲の人々の批判に対する反応である。人前で嘲笑されたり、拒絶されたりするか、また、嘲笑された気がすることでも、恥の原因となる。恥は強制力を持つ。恥を意識するには「 見られている 」か、「 見られている気がする 」ことが前提となる。

日本人が、競争で実力が発揮できなくなるのは、競争に負けたときに恥をかくことを恐れるからだ。

競争が前提となっている現代社会が、日本人にとって最適な仕組みなのか?

競争には敗者がつきもので、敗者が「 恥をかいた 」という感覚から、トラウマを持つかもしれない。

勝者だけを崇め奉る社会は、私たちが求めている社会なのか?

敗者が大多数のこの世界で。

本著書の注意点

観察する側と観察される側の間に勝者と敗者、あるいは、支配者と被支配者さの関係が成立している場合には、比較にバイアスがかかることを恐れる。

ある価値の尺度にして客観的に比較を行なったとしても、観察者の側は現状を肯定する意図を、隠し持っているのではないかと嫌疑がかかる。

菊と刀の場合は「 戦後の日米両国のアメリカ優位の政治的関係を正当化し、さらには、固定化する意図がある 」という疑いを拭えない。

「 菊と刀 」が、バイアスがかかった主観的視点、恣意的視座によるモノであれば、時代を経る中で淘汰されているはずだ。批判に晒された上で、風評に耐えて今日まで残っているのだから、その批判は、近視眼的なモノであろう。「 よいモノは、残る 」というのは、歴史が証明してくれている。ソクラテス「 無知の知 」という言葉は数千年の時を超えた。真理の言葉は、時代の風雪に耐え、人々の心を打ち続ける。
by 湯浅

研究課題 〜 日本

アメリカが戦争した国の中で、日本ほど異色な国民はなかった。
日本人の行動と思考の習慣は、異常と言えるほど特異であった。

・礼儀をわきまえつつ、態度が大きい。
・頑固さに比類がなく、最先端の思想や制度に進んで順応する。
・従順でありながら、素直ではない。
・心が広いが、二心があって執念深い。
・勇敢でありながら、小心である。
・人目を気にするが、良心がある。

この矛盾を内包するのが日本人である。

菊と刀:軍事も優先しながら美も追求する。
・菊の花は、自由を自制する戦中、及び、戦前の日本人の生き方である。
・刀は、狭義で、刀の輝きを保たなければならない武士の義務のことであり、広義では「 自己責任を全うしよう 」とする日本人全般の強い意志である。
菊と刀は、日本研究である、「 日本人とはどのようなものか?」という研究結果である。
戦時に敵を一から十まで非難することは簡単である。だが、敵が「 現実をどのように見ているのか 」を理解しようと努力する段になると、ことは格段に難しくなる。

日本の戦争のやり方そのものを軍事的問題ではなく、文化的問題として取り上げる。平時と同様に戦時においても、日本人の行動は独特である。日本人の戦争の取り組み方に示された生活様式や思考様式の特徴は、どのようなものか?

戦時中であったため、日本を訪れ、日本の家庭に住み、日常生活を観察することはできなかった。

多くの東洋人と異なって、日本人は「 文を綴ることによって、自分自信をさらけ出そう 」とする強い衝動を備えている。

日本について語る日本人は、前提を見逃す、前提が空気のようになっているからだ。

外から輸入した慣習を、自分たちの独自の生活様式や価値体系に溶け込ませるために修正した可能性もある。
・修正過程において、本来あった基本的な部分が排除されるかもしれない。
・基本的な部分は、全体にとってのごく一部かもしれないが、基幹となるコアな部分かもしれない。

どんな原始的部族でも、文明国においても、人間は日常生活の中で行動を学習する。
ある人の行動や意見がどれほどの異様に見えようと、本人の感じ方や考え方は経験してきたことと一定の関係を持っている。

人間社会は、社会生活を立ち行かせるために、独自の仕組みを作らなければならない。


①独自の仕組みは、ある状況に対する特定の対処法・判断にお墨付きを与える。
②その社会に生きる人々は、これらの解決策を社会の基盤とみなす。
その解決策に準じることで一体性を保つことができるからだ。
③ひとたび、生活の指針として特定の価値体系を受け入れると、もはや対立する価値体系に沿って思考し行動する余地はなくなる。

だから、権力者が「 社会生活を特定の価値体系によって統一しよう 」と努める。
また、被権力者は、自ずと、特定の価値体系に沿った共通の原理や共通の動機を自分に課する。
そこには、ある程度の一貫性が求められる。

政治・宗教・経済・社会・会社・家族などの生活のすべてが、互いに歯車となって一体化する。
・ある分野における変化は、他の分野の変化より急速かもしれない。
・その結果、他の分野は大きな圧力にさらされるかもしれない。
その圧力自体、一貫性を保つ必要から生じる。

ある国の人が現実を見るメガネは、他の人が使うメガネと異なる。度数が違う、フレームも違う、顔の大きさでサイズも違う。そもそも、メガネじゃなくてサングラスかもしれない。

モノを見るときに、自分の目を自覚することは難しい。

いかなる国も、自分の目を意識しない、近くのモノを大きく見せる画法が使ってあるのに、そこに描かれた風景画をそのまま捉えて錯覚する。
その画法を通じて共通の現状認識に達している。

① 世界平和や人類平等とは「 世界は一つの価値観で構成されるべきだ 」という考えだ。
② 世界にはいろんな考えの人がいる、いろんな価値観の人がいる。
③「 人類は平等であるべきだ 」ということは「 すべての人が同じ価値観を持たなければならない 」と同じだ。
すべての職業が同じ給与だし、働けない人も同じ給与だ。
世界平和とは「 ひとつの同じ平和を信じる 」ことになる、平和の在り方は、宗教・国・社会・人によって異なる。戦争がなくなっても、宗教に関わる紛争だけは、なくならない。宗教は交わらない、水と油くらいに。
世界平和や人類平等という概念ですら、ただ、ひとつの価値観に過ぎない。
私たちは、全員が、すべて違うメガネをかけて、世界を見ている。価値観は、全員異なる、共通の価値観など存在しない、常識は幻想だ。あなたの常識は、あなたにしか適用できない。常識の意味は自分の意見、常識の強要は自己中でしかない。
by 湯浅

世論調査は既にわかっていることを、よりよく教えてくれる。「 他の国を理解しよう 」とするときは、その国民の習慣やモノの見方を、統計学ではなく、質の面から体系的に研究する必要がある。

アメリカでは、
・政治家は、政府を必要悪と見なし、個人の自由を束縛するモノと見なしている。
・国家公務員は、民間企業で同格の仕事に就いている人と同等の社会的評価は得られない。

どんな国民も、生活の前提となる基本的な事柄がある。
どんな国民も、共通の暗黙の認識がある。

日本の価値体系は特異なモノであった、仏教でも、修行でもなく、日本的なモノであった。

戦時下の日本人

文化の伝統があるところには、戦時の慣行がある。欧米諸国は、国ごとに多少の異同はあるにしても、慣行を共有している。日本人の行動は、欧米の戦時の慣行とは異なっていた。

日本が戦争を正当化するために依拠した前提ですら、アメリカの考え方とは正反対であった。国際情勢の解釈の仕方が異なっていた。

アメリカでは、
戦争の原因は侵略行為にあり、他国を征服することで国際平和を侵害した。
日本では、
① 各国が絶対的な主権を持っている限り、世界は無秩序のままである。
② 日本は、国際的階層の頂点に立つ必要がある。
③ 日本は、明治維新後、国内において統一と平和を達成した。
④ 国際平和のためには、国際的階層を形成し、日本が統治する必要がある。

日本は、戦争での勝利を確信していた、「 精神が物質を制する 」と考えていた。「 日本人の精神力信仰と、アメリカの物質崇拝が、ぶつかり合っている 」のであって、「 軍備の力比べではない 」と考えていた。

精神はすべての源泉であり不滅である。モノは必要だが精神に次ぐものでしかない。しかも、いずれモノは、消滅する。

日本
・肉体がクタクタになればなる程、我々の意志、即ち、精神は高まり、肉体を超越する。
・体力の向上のためには、今、以上に体力を消費せよ。
・精神主義である。
アメリカ
・肉体的エネルギーを論理的に捉え、体力の残量を計算しながら行動している。
・前日の睡眠時間や食事といったエネルギーを元に体力を捉える。
・物質主義である。

■達観せる魂は千年不滅

日本人の行動原理が生まれ、国民の中で定着するに至ったのは、ある種の自己規制の積み重なり、また、特定の方式に従って鍛錬としつけが行われた結果である。

戦時中のラジオでは「 あらゆることに関して見通しが立っており、計画が周到に練られている 」と報道された。

その建前の上で、日本人は「 何もかも、自ら積極的に意図したことであり、誰からも、無理矢理に押し付けられたわけではない 」と主張した。

日本人は、手順通りの図式的な生活様式に支えられて初めて安心する。

そこでは「 見えないところからやって来る何か 」が最大の脅威と見なされる。

天皇と日本は不可分の関係にあった。日本国民にとって天皇は、超越した畏敬の存在であった。天皇に対する忠誠は、無条件かつ、無制限のモノであった。

アメリカ人の正義
・窮地に追い詰められた人々の救出と援護をする
・病人やゲガ人への救済措置がある
・最善を尽くして勝ち目がなくなったら降伏する
・降伏しても自分たちを「 名誉のある軍人だ 」と見なし、軍人としても国民としても名誉を失わない
日本人の正義
・生死に関わる危険に身を委ねてこそ潔い
・病人やゲガ人は壊れたモノのような扱い
・病人の手当ては、捨て身の精神を妨げる
・降伏は無用であり、死ぬまで戦うことが名誉である
・負傷か気絶して捕虜になったら、軍人としての名誉を失い、元の生活に戻れない
・死以外に何も残されていない日本兵は、自分が死ぬときに敵を道連れにすることは誇りである
・口答えは、「 権威に公然と挑んできた 」と見なされ、厳しく罰せられる
・日本兵は捕虜になった後「 敵国に協力する 」という模範的な捕虜になった
日本には捕虜になった時の規範がなかったため、新環境での規範や権威に忠実であった

応分の場を占めること

・日本人は「 秩序 」と「 階層的な上下関係 」に信を置く。
・アメリカ人は「 自由 」と「 平等 」に信を置く。

日本人の信は、人間関係や、人と国家の関係における基本となっている。

ハルノート
・アメリカ人の信念
・主権の不可侵、領土の保全
・他国の内政に関する不干渉
・国際間の協力と調停
・平等の原則
・圧政からの解放
・不干渉
・不本意な要求の不受理
誰も法の前では平等であり、生活条件の改善を求める権利を持っている。平等は人権の基盤である。
ハルノートに対しての日本の声明
各国が世界の中で、応分の場を得られるように取り計らうことが、日本政府の方針である。
※応分の場
自らのポジションや位置付けにふさわしい振る舞いや言動をしようとすること

アメリカでは「 人々は互いに平等だ 」と心の底から信じている。上下関係の儀礼には微塵も注意を払わないし、他人にへりくだることもない。アメリカ人は「 誰の世話にもなっていない 」というセリフを好む。

上下関係・応分の場・不平等は、過去何世紀にもわたって日本の秩序ある生活を支配しており、社会の常識や通念となっていた。上下関係の是認は、日本人にとって呼吸と同じほど自然なことなのだ。上下関係が浸透した社会は、敬語や挨拶やお辞儀において顕著に現れる。上下関係だけでなく、性別・年齢・交友の年月や深さも考慮に入れなければならない。

アメリカにおいては、家族内では、礼儀は不要となるが、日本では、家庭内こそ、礼儀をしつけられる。その様な孝行や道徳は、中国の仏教や儒教から取り入れられた。中国と異なるのは、その対象の範囲である。限定的な一族、直接顔を合わせる肉親に限られる。

兄たる者は「 あくまでも兄としての性格を保つべきだ 」とされている。長男は家督をつく立場にある。外国人旅行者の間では「 日本で長男が早くから身に付ける責任感ある態度 」が話題になる。父親が特別扱いされるのに準じて、長男も特別扱いされる。

親族会議では、お家の意向が最重要視され、お家の意向に従わなければならない、それは、「 自分たちもそうやってきた 」という、伝統という名の強制に他ならない。

日本社会では、自分より上の「 応分の場 」を与えられている人々は、敬意の対象となる。

7世紀には、日本独自の階層的な文化に併せるため、中国から輸入した生活様式に手を加えた。
漢字を取り入れてつつ、日本語をつくった。
日本古来の八百万の神信仰に、仏教を取り入れ、神道へと進化させた。
歴史上、文明を計画的に輸入し、自国に適用するために修正した例は、他に見当たらない。

①封建社会においては、商人の地位を賎民の上にすることは現実的である。②商人階級は例外なく封建主義を破壊する。
③商人が栄えると封建制は衰える。

徳川幕府は、鎖国をして、海外の貿易を阻止し、藩と藩の間に関所を設けて、国内の交易を制限し、商人階級の発展を妨げた。

江戸時代には、倹約令が敷かれ、倹約が美徳とされる習慣が生まれた。

明治維新

・尊皇攘夷のスローガン
・外国排斥
・日本の伝統的な生活様式、王政復古、天皇の統治者としての地位確立

日本人は、古来より、尊敬と謙虚という習慣がある。
それは、過去の経験の中で形作られ、倫理体系と礼儀作法の中に組み込まれている。

権威の縄張りを侵すことが不正と見なされているから、国家は打算を働かせる。応分の場において、職分を果たすなら、応分の範囲の権威が認められる。日本の政府の指針は、何事も応分の場に置くべし。

・「 国家神道を学ぶ 」ということは、神武天皇以来の日本史を学ぶことであり「 万世一系の統治者 」である天皇に対する尊敬の念を養うことである。
・国家神道は宗教ではないから、信教の自由は保証されている。

軍隊では、家柄と無関係に実力次第で将校まで昇進することが認められていた。実力主義は、国民に支持される最良の方法であった。中隊や小隊の構成は、同じ出身地の者同士という工夫がなされ、地元の絆が維持される仕組みになっていた。

軍隊は、民主的で平等な役割を担っていた。徴兵によって、軍隊で訓練を受ける間は、将校と兵卒の関係や二年兵と初年兵の関係が重要になり、士族と農民の関係や金持ちと貧乏人の関係性は二の次である。

軍隊を憲法で制約することなく、軍隊を政府から独立した存在として、創設した。

それは、陸軍大臣や海軍大臣は、天皇に直接上奏する権限を与えられていた。従って、政治の中枢を担う内閣の大臣に断ることなく、天皇の名を利用して、自分たちの施策を推進することができた。それどころか、内閣をコントロールできる立場にあった。陸海軍の大臣なしに、組閣はできない仕組みになっていた。

階層制に由来する特権になると、日本人はそこから生じるあらゆる結果を、受け入れる傾向がある。

それは、同意しているからではなく、特権の聖域に踏み込むことを、是認しないからだ。

日本は、消費財生産 = 軽工業を後回しにして、最初に重工業 = 基幹部門を興した。
軍需産業・造船・製鉄・鉄道建設などが優先され、技術効率の水準は一気に引き上げられた。

日本人は常に、上下関係を基準にして、自分たちの世界を秩序立てる。

家庭や個人的な人間関係においては、年齢層・世代・性別・階級ごとの作法に従わなければならない。政治・宗教・軍隊・産業においては、身の置きどころが階層に沿って区切られており、上の者も下の者も、各々の分を越えると必ず罰せられる。応分の場が保たれている限りにおいて、日本人は不満を言わずに頑張り続ける。安心感があるからである。「 幸福が守られている 」という意味で安心しているのではない。

階層的な上下関係を正当なモノとして受け入れているからこそ安心していられる。

日本の軍部は、日本国民に押し付けたものを、海外の国民に押し付けることはできなかった。海外には、階層的な上下関係を受け入れる倫理体系はなく、純日本製であることに気づいていなかった。

日本人は、日常、他の人々と接触を繰り返すたびに「 お世話になっている 」という気持ちが働く。

人は世間のおかげを被っている。

・日本人は、一人前に育ち、教育を受け、幸福な生活を送っているのも「 この世に生を受けた 」という単純な事実ですら、世間のおかげである。
・アメリカ人は「 誰の世話にもなっていない 」と考えている。

日本人は、挨拶のときに「 おかげさまで 」と使う。
「 おかげさまで、元気にやっています。」
「 おかげさまで、仕事がうまくいっています。」
「 誰のおかげ?」なんて考えたこともないけど、それは、挨拶する相手ではなく、広く、世間一般ということだろう。それは、特定の人でもなく、かといって、世間の人でもない。社会全体を指している、というのが適切であろう。
私たちは、自然に、疑問に思うこともなく、「 誰かに生かされている 」という意識を持っている。感謝が前提となって、人生を生きている。
「 ご飯粒を、一粒残さず食べなさい。お百姓さんが一生懸命、一粒一粒、育てたんだから 」と、私は母親に教わった。その精神が、骨の髄まで沁み込んでいるから、そのことに気付かない。疑問に思わない。
「 私は一人では生きていない、世間のおかげで生きている 」ということが、日本精神の在り方なのか?
by 湯浅

戦時中の極端な自己犠牲、ある状況での極端な憤慨など、日本人は負い目があると神経を尖らせる。

・大なり小なり借りがある状態を表す日本語は恩である。
・恩は返すべき借りで、全力で果たすべき責任のことである。
・「 恩に着る 」という言い方をすると「 私は借りがある 」という意味になる。

恩を施してくれた人のことを恩人と称する。恩は、世話になったことに対する返礼を暗示している。

「 恩を忘れない 」ということが、日本の習慣において、何よりも大事にされてきた。

神風特攻隊は、天皇の恩、皇恩に報いようとしていた。

・親から受けた恩がある。
・親の恩は借りとして説明される。
「 子を持って初めて知る親の恩 」

親の恩とは、両親から日々実際に世話をしてもらったこと、面倒を見てもらったことを指す。

教師や雇用主にも恩を負っている。世間を渡れるようにしてくれた恩人である。

お世話になった以上、借りはどんなことをしてでも返さなければならない。時を経ても借りが減るということはない。それは、歳月と共に減るどころか、むしろ、増える。一種の利子である。

相手が誰にせよ、恩を受けたことは重大事で、恩は重荷で、恩の力は、いかなる場合にも、単なる個人の好き嫌いを超越する。

「 恩に着せる 」というフレーズは、誰かに何かを与えること、あるいは何か親切を施すことを意味し、あまりよく知らない人から、思いかけず多大な親切を受けると、「 恩着せがましい 」として、負担を感じる。

「 ありがとう 」の語源は「 有難い 」であり「 こんなにも難しいことをしてもらって 」という、恩恵を感じている様を表している。

「 すみません 」は、他のあらゆる感謝の言い回しより好んで用いられる。「 あなたからの恩を申し訳なく思いながら、承っています 」という様を表している。

恩というのは、複雑な気持ちを伴うが甘受することができる。ただし、恩を施してくれる相手が自分との間で、相互いの関係になっていなければならない。

金銭的な基準を、金銭以外の事柄に応用する習慣が恩である。

恩は借りである。

借りた分だけ返さなければならない。
借りがある状態は褒められた事ではない。
借りを返すのは立派な行為である。
恩に報いようと一生懸命になったときが、立派な行為の始まりである。

恩返し

・義務
 精一杯返しても依然として一部しか返したことにならない。
 返済には、期限はない。
 無条件の両親に対する恩
・義理
 与えられた厚意と同じ量だけ返すべきものと見なされている。
 返済には、期限が付いている。
 他人に対する債務:金銭を貰ったり、厚意を受けたり、受けた恩に由来する債務
義理は、負ったままにしてはいけない。義理は相手に返さなければならない。
その点では、義務と同様である。
日本人は、行動の動機・名声・板挟みの状況について語るとき、必ず、義理に触れる。
義務は、身内の人々の間で、国・社会・生活様式に対して果たすべき一連の務めである。
義務が課されるのは、義務が生まれてくると同時に強い絆がしっかり結ばれるからだ。
義務を果たすための個々の行為がどれほど不本意であろうと、義務自体が不本意なモノと定義される事は決してない。

「 義理を返す 」という行為は、終始、気を滅入らせる。借りを作ったままにしておく事から生じる気苦労は、義理の世界において極限に達する。

義理は2つの意味を持つ
・義理を返す:自分の仲間に恩を返さなければならないことを指す。
・自分の名に対する義理:自分の名と評判を非難から守り、無傷のまま保たなければならないことを指す。
義理と義務
・義理:姻戚に対する一切の債務
・義務:血のつながった身内に対する債務

配偶者の父親は義理の父、母親は義理の母、配偶者の兄弟は、義理の兄弟となる。

日本における結婚は、家と家との契約である。配偶者の家に対して、一生の間、契約の債務を果たしていくことが、義理を果たすことになる。

婿養子の場合は、その義理が、顕著である。「 男が姓を変えて戸籍を移す 」ということは「 名前を捨てる 」ということなので、日本では大ゴトである。

戦国時代では、婿は義父の一族の味方をすることを求められた。
例え、ソレが、実父を殺すことになっても。

また、遠縁の親族に対する援助は義理と見なされる。
義理で何かをさせられるとき、自分の正義感を犠牲にせざるを得ないこともある。

日本人は、義理を果たさなければならない。
・怠ってしまうと、義理を知らない人と呼ばれる。
・世間に対して恥をかくことになる。

アメリカ人は、恩義が生じるなどとはつゆ知らず気軽に発言したり行動したりしている。

日本人はその言動の事柄の出納を計り、複雑な世の中を用心深く渡っている。

アメリカ人の借金返済の観念のように、義理は過不足なく同じ量だけ返すモノと見なされている。
一方、義務は義理と異なり、際限がない。

自分の名に対する義理

他人に対して負った特定の借り ( 恩 ) とは無関係に、自分の評判を輝かしいものにしておく。

自分の名に対する義理を果たすためには、中傷や侮辱を覆す行為も必要となる。
・中傷をそのままにしておくと評判に傷が付くので、返上しなければならない。
・中傷した人に復讐しなければならない場合も、自殺せざるを得ない場合もある。汚名を返上するために、自殺するのである。

・義理は、月と同じように明るい面と暗い面を持っている。
・義理は、武士だけでなく、あらゆる階級、主君から庶民まで、共通する徳目である。

名に対する義理を全うするには、応分の生活が求められ、義理を欠くと、肩身の狭い思いをする。江戸時代に奢侈禁止令を受け入れることも義理の一部であった。

教師は「 知らないと認めるわけにはいかない、教師としての名に対する義理に縛られているから 」知っているフリをしなければならない。

日本人の特徴

名誉

本人とその職業は、極端なまでに同一視される。
業務行為、仕事の能力が批判されると、自動的に自分自身が批判されたことになる。

日本人は「 自分が一貫して正しかった 」と断言して初めて自尊心を保てる。「 自分の過ちを認めたら辞職しなければならない 」といった考え方を持つ。相手に対して、仕事の過失を詰めないのが、礼儀である。

日本人は清潔さを好み、また、その裏返しとして汚れを嫌う。家の名誉や国家の威信を侮られると、それを汚点か生傷と見なすようしつけられている。相手が見下したような態度で臨んできた場合には、そのような謂れがないことを証明し、完全に濡れ衣をはらさなければならない。

本来、人は「 自分が侮辱された 」と考えない限りは、侮辱されようがない。人を汚すのは「 本人の内部からにじみ出てくるもの 」であって、本人に対する悪口や嫌がらせではない。

日本人は、失敗すること、人から悪く言われたりすることに対して傷付きやすい。そのため、他人を責めるより、自分自身を責める傾向がある。「 拒絶されるのではないか 」という不安を外側にではなく、自分自身に向ける。

日本人が何気なく繰り返している気分の反転がある。それは、ひたむきな努力を一方の極とし、どうしようもない停滞状態をもう一方の極として起こる。停滞状態は、無気力を生む。

日本人は、尊敬を受け、名誉を得ることを常に変わらぬ目的地としている。その目的のために使う手段を、状況の要請に従って手に取ることもあれば、放棄することもある。状況が変わると、進路を変更し新たな方向を目指すことができる。変わることを道徳の問題と捉えていない。

戦時中は、日本人は「 世界の中で名誉を集めたい 」と考えていた。
「 列強は軍事力で名誉を集めた 」と判断し、列強を目指した。
敗戦によって「 列強が名誉に至る道ではない 」ことがわかった。
「 経済成長が名誉を集める 」と判断し、経済を発展させていった。

日本人は「 義理を果たす 」ことによって「 自分の住む世界において尊敬を集める 」ことができれば、それが十分な報酬になる。

倫理規範

・世話になったら、とことんお返しをする
・モノゴトを潔く観念する
・応分の場では、自己の欲求・快楽が許される

風呂

日本人が、こよなく愛するささやかな肉体的享楽のひとつに、温浴がある。毎日風呂に入る、毎晩の日課として、湯船に浸かる。

睡眠

日本人の楽しみのひとつとして、睡眠をむさぼることである。日本人は、いかなる姿勢でも、どんな状況の元でも、心ゆくまで、くつろいで眠る。

睡眠は、休息・休養して、翌日の仕事に備えるためにあるのではない。睡眠は、体力の回復のためにあるではなく、休息・休養のためでもない、別のモノとして整理されている。

アメリカ人は、睡眠を「 力を維持するために行う日課だ 」と考える。朝、起床して「 昨日は何時間眠っただろうか 」と考えて、その日のエネルギーを計算する。日本人とは、別の理由で眠る。日本人は眠ることを好み、危険を感じないときには喜んで眠りにつく。

日本人は、毅然たる態度をとって睡眠を犠牲にすることがある。試験勉強に勤しむ学生は徹夜で勉強する。「 眠った方が良い結果を出せる 」ということは考えない。

食事

食事は、温浴や睡眠と同じように心ゆくまで楽しむべき、くつろぎのひと時であるが、それと同時に、鍛錬のために課されるしつけでもある。娯楽として食事を楽しむこともある。一方で、食事は生命維持のために必要であるからこそ、食事の時間は短くすべきである。食事と用便が短いことは、日本では賞賛される。

日本人にとって、食事を断念することは、空腹という苦難に耐える試練である。精神の勝利によって、人の体力は増進する。アメリカ人のように、体の栄養状態と体力との間に、相関関係を想定しない。戦時中のラジオでは「体操をすれば体力と活力を取り戻せる」と放送されていた。

恋愛

ロマンチックな恋愛も、日本人が育む人間的感覚 ( 享楽 ) のひとつである。日本人の結婚の形態や家族に対する義務に反していても、日本に深く根付いている。日本人の哲学とは「 人間の楽しみを生活の重大な事柄に割り込ませない 」ことである。

日本人は、妻に属する領域と、官能的な悦楽に属する領域との間に一線を画する。
・一つの領域は、人間の表舞台の義務の圏内にある
・もう一つの領域は、舞台裏のくつろぎの圏内にある。

両者が分離されているのは、それぞれの領域に「 応分の場 」をあてがうという社会的慣行がある。日本人は、恋愛と結婚を同一視する理想像には囚われていない。

恋愛と結婚は別であって、恋愛の先に結婚があったとしても、結婚したら、妻となる。恋人ではなくなる。生活を共にする家族となる。家族という共同体の一部となる。共同体の中に、セックスを持ち込むのは、不自然である。「 母親とセックスしたい 」と思わないように「 家族とセックスしたい 」と思わない、極端な言い方をすれば。
共同体とは、あくまで、生活を共にする仲間である。ドキドキする相手ではない。家族にときめいていたら、生活がおぼつかない。一緒に生活する人に、欲情し続けるのは、生物の本能として、正しくない。生物は、できるだけ自分の種をばらまいて、種の生存率を上げるように設計されている。
家族に欲情し続けるのは、システムのバグでしかない。生存率が高くなった結果、種をばらまく必要がなくなったのは、ほんの数十年の出来事で、人類はそんなに適応力が高くない。簡単には進化しない。
社会的生物としての適応力を高めた結果「 家族に欲情し続ける 」という、生物としてのバグが機能しているに過ぎない。生物としての機能が劣る愛妻家は、褒め称えられる慣習があるが、社会的地位は決して高くない。褒め称えているのは、愛されたい妻たちである。社会的地位の高い男は、当然、魅力的である、モテる、女が放って置かない。当然、恋人関係になるだろう。
・家族は家族で社会的役割を果たす。
・恋人は恋人で享楽を味わう。
歴史的事実である。将軍は側室が何人いたし、天皇だって側室がいたのだ。武士には妾がいて一人前の風習があったのだ。何ら不思議なことではない。日本に古来からある文化であり、伝統なのだ。
「 教会で、愛を誓った 」からと言って、ここはキリスト教の国じゃない、日本なのだ。キリスト教でもないのに、「 キリスト教を正として夫婦生活を行おう 」とすることが、矛盾の産物である。
いくら西欧化しても、日本人のDNAが変異したわけではない。愛妻家は優秀でない夫の言い訳に過ぎない。優秀じゃないと、金も稼げない、女にもモテない。
・貧乏な愛妻家の夫と、モテるお金持ちの夫
・年収300万の愛妻家と、年収1000万のモテ男
幸福の定義は、人それぞれだ。
by 湯浅

日本人の特徴

・日本人は「 己の責務を果たすことこそ人生の至上の仕事である 」と思い定めている。
・「 恩を返す 」ということは、自分の個人的な欲や楽しみを犠牲にすることである。
・日本人の幸福とは、くつろぐことである。

徳目と徳目の板挟み

日本人の人生観は、忠・孝・義理・仁・人間の享楽などの領域を構成要素としている。

日本人の目には「 人間の義務全体 」は細分化され、国ごとに色分けされた地図のような観を呈している。それぞれの領域ごとに独自の詳細な規範があり、日本人は、自分の仲間を「 ひとつの統合された人格の持ち主 」として見るのではなく「 相手が規範を破っている特定の領域 」を指し示す。

良い行動は、行動の場となる領域に左右される。

忠の領域、義理の領域とでは、全く人が変わったような行動をする。それぞれの領域で、規範は融通が利き、領域の内部で条件が変われば、全く異なる行動が要求される。

戦争中は、忠によって、最後の1人になるまで戦う姿勢を見せていた。
天皇が、敗戦をラジオ放送した途端、忠が変わり、熱心にアメリカに協力するようになった。

欧米人は「 人間の行動に統一性がある 」と確信している。その確信が常に正当化できるわけではないが、幻想ではない。大抵の文化の場合は、自分自身の中に、特定の種類の人間として行動するひとつの規範、軸のようなモノがある。それによって、個々人の人間性に秩序が保たれる。

日本人は心理的な負担を感じることなく、様々な規範の行動をする。
日本人はアメリカ人にとっては矛盾な行動を容易に行う。

・日本は、恥を強力な支えとしている文化
・欧米は、罪を強力な支えとしている文化

ある社会は、絶対的な倫理基準の刷り込みを行い、人々が良心を発揮することに頼って存在している。その社会は、定義上、罪の文化となる。

良い行いを引き出そうとするとき、恥の文化は外部の強制力を頼る。内面化された罪の意識を頼ることはない。恥は周囲の人々の批判に対する反応である。「 人前で嘲笑されたり、拒絶されたり、嘲笑されたか」と思い込むことが恥の原因となる。

恥は強制力を持つ。
恥は見られているか、見られているという思い込みが必要である。
罪の場合は違う。
自分に誠実であることを求めるので、自分の悪事が露見していなくても罪の意識にさいなまれることがある。
また、罪を告白することによって、罪悪感が軽くなることもある。

模範的な行いを指し示す道しるべから逸脱したり、不測の自体を事前に見越せなかったりすることは、恥なのである。

日本人に言わせれば、恥こそ、美徳の根源に他ならない。
恥に対して敏感な人は、模範行動規定を1から10まで実行する。恥を知る人は、人格者や信義を重んじる人と訳される。日本の倫理において権威ある場を占めている。

欧米の倫理における、心が潔白であること、神に対してやましさがないこと、罪を避けることが権威ある場を占めているのと同じように。

日本の生活においては、恥が最高の地位を占めている。「 恥が最高の場を占めている 」ということは、誰もが、自分の行いに対する世評を注視している。

・「 世間からどのような判定を下されるのか 」他人の判定が、自分の行動の指針となる。
・誰もが同じルールでゲームを行い、相互に支え合っているとき、日本人は、くつろぎ穏やかな気持ちになる。

①日本人は、特殊な保身の仕方に頼るように育てられている。
②日本人の保身は、他人の目に依存している。
③規範を守っていることを微妙な所まで読み取ってもらうことによって成り立っている。

これらの礼儀作法を、外国人は意に介さない。日本人は、外国人が依拠しているはずの、同様の細々とした礼儀作法を見つけ出そうと注力する。そんなモノは存在しない。

鍛錬

アメリカのしつけ

アメリカの子どもは、一定の時刻になると就寝を「 強制される 」。就寝することが、欲求の抑圧であることを知る。

①母親は、子どもの体の「 ためになる 」食品を食べなければ「 いけない 」としつける。
②子どもは、食べなければ「 いけない 」食べ物に対して『 欲しくない 』と反抗する。
③体の「 ためになる 」食べ物は『 おいしい 』食べ物ではないと判断するのである。

アメリカでは「 大人になる 」ということは「 食べ物の束縛による欲求不満から解放される 」ということを意味する。大人になると、体の「 ためになる 」食べ物ではなく『 おいしい 』食べ物を食べることが可能になる。

アメリカ人は、他人のために何かした場合、「 多大の犠牲を払った 」という感覚である。
日本では、相互交換と見なされる。
のちに回収される投資か、あるいは以前に提供した価値に対する返礼だからである。

日本の無我の精神

無我
・それをしているという感覚のない恍惚の境地、力んでいない状態。
・観察する自己が排除され、人は、自分を忘れる。
・自分自身を観察するのをやめる。

無我の考え方は、日本人にとって、自己観察と自己監視が重荷になっていることを物語っている。

日本人はこれらの重荷から解放されると、行動に余裕ができて効率が上がる。
日本人は「 これらの重荷を負わない、働きのよい意識の領域がある 」と断言することによって、自己監視の行き過ぎを防いできた。

その究極の精神が「 死んだつもりになって生きる 」である。無我がそれを支える哲学となっている。

子どもは学ぶ

子どもは、しつけを行動から学ぶ。実際に、手取り足取り、何度も何度も手ほどきを受ける。

行動は無意識に浸透し、しつけによって習慣を体得する。

結婚した後、男が「 大手を振って家庭の外で性的快楽を求める 」ということは、ありがちなことである。そのようなことをしても、妻の権利を侵したことにはならない。また、結婚生活をおびやかすことにもならない。妻には、同じ特権はなく、妻の義務は貞操を保つことである。

日本人は子ども時代につしけを受けることによって、日本人の人生観には二元性が生じる。日本人は幼年期に特権を与えられ、心理的に気楽な時代を過ごす。その経験が、少年期以降の様々な厳しいしつけを経た後でも、記憶に残り続ける。幼年期の経験によって、日本人は、自信を持ち、自己主張できる。どんなに荷が重そうな仕事でも取り組む。集団的な誇大妄想に取りつかれることもある。

少年期を過ぎると、恥を知ることの責任を負わされる。責任を果たさなければ、家族から白い目で見られるという強力な拘束力を伴う。「 世間に笑われる 」という警告をされて自分に課された思い拘束を受け入れる。幼年期には奔放であった衝動を抑えつける。

少年期には、美徳の絶対的な基準ではなく、仲間に受け入れられることの重要性を刷り込まれる。
・「 世間に認められ、受け入れられる 」という利点
・「 世間から笑いものにされる 」という罰
世間からのけ者にされるという状況は、両親から「 よそにやってしまう 」と言われた経験によって、同質と見なされる。

日本人は、嘲笑されたり、のけ者にされることに対して、過剰に恐れるような性質を育む。

【 日本人の不安に陥った時の行動パターン 】
・生活を厳しく律することに全てを賭ける
・規律ある日課を自分にとって無意味であるにも関わらず機械的にこなす
・機械的な手順で対処できない予想外の状況に動揺する

ある事柄においては、他人の干渉によって自分の欲求を阻まれるかもしれないが、一定の自由の領域が存在し、そこでは他人に気兼ねなく過ごせる。

日本人は自分自身に対して過大な要求を突きつける。世間から後ろ指さされたりしたら、大変なことになるので、それを避けるために個人の楽しみは諦めなければならない。

自分自身を尊重する人は「 善 」と「 悪 」のどちらかを選ぶのではなく、「 期待通りの人間 」と「 期待を裏切る人間 」のどちらかを選んで人生を決める。
・自分自身の個人的な欲求を集団の期待の中に埋没させる。
・恥を知り、用心深く振る舞う立派な人である。

攻撃的な行動
・アメリカ人は、自分の原則や自由が侵されそうになったとき
・日本人は、侮辱や中傷に気付いたとき

・日本人は、自分たちの生活様式に対して高い代償を払ってきた。
・日本人は、アメリカ人が空気と同じように当たり前と考えている単純な自由を自制してきた。

日本人の間に、期待を裏切る自由や恥の拘束力を疑問視する自由が行き渡ったら、日本人の生活様式は覆るだろう、自然な状態に戸惑うだろう。

・菊は、日本の生活様式によって育まれた日本人が、精神の自由を手に入れ、新しい生活様式を手に入れる姿である。

・刀は、侵略の象徴ではなく、身から出た錆に代表されるような自己責任の文化であり、自由で平和な世界を保つ象徴である。

敗戦後の日本人

日本国民は、自ら責任を負って、国を治め、立て直すことになった。

マッカーサー元帥による日本の統治は、ドイツやイタリアに対する占領統治とは全く異なった。GHQによる日本の官僚機構を存分に活用しながらの国家運営であった。指令を受けるのは大日本帝国政府であって、日本国民ではなかった。GHQの使命は、日本政府の目指すべき目標を明示することであった。

道具としての日本政府の機構を大掃除し、再利用することによって、時間と人的資源を節約した。

・日本では革命は起きない。
・日本人は自分たちの世界の骨組みを粉砕しようとはしない。
明治時代も、体勢に非難を浴びせることなく、徹底的な変化に着手し、復興した。

日本政府は、国民の意思を尊重する民主主義を内包している。
日本では、古来より、天皇陛下が、その御意思を国民の意思としてこられた。
これこそが、明治憲法の精神である。

日本は、ある行動指針について、「 あれは失敗した 」と一蹴し、エネルギーを注ぎ込む経路を切り替えることができる。

日本人の倫理は、方針転換の倫理である。

日本は戦時中「 応分の場 」を獲得しようと試み、そして、敗れた。今や、その方針を放棄することは可能である。日本人は、これまでの訓練の積み重ねにより、方針転換に慣らされている。

日本にとって敗北は屈辱ではない。
嘲笑されたり、侮られたり、軽んじられたり、不名誉なことを強要されるとき、屈辱を受ける。
恥をかかされたと確信した時、日本人にとっては報復が美徳となる。


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