見出し画像

【分野別音楽史】#06-3「ジャズ史」(1940~1950年代)

『分野別音楽史』のシリーズです。
良ければ是非シリーズ通してお読みください。

本シリーズのここまでの記事

#01-1「クラシック史」 (基本編)
#01-2「クラシック史」 (捉えなおし・前編)
#01-3「クラシック史」 (捉えなおし・中編)
#01-4「クラシック史」 (捉えなおし・後編)
#01-5 クラシックと関連したヨーロッパ音楽のもう1つの系譜
#02 「吹奏楽史」
#03-1 イギリスの大衆音楽史・ミュージックホールの系譜
#03-2 アメリカ民謡と劇場音楽・ミンストレルショーの系譜
#03-3 「ミュージカル史」
#04「映画音楽史」
#05-1「ラテン音楽史」(序論・『ハバネラ』の発生)
#05-2「ラテン音楽史」(アルゼンチン編)
#05-3「ラテン音楽史」(キューバ・カリブ海編)
#05-4「ラテン音楽史」(ブラジル編)
#06-1「ジャズ史」(草創期)
#06-2「ジャズ史」(1920~1930年代)

今回は1940年代からです。一般的なポピュラー音楽史ではロックが中心に描かれ、「ジャズ」は1つの重要なルーツ音楽とはされますが、前回の記事で触れたスウィングジャズなどをもって終了してしまっているのが通常でしょう。しかしその一方で、当のジャズ側の正統な「ジャズ史」単体の視点では、今回からの内容のほうがメイントピックとして位置づけられています。

音楽史というのは、時代ごとにジャンルがくっきり分かれるわけがなく、複数ジャンルのあいだで同時代現象が何層にも巻き起こっています。この「分野別音楽史」シリーズではここまで、まずクラシック音楽史に触れてから、その時代と重なっている多くのポピュラー分野の発祥、そしてクラシックとの分岐点について見てきました。同じように、ここからもロック史等と時代が重なっている多くの他分野の動きについても順に見ていければと思います。

ポピュラー音楽史を追っている方で、ロック史に詳しい方が非常に多いと思いますが、その時間軸と並行しながら視点の移動を引き続き楽しんでいただければ幸いです。それでは参りましょう。


過去記事には クラシック史とポピュラー史を一つにつなげた図解年表をPDFで配布していたり、ジャンルごとではなくジャンルを横断して同時代ごとに記事を書いた「メタ音楽史」の記事シリーズなどもあるので、そちらも良ければチェックしてみてくださいね。



◉1940年代『モダンジャズ』開始 -「ビバップ」

ニューオーリンズやシカゴでの黒人ブラスバンドから確立し、20年代にはティン・パン・アレーのポップスの流行も含めて「ジャズ・エイジ」と呼ばれるほどの人気となり、30年代にはダンスミュージックとしてスウィングジャズの全盛期となった「ジャズの歴史」は、40年代に大きな転換点となりました。

1940年頃、ダンスバンドとしての演奏に飽き足らなくなったミュージシャンたちは、お金になる「お店でのわかりやすいスウィングジャズ」のステージを終えた後に、その場だけのメンバーで即興演奏をする「ジャムセッション」というものを夜な夜な行うようになりました。

そこでは、譜面に書かれたままの演奏をするのではなく、曲のメロディーはあくまで「合図」であり、そのコード進行をもとにして各奏者それぞれが競い合うように即興演奏を繰り広げるというものでした。聴きなれた曲でも恐ろしく速いテンポで演奏したり、別のキーで始めたり、同じ進行であっても置き換えられる別のコード(代理コード)を使うことで響きを複雑化させていくなど、ミュージシャン同士の激しい競争の場と化していたのでした。

このようなジャムセッションは、ニューヨークのハーレムにあった「ミントンズ・プレイハウス」というジャズクラブから発祥したといわれており、次第にいろいろなお店で終演後にジャム・セッションが盛んに行われるようになりました。白人主導の楽譜によるコマーシャルジャズに飽き飽きしていた黒人ミュージシャンたちは、欲求不満を発散するかのごとく、聴衆のことは関係なしの自分たちの思うままのプレイで、テクニックの極限に挑戦し、複雑な音楽を創り出す実験のような演奏が行われていきました。

このようにして生まれた音楽スタイルがビバップ(「ビー・バップ」や、単に「バップ」ともいわれる)と呼ばれるようになりました。ニューオーリンズジャズ~スウィングジャズまでの初期のジャズ(アーリージャズ)と区別し、この「ビバップの誕生」から1970年頃の電子楽器との融合までの期間をモダン・ジャズと呼びます。第二次大戦後、急速にポピュラリティを失ったスウィングに代わって、ビバップがジャズの主役になっていきました。

アルトサックス奏者のチャーリー・パーカーが「ビバップの創始者」「モダンジャズの父」「ジャズの革命児」などといわれています。チャーリー・パーカーとともにビバップを形作っていったプレイヤーには、ディジー・ガレスピー(Tp)、バド・パウエル(Pf)、ケニー・クラーク(Dr)、セロニアス・モンク(Pf)らが挙げられます。

「アンサンブル中心のビッグバンド」から「即興演奏中心の少人数のコンボ編成」へと変化したことで、「踊るための音楽」から「座って鑑賞すべき音楽」へと変化し、ジャズは「娯楽・芸能」という立ち位置から「芸術」としての地位へと変わっていきつつありました。

実は、スウィングを引き継ぎ、規模縮小されながらも小コンボ編成にてダンス・エンタメ路線のジャズバンドは継続していたといいます。そのようなバンドはブルースのフィーリングを強めており、「リズムアンドブルース」として多くの黒人聴衆もむしろそちらを好んで聴いていたようですが、「スウィングジャズからモダンジャズへ」という革新的な進化のストーリーを前に「ジャズ史」の記述からは忘却されていきました。


◆ジャズ史にならず「リズム・アンド・ブルース」としてロックのマエフリになってしまった音楽の例

このような「黒人大衆音楽」をジャズという分野に入れることをせずに排除し、大衆路線をきっぱりと捨てた「ジャズ」はこのあと独自発展していき、ジャズ史的にはこのあとの時代のほうが最盛期となります。

記事冒頭にも書きましたが、現在のポピュラー音楽史の主流の視点である「ロック史」からは、ビバップ以降のジャズについてはそこまで言及されることはなく、スウィングまでの大衆ジャズをもって、ジャズというジャンルそのものがブルースやゴスペルとともに「ロックの誕生のマエフリ」という位置づけに収まってしまっています。このズレが、現在においてもジャズとロックの価値観の差となっているのではないでしょうか。


◉1940年代末~1950年代「クールジャズ」/「ウエストコーストジャズ」

ポピュラー音楽史全体の流れで見ると、1930年代のスウィングジャズブームのあとは1940年代のリズム&ブルースなどから1950年代のロックンロールへと繋がっていくのですが、「ジャズ史」にフォーカスした場合、1930年代のスウィングジャズのあとは1940年代のビバップの誕生からモダンジャズの段階に入っています。ビバップはミュージシャンどおしの技量試し・スポーツ的な要素が特徴でした。

スウィングジャズが衰退し、小コンボ編成の演奏が主流となっていた中で、スタン・ケントンビッグバンドを継続し、クラシック的な理論やハーモニーを強調して、ジャズアンサンブルをダンスのためのバンドではない「純粋なコンサート・オーケストラ」にしようと努めていました。

スタン・ケントンは自らの音楽をプログレッシブ・ジャズと呼びました。このプログレッシブ・ジャズという言葉は結果的にジャンルとして確立されるまでには至りませんでしたが、白人ミュージシャンの多かった西海岸のジャズの形成に大きな影響を与えました。そして、ニューヨークなど東海岸で熱い演奏を繰り広げられていたビバップと対比されるようになります。

さて、ビバップを牽引した巨匠プレイヤーたちの中で揉まれながら食らいついて奮闘していた、ある一人の若手トランペッターがいました。それはマイルス・デイヴィスです。マイルスはチャーリー・パーカーら先輩プレイヤーのもとで修行をしていましたが、次第に独自のサウンドを追い求めるようになります。ビバップの音楽的要素を受け継ぎながら、アドリブの長さや音を整理し、編曲という形でジャズの音楽理論の洗練化を試みました。そして、編曲家のギル・エヴァンスとともに作り上げられ、1949~50年に録音された「クールの誕生」というアルバムでそれが一つの形に結実します。

スタンケントン楽団のサウンドや、マイルスの室内楽的なサウンドは、ビバップのインパクトによって即興演奏一辺倒の風潮に包まれていた当時のジャズ界への反動としてとらえられました。

こういったスタイルはリー・コニッツ(A.Sax)、スタン・ゲッツ(T.Sax)、レニー・トリスターノ(Pf)などによって演奏され、統率の取れた白人寄りのサウンドとしてクール・ジャズと呼ばれました。クール・スタイルのムーブメントは、1940年代の終わりから1950年代の初めにかけてのわずかな期間でしたが、そのクール・ジャズの影響を強く受け、次に西海岸ではウエストコースト・ジャズとよばれるスタイルが誕生することになります。

1950年に勃発した朝鮮戦争においてロサンゼルスが太平洋岸の拠点になったことによる軍事景気の影響や、ハリウッド映画産業の隆盛によるサウンドトラック録音などの音楽産業の活況により、西海岸には実力のある優れた楽器演奏者たちが集まるようになっていました。彼らはスタジオでの仕事を終えると、夜にジャズクラブで盛んにジャム・セッションを行っていたのです。譜面に強かった彼らは、オリジナルを書いたり、抑制のきいたアレンジをしたりして、ビバップの手法を取り入れながらも、マイルス・デイヴィスが示したクール・ジャズにも影響を受け、より洗練された知的なスタイルを作り上げていきました。

このようなウエストコースト・ジャズの中心的な存在となっていたミュージシャンは、チェット・ベイカー(Tp./Vo.)、アート・ペッパー(Sax)、ポール・デスモンド(Sax)、シェリー・マン(Dr)、ジェリー・マリガン(B.Sax)らがいます。

モダンジャズの歴史はこうして、「黒人的で熱い即興」と「白人的で落ち着いた洗練」の二面性を抱えることになります。


◉1950年代後半~「ハードバップ」

1955年にチャーリー・パーカーが死亡し、ビバップの“第一波”が下火になっていくと、その後を引き継ぐ若手のジャズ・ミュージシャンたちは、自分たちのスタイルを探るようになります。リズム&ブルースなどのサウンドにも影響を受け、演奏テクニックだけを競う面が強くなりすぎた初期ビバップに対して、即興演奏の側面を受け継ぎつつもメロディアスでブルージーな要素を共存させようと取り組みました。

こうして生まれたのが「ハード・バップ」というジャンルであり、モダンジャズの中心的なサウンドとして「ジャズの王道」になっていきました。

クールジャズを示した後ニューヨークの中心的存在となっていたマイルス・デイヴィスのリーダーによるバンドや、ドラム奏者のアート・ブレイキーによるアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズ、そしてミルト・ジャクソン (ヴィブラフォン)やケニー・クラーク(Dr)によるMJQ(モダン・ジャズ・カルテット)などのバンドを筆頭として、黒人ミュージシャンたちが集まり、様々なメンバーで互いにセッションしながら、ライブや録音を重ねていきました。ハード・バップの中心的なミュージシャンは他にも枚挙にいとまがありません。

【ハード・バップの代表的ミュージシャン】

マイルス・デイヴィス(Tp)
アート・ブレイキー(Dr)
ソニー・ロリンズ(Sax)
クリフォード・ブラウン(Tp)
マックス・ローチ(Dr)
ソニー・スティット(Sax)
ジョン・コルトレーン(T.Sax)
チャールズ・ミンガス(Ba)
デクスター・ゴードン(T.Sax)
レッド・ガーランド(Pf)
ハンク・ジョーンズ(Pf)
エルヴィン・ジョーンズ(Dr)
ポール・チェンバース(Ba)
ケニー・ドリュー(Pf)
ウィントン・ケリー(Pf)
ケニー・クラーク(Dr)

特に、ハードバップの中でもブルースフィーリングやゴスペルミュージック、ソウルミュージック的な要素など、黒人性が強いと受け取られたものは「ファンキー・ジャズ」とも呼ばれました。

(※もう少しあとの時代に登場する音楽ジャンルの「ファンク」と接近したジャズは「ジャズ・ファンク」と呼ばれ、「ブルースフィーリングが強い」という意味合いのこの時代の「ファンキー・ジャズ」とは全く別モノなので、注意。語源は近いにしろ、音楽ジャンル的な意味では異なります。)


◉ハードバップ期のマイルス

ハードバップで活躍した数々のアーティストの中で、マイルス・デイヴィスはこの先、ハードバップより次の段階のジャズのジャンルを次々と開拓していったことで後にジャズの帝王と呼ばれることになります。ひとまずここではハードバップ期のマイルスについて見ておきましょう。

マイルス・デイヴィスは1950年代の「ハードバップ期」の演奏メンバーが「第一期黄金クインテット」と呼ばれ、そのメンバーは、ジョン・コルトレーン(Ts)、レッド・ガーランド(Pf)、ポール・チェンバース(Ba)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(Dr)でした。

マイルスは1956年にプレスティッジからコロムビアへ移籍し、移籍第一弾のアルバム「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」を発表しますが、一方で、その前に契約していたプレスティッジとの間にはまだあとアルバム4枚分の契約が残っていたのでした。この契約を済ませるために、1956年、たった2日間でアルバム4枚分24曲、すべてワンテイクでレコーディングを行ってしまいます。これが伝説の「マラソン・セッション」と呼ばれ、この音源を『Cookin' 』『Relaxin'』『Workin' 』『Steamin' 』という4つのアルバムにして、プレスティッジは1年ずつ分けて発表していったのでした。これがマイルス・クインテットの「前期4部作」と言われています。


◉ラテン音楽とビバップとの関わり

さて、黎明期のラテン音楽とジャズの発生にも大きな関連があったように、ビバップやハードバップなどのモダン・ジャズにも、ラテン音楽の影響が及んでいました。

キューバン・ミュージックとしては30年代にはルンバが、40年代~50年代にかけてマンボが誕生し、欧米に輸出されて人気となっていましたが、キューバン音楽のリズムはジャズ・ビバップへも影響を与え、スタイルが融合してアフロ・キューバン・ジャズとしてジャズで演奏されるリズム・スタイルの1つになっています。ビバップのミュージシャンも、自身たちのルーツとしてキューバやラテンのことをしっかり意識していたのだと思われます。

所変わってブラジルでは、カーニバルで演奏されていたサンバは若者にはウケが悪く、ジャズやアメリカンポップスが人気となってしまっていました。そんな中で、リオデジャネイロのコパカバーナやイパネマといった海岸地区に住む白人中産階級の学生やミュージシャンたちによって、サンバに対抗するようにボサノバというスタイルが新たに誕生します。サンバの作曲時に、大きい音が出せないアパートで、優しくギターを鳴らしながら小さな声で歌ったことでこのようなスタイルが生まれたと言われています。これがサンバの洗練化と捉えられ、特にアントニオ・カルロス・ジョビンジョアン・ジルベルトによる楽曲が大ヒットとなりました。ボサノバもまた、このあとジャズと結びついていくことになります。


→次の記事はこちら

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?