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読書には、効率や知識など不要。必要なのは読む態度。

読書の反知識主義について。

といっても、それは、いわゆる
反知性主義とは違います。

私が常日ごろ感じてきた、
ウィキペディア人、蘊蓄オヤジと
対極にある態度のことです。

批評家・若松英輔さんは
今日の日経新聞に
ドストエフスキーについて
こんな話を書いています。

『「カラマーゾフの兄弟」に、読書をめぐる凄まじい一節がある。グリゴーリィという、何かを学習した経験がほとんどない男と、読むことの関連に触れた一節である。あるときから彼は何かに突き動かされるように聖なる古典に向き合うのだった。
『そこに書いてあることはほとんど何ひとつわからなかったが、たぶんそれだからこそ、この本をいちばん大切にし、愛読したにちがいない(原卓也訳)』。

中身がちんぷんかんでも
いいというんです。
読む、という行為について、
何かに突き動かされるような
真摯な、真剣な態度が
いちばん大切なんだ、と。
 
私はこの若松英輔氏の話が
よくわかります。

大学時代に、
ニュー・アカデミズムが
大流行していて、
浅田彰や中沢新一や柄谷行人らを
いかにも愛読しているごとく、
ニュー・アカの本を脇に抱え、
時には見かけ倒しの議論をする、
頭の良さそうな同級生が
私には羨ましく、かつ、
憎らしかった。
私には頭には全く入ってこなくて、
一章も理解できなかったから。

そんな愚鈍な人間だから、
わかりやすく読める文学は
かっこうの逃げ場だっただけでした(汗)。

また、若松英輔氏は 
こうも書いています。

「読書にまず、必要なのは、効率のよい方法ではない。真摯な態度である。
必要な態度と出会うために不可欠なのは
豊富な知識ではなく、グリゴーリィの
全身から放たれている、静かに燃える
青い火のような態度なのである。」

豊富な知識や
効率の良い方法ではない、
というのは、
なんでもあらすじを先に読んでから
読むかどうかを決める、
効率重視の態度ではないですね。

もしかしたら、
「知識」や「情報」を私たちは今、
接種し過ぎてはいないかしら?
現代のわれわれには耳が痛い話だ。

コラムの最後を、
若松氏はこうしめくくる。
「一冊の本と深く出会う者は、
数百冊を読破しても得られないものを
そこに見出す。
しかし、読むことの深みを知らないまま
読破を続ける者は、
海を前にしていつも遠くから
波を見ているだけなのかもしれない。」

近頃よく思うんです。
われわれ現代人は、
情報をインプットしすぎている、
のではないでしょうか、
学び、学び、といいながら。

インプットしたら、
そのぶん、アウトプットしなくては
頭がパンパンになるのではないか?

脳の容量には限りがあるのではないか、
とも思うんです。

リアル生活面でも、
ネットやSNS面でも、
効率の良い読書や
読んだ冊数の多さが
賛美され過ぎています。 
ですが、わからなくて構わないから、
一冊ととことん向き合う態度も
また、貴重な読書の態度であるらしい。

そういう意味では、
再び柄谷行人を読むのは、
例え、ちんぷんかんでも
良いかもしれません…(笑)。

ニュー・アカデミズムで
思想界を震わせた人のうちで、
今もなお、深みを増しているのは、
柄谷行人くらいだろうから。

効率や知識の大洪水に溺れないよう、
現代人はついつい、
ビジネス書のあらすじなどを読む
サイト「フライヤー」の利用者が、
増加しているらしいけれど、
そんな読書の態度自体、恥ずかしい、
…そんな感性の人が出てきたら?

読書から得るのは、
知識だけではない。
知識を超えた何かなのでしょう。
それを言い表す言葉が
容易に見つからないこと自体が
その深みを表していますね。

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