橋の灯に 藍染模様 雪の街

九割九分九厘、殆どの日本人は、ここが何処なのか分かりません。

冬の夜、雪の積もった石橋にガス燈を模した街路灯の黄色い光が美しく照っています。橋を渡った向こう側にゴシック様式の尖塔など古い街並みが、トワイライトブルーに染まり浮かび上がっています。橋の欄干の上に幾つもの昔の偉人と思われる威厳を備えた彫像が立っていて、この世ではない様な幻想的な風景を創り上げています。映画で言うとハリー・ポッターに登場しそうな光景です。

さて、答えは現実に存在する21世紀のプラハの街です。

「知っている」とこの画像を見て思った人はクイズ王並みだと思います。
また、以下の文章を読んで、全て分かってた人もクイズ王並みだと思います。
恐らく、数少ない東欧史専攻の人でも難しい筈です。

橋の名前はカレル橋。プラハの春で御存知のチェコ共和国の首都プラハにある有名な古い石橋です。カレル橋は観光地で、日中は橋の上に多くの露店が並び、憩いの場となっています。夜はライトアップされ、冬は御覧の風景となります。

カレル橋を日本で例えると東京の日本橋や山口県岩国市に在る錦帯橋といったところでしょうか。但し、日本橋は元々木製のアーチ橋だったところ、現代では架け替えられ、石橋になっています。更にカレル橋は、錦帯橋よりずっと古い時代に建設されています。

15世紀始めに完成したカレル橋は、ルクセンブルク家出身の神聖ローマ皇帝カール4世の時代に、約50年掛けて建設されました。橋の長さ500メートル超の複数アーチ橋で、その長さを例えると、墨田区にある東京スカイツリーの634メートルに100メートル及ばない程度です。関係ありませんが、東京スカイツリーは一部、日本最古のコンクリート工場の上に建っています。それ迄稼働していたコンクリート工場を閉鎖して建てられました。

話は戻り、橋上にゴシック様式の橋楼が点在しますが、橋の防衛目的で設置されたものです。橋楼自体が珍しく、日本国内で見たことがありません。実際にどんな武器を備え、どんな使い方をしていたのか想像が付きません。

橋の欄干には沢山の彫像が装飾され全部で30体、橋という限りでは、その中でも群を抜いて凝った造りになっています。建設に当り荷重計算等出来ない時代の御多分に漏れず、王家の肝煎りということもあり、相当頑丈に造られた様で、架け替え等はされていません。近代に造られた橋が100年持たないのとは随分違います。封建時代、王の命令で造る建設物において、材料や手を抜いたりすると死刑ですから当然と言えば当然です。空のトラックで材料を現場に運んだ様に見せ掛ける等の凝った手口が横行する一部の誠実さが無い現代建築とは、較べ様が有りません。

ここで、また話は逸れますが、帝政ロシア時代にニコライ2世の親書を態と日本側へ渡さなかったウラジオストック在勤の一人の官吏のことを思い出しました。
皇帝の親書ですから、一人の官吏がどうこう出来る次元ではないのですが、発覚後、首どころか死刑が確定しているのに、凄い度胸だと思います。会社員で言えば、社長から預かった重要な取引先への手紙を下らないと吐き捨てゴミ箱に捨てるのと同じです。この一人の官吏が行った行為が、現代までの世界情勢に大きく影響していることにお気付きの人も居るかもしれません。この親書が日本側へ渡されていれば、日露戦争は疎か第二次世界大戦や現在進行しているロシアに因るウクライナ侵略もなかったかもしれません。この親書には、日露戦争前に日本の要求に従い、日本側への領土割譲を認める旨が記されていました。封印の蝋燭が落ちていたのか、官吏は親書を読んで割譲すべきでないと判断し、親書を日本側へ渡さないことにしました。たった一人の名もなき役人が、その後の世界を激変させた一瞬でした。結果、日露戦争勃発、帝政ロシア崩壊、シベリア出征、満州事変、日中戦争、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争へと繋がっていきます。累積で数千万人の人が犠牲になりました。

被害者でもあるニコライ2世は、レーニン率いる赤軍に捕えられ幽閉されますが、その後白軍による皇帝奪還を警戒した赤軍は、ニコライ2世夫妻と子供4人をエカテリンブルグにあった商館の地下室で銃殺します。エカテリンブルグには現在、血の教会と呼ばれる観光名所がありますが、ニコライ2世他を銃殺した商館を取り潰した跡地に時間を置いて建てられた比較的新しい教会です。商館を取り潰す指示したのは、エカテリンブルグ近郊出身のソビエト共産党員時代のエリツィン大統領でした。不思議なことに歴史は微妙なところで繋がっています。赤軍に対抗した白軍は、赤軍に敗走し途中のバイカル湖横断雪中行軍の際、凍死によりほぼ全滅します。

更に悪いことに今回のロシアに因るウクライナ侵略は、第三次世界大戦の発端となる可能性があります。現在の世界情勢を見るとニューヨーク市場でも上がり切った株価、今後拍車をかける物価高騰、経済ジリ貧でも軍事力はあるロシア、それに協力する中国共産党、最近再びミサイルを打ち捲る北朝鮮と火種は揃っています。また、ウクライナがロシアに落ちた場合、NATOに加盟するポーランドと国境紛争が起きるのは必然です。早いと2年後の2024年に中露対欧米を主体とする第三次世界大戦が勃発する可能性があります。勿論日本は欧米側ですが、北方領土を返還する気がないロシアは、既に東京進駐を目的とした偵察を何年も前から繰り返しており、ウクライナと同様、多方面から一気に侵攻すると見られ、北海道、新潟を陽動として在日米軍を惹き付け、東京へは東京湾を避け千葉県勝浦沖から上陸し、成田国際空港制圧後、東京都区内に侵攻する可能性が高いと思います。東京へは勝浦からだと自動車道一本で結ばれており、険しい山地等の障害物も無い為、上陸後3日以内に東京が戦火に巻き込まれる可能性があります。鎌ヶ谷駐屯地等が防衛拠点になると思いますが、老朽化しており、実戦慣れしているロシア軍を恐らく防ぎきれないと思います。今後2年間は、ロシア軍の動向、取り分け空母アドミラル・クズネツホフの所在を注視する必要があります。

脱線しましたが、カレル橋は、19世紀中頃までプラハを流れるブルタバ川を挟んで、プラハの旧市街と外部を陸路で結ぶただ一つの通路でした。橋が架かる以前は渡り船が使用されていたもので、川幅が長いため、軍事的、技術的、経済的な各面から橋を架けるには及ばなかったのでしょう。建設当初この橋に名前はなく、建設時の神聖ローマ皇帝カール4世に因んで、チェコ語でカレル橋と呼ばれるようになったのは19世紀後半からです。カール4世ですから、カール橋でもいいのかなと思います。

これだけ大きな建造物に関わらず、建設当初、橋の名前が無かったことについて、プラハに橋が一つしか無かった為に、橋といえばこれだけなので、他と区別する名前が必要なかったことが唯一の理由です。名前がカレル橋に定着するまでは、他の人に場所を伝える際、主にプラハ周辺では石橋と言い、プラハ以外ではプラハ橋と呼ばれていました。カレル橋と名前が決定したのは、その後、プラハに橋が増えてきて区別する必要が生じたことが要因です。考えてみて下さい。人間ももし世界に一人だけだったら名前なんて不要ですよね。

橋に飾られた彫像は、橋の建設当初に別の場所にあったものを据え付けたもので、古いものだと作成時期が14世紀以前に遡ります。しかし17世紀初頭、プラハ城で起きたプラハ窓外投擲事件を契機とした三十年戦争が勃発、プラハは次第に劣勢となりスウェーデン軍に包囲され、チェコの王室は、ウィーンへ移転、プラハは人口が激減します。

スウェーデンは13世紀以降、バルト海沿岸のハンザ同盟都市との交易で栄え、その後、カルマル同盟で併合されハプスブルグ家一派であるデンマーク王室配下となっていますが、1520年、デンマーク王クリスチャン2世が、後にストックホルムの血浴と呼ばれるスウェーデン独立派の処刑を行ったことが逆に契機となり、結果として独立運動が高揚、1523年にスウェーデンは、グスタフ1世に依りスウェーデン王国として独立します。

この三十年戦争の時に彫像は、殆ど破壊されました。今、残っている彫像は三十年戦争後に作られて設置されたものです。彫像の中では「キリスト像」、「ブルンツビーク像」、「ネポムツキー像」の三体が有名です。そのうち「ネポムツキー像」の下にあるレリーフに触ると幸せになれるという言い伝えがあり、その為、触り尽くされ凹んで擦り減っています。また、最も古く作成時期が14世紀以前に遡ると言われる「キリスト像」は、橋に設置されているのは17世紀に作られたレプリカ、所謂複製で、原像はプラハ国立博物館に保管されています。何故か「キリスト像」だけは、三十年戦争の時に難を逃れました。その理由は何でしょうか。詳細を知る方は是非ご教示下さい。

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