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写真、あるいは自身の顕れについての考察[前編]

はじめに

私は写真について、ひとつの思想を持つ。
その写真は自身の顕れるものであってほしいということだ。
要約:自分の手で撮らなければ、作品ではない。一眼レフ使え。

本文①、「私で」撮りたいのだという事

さて、かっこつけすぎた。
以下写真をスマホで楽しく撮りたいという皆さま方、そして美しい写真を撮る皆さまには不愉快であろう。しかし、一読して考えてみてほしい。よろしくお願いいたします。

本文である。
昨今、スマホで写真を撮ることが多い。私も一眼レフを祖父から頂戴し、所持こそしているが、やはり常に持ち運ぶことは難しく、面白いものを見つけてもスマホしか持っていないという残念な事ばかりだ。スマホではあまり撮りたくはない。

「スマホで撮ることが悪だと断定しているわけではない」とは言わない。スマホ大嫌いである。(理由後述) 私事ながら竹を割ったように※1、気持ちの良い言い切りである。しかしここは曖昧にしたくない。

本文①の本文


何故かを説明したい。私はスマホで撮られた写真を、あなたが撮った写真だとは思えないからである。そのスマホで一枚撮ってみれば自明であるが、あなたがしている事といえばシャッターボタンを押す事くらいである。しぼり・シャッタースピード・ISO感度等は何も設定せず、ただ押しただけではないか。これでは、単純に考えて、スマホが撮っているのにも等しくはないだろうか。

(本文の捕捉)

逃げるように補足するが、もちろん一眼レフでも全て自分の手で撮れているわけではない。それは「手振れ補正」や「色補正」等、機械に撮られている部分が多少なりとも含まれていることからもわかる。またカメラ機能で「Mマニュアル」モード以外を使えば、自動的に場面に適した調整を機械がするため、この場合においてはスマホと違いはない。また更に補足をするが、スマホでもアプリケーションを用いて細かな設定も可能なようだ。しかしそれをスマホ派な人々のうち、何人が行っているだろうか。

本文①の終点

私が言いたいのは、あなたが撮ったつもりのその写真、何割が「あなたで無い者」に撮られた写真ですか、ということである。「あなた以外」が何割以下になればよいというのは個人の主観でしかないし、数量的に測れもしない。その点においてここでは何も論じれない。自身の満足のみが結論づけられることだ。けれども、本当にその写真で満足できるのですか。スマホによって撮られ、他人によって作られたフィルターを被せたその写真は「私が撮った」と満足して言ってよいのですか。私はそう言いたくない、その写真の100%が私でない限り。

脚注

・全体を通してであるが、写真には「記録」と「作品」の2つの側面があり、本論では作品の面に注目している。
・※1  炎上したら、竹など炭になるのだろうな。こわい。

試しに押しても罰は当たらないはずです。知りませんけど。