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辛いあなたへ。って物語。

生きてる限り、何でもできるし、逃げることができる。
でも、「死」から逃げることだけは、誰一人できない。

私は昔、「死」というものが本当に怖かった。私の家族や周りの人は体が丈夫で、最近まで葬式にも一回も出たことがなかった。だからなのかもしれない。朝、テレビの中で動いていた人が悲しい音楽と黒い見出しで紹介される。それを見ると胸がギュウっと握りつぶされているようで、どこかから誰かに見られているようで、その感覚がずっと、ずっと怖かった。

「死んだらどうなるの?」「天国に行くんだよ」大人に聞いたとき、いつもそう返ってきた。でも、空を見てもただ青いだけだった。だから、怖かったのかもしれない。「死んだら、何にもなくなっちゃう」と小さいながらにわかっていたから。

そんな私も、昔ほど「死」が怖くなくなった。慣れてしまったのだろうか。そんな自分が嫌になる。

初めて葬式に出たのは友達のお父さんが亡くなったときだった。家に行ったことだってあるし、家の中に鍵を忘れて、なぜかその友達の家に助けを求めに行ったとき、ケンタッキーをごちそうしてくれるような、優しいお父さんだった。体調がよくないことは知っていたが、まさか。だった。悲しいという言葉より、驚きが大きかった。
葬式で、友達が家族と一緒に挨拶しに私と母のところに来た。大人は大人で話をしていた。残された私と友達。どうしていいかわからなかった。でも、驚いた。全然友達は泣いてない。友達は私を見て「来てくれてありがとう」と笑った。いつもの笑顔だった。私も、葬式で笑ってしまった。
家に帰って後悔した。なんで笑ってしまったんだろう。きっと友達は面白くて、嬉しくて笑ったわけではないとわかっていたのに。悔やんだ。でも、枕に頭を突っ込むことしかできなかった。
それから、友達は普通に学校に来て、普通に過ごしていた。笑っていた。ふざけていた。でも、1年もしないある日の道徳の時間、たしか題材が死についての話を読んだとき。先生はその友達に意見を求めた。たしか友達は「ちょっと、わかんないです」と笑って答えた。苦しくなった。先生に腹が立った。でも、私がした行動も先生と同じことだと思った瞬間、自分をぶん殴りたくなった。

「死にたい」

「死ね」

「失せろ」

こんな悲しい言葉が日常に溢れる世界になってしまった。いつも聞くたび悲しくなる。なのに、なのに私を囲む友達は、まるで名前を呼ぶように平気で「死」を投げつける。「死ね」と言いながら笑う。「死ね」と言われて笑う。それで、「死にたい」と言いながら笑っているあなたを見るのが、辛くてしょうがない。

自ら死んでほしくない。これが私の想いだけど、死んでしまった人は私よりも考えてその判断をしただろう。
自ら死を選ぶことは、自殺だけじゃなくて延命治療とかもそうだ。
「私が死んでも誰も悲しまない。このまま生きてお金がかかるなら誰にも迷惑かけずに死にたい」そんなことないと伝えたくても、迷惑なんかじゃないと言いたくても、自分がその立場だったら。同じことを考えてしまう私は、そんな自分勝手なこと言えない。

楽しいときはあなたと笑顔を分かち合いたい。

悲しいときはあなたと涙を分かち合いたい。

どこにいたって寄り添える、そんな人間になりたい。

でも、あなたが笑いながら苦しんでいるとき、私は気づくことができないかもしれない。

気づきたい。気づいていたい。でも、そんなことできるはずない。
私が何を食べたいか口にしないとあなたにはわからないし、持って来てくれることはない。(母は別)

でもね、そばにいることだけはできるんだよ。

人間70億人いたって、自分のすべてをわかってくれる人なんてどこにもいやしない。だから、死を選んでしまうのかもしれない。でも、そばにいることだけはできるんです。画面越しでも、こうやって話せるでしょ?隣に座ってるのと同じようなもの。わからなくても、わかってあげようとすることはできるんです。辛くても苦しくても、死にたくても、その気持ちを伝えてほしいなんて欲張りなことは言いません。どこかで必要とされてるなんてありふれた言葉も言いません。あなたの苦しみも知らずに自分勝手に「死なないで」なんて言いません。

そばにいるので。

私は、ここにいるので。

あなたが逃げても、立ち向かっても。もし、そういう決断をしてしまっても、私はここにいるので。私だけはここにいるので。


ここに、いるよ。

そばにいるから。いつか一緒にご飯でも食べに行きましょ。

                                                                               KaiTo

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