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地震と無電源ラジオ

きのうの夕方は、ピアノを弾いていて、途中でめまいのようなのを覚えた。頭がぐるぐる回る感じ。

あれ、どうしたんだろう、とソファに座り込んだ。地震だったんですね。神奈川ですけど、感じました。ああいう体感は初めてでした。


災害のたびに、電気というインフラの基底性を思い知らされる。今回のように、寒い時期だと、とくに停電は恐怖ですね。

電気が切れると、テレビも見られず、スマホの電源もいずれ絶える。道路が寸断され孤立すると、情報が遮断される。


こういう場合は、鉱石ラジオみたいな、無電源ラジオがあればいいな、と思いました。少なくともそれで、情報がとれる。

でも、鉱石ラジオなんて、最近聞かないね。売っているのかしら。


関東大震災で広まった「ラジオ」


たまたま年末に、関東大震災100周年の話を書いたのだけど。


そこで触れたように、1923の関東大震災がメディアの一大画期になった。

関東大震災で、新聞ふくめたメディアが壊滅状態になり、情報が混乱して、デマなどによる人災が起こった。

そこから、日本でラジオ放送が始まることになります。


関東大震災の直後では、朝鮮人や中国人の虐殺事件へとつながったといわれる流言が大きな問題となった。そのことが「人びとに、『ラジオさえあれば流言飛語による人心の動揺を防げたであろう』という思いを起こさせ、放送事業開始の要望が急速に高まっていく」(竹山昭子2002『ラジオの時代』)のである。その後、震災を契機に、ラジオの実用化が急激に進んでいったのである。
関谷直也「関東大震災とメディア」


ラジオ(無線通信)は、20世紀入って、できたばかりの技術でした。日本では、関東大震災が、その最新技術を普及させる契機になったわけです。


ラジオの基本


それから100年たって、いわば技術が進歩しすぎ、ラジオの基本が案外忘れられているかもしれない。

ぼくらの子供のころ、1960年代には、無線技術は、まだ最先端という感じで、リモコンなんてものが目新しかった。

そういえば、そのころからあった「ラジオ技術」なんて雑誌も、最近休刊しちゃったねえ。


科学の基本はラジオだということで、ぼくも小学生時代、ラジオ技術の通信教育を受けました。そのころの子供雑誌に、必ず広告が載っていた。

教科書とラジオ製作キットが送られてきて、理屈を学びながらラジオを組み立てる。たしかラジオ技術何級とかいう、免状のようなものをもらった。まあ、おもちゃみたいなものだったけど。


それで、最初につくらされるのが、鉱石ラジオですね。鉱石を検波器にして、電波から音声信号を取り出す。これは電源がいらないんです。

「電気」を使わないのに、イヤホンからたしかに音が聞こえてくる。魔法のように感じたものです。


ただし、音声は微弱で、かすかにしか聞こえない。

スピーカーから音を出すにはアンプが必要で、次の課程では、信号を増幅する「真空管」を使ったラジオの製作に入る。

真空管を5つ使った「5球スーパー」をつくると卒業ではなかったか(いまだに「スーパーヘテロダイン」なんて単語を覚えている)。

信号を増幅するには電源が必要になる。

当時は、真空管ではなくトランジスタを使ったラジオが普及し始めていたけど、トランジスタは子供の工作には高級すぎた。ぼくがつくったのは、真空管まででした(いまは真空管のほうが貴重かもしれないけど)。


とにかく、そういう経験があるから、電気がなくても、ラジオが聴けることは知っている。

電波を発信するには電気がいるけど、受信するさいは必ずしもいらない。

ゲルマニウムラジオでもいい。かさばるものでもないから、ああいうものが一家に1つあると安心ではなかろうか。

まあ、こんな素人の思い付きは、専門家はとっくに考えているでしょうが。


ともかく現代は、100年前の大震災時とくらべると、むしろオーバーテクノロジー(技術過剰)で、とくに電力に依存しすぎている点は、自然災害時に弱みになるのではないか。

関東大震災で、なぜラジオ(放送)が必要になったのか。メディアは何のために必要か。その原点に立ち返って、考えるべきだと思うんですね。


SNSの害悪


オーバーテクノロジーの問題の1つに、みんながスマホをもち、「発信者」が増えすぎたことがある。

被害者がSNSによって救助を求めることができるいっぽう、それをかき消すようにデマがふえる可能性が出てきた。これは、メディアの逆説ですね。


今回も、SNSでかなりのデマが流された模様だ。

現時点で、どれがデマかを即断するのは危険ですが。

X(旧ツイッター)も、YouTubeも、アクセスが増えるとカネがもうかるインセンティブを与えている。それがデマをふやす、という指摘もありました。


まずは被災地と災害対策本部のホットラインだけが重要で、そこにリソースが割かれなければならない。

SNSの発信で、われわれのような、当事者ではない、他所の人間も被災地の様子を知ることができる。でも、それは後回しでいいのであってね。

「わたしはいま、ドンピシャで近くを旅行中でした!」

みたいに、嬉しそうに実況しているYouTuberがいたけど、それこそリソースの無駄遣いではなかろうか。


Xも、タイムラインにいろんな時間の投稿が並ぶようになって、どれが新しい情報なのかわかりにくくなった。

そこに、デマっぽいポストが、アクセス数が多いというだけで混入してくるから、ほとんどデマ拡散装置のようになってたね。


電力に依存しすぎるオーバーテクノロジーの問題。

非常時に事態を悪化させる可能性のあるSNSの問題。

関東大震災後100年、あらたなメディアの課題として、これらを考えなければならないと思ったのでした。



<参考>












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