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私の父は戦争に行った

 私の亡き父は大正生まれだ。そう言うと、殆どの人がもの凄く驚くので、私はそれ以上は語らなかった。でも、もう語らねばならない事がある。

父は大学を卒業すると直ぐに軍の入隊検査を受け合格した。国内で訓練の後、翌年中国戦線に行かされた。そこでは父は、いきなり部下を率いる立場(多分、小隊長)に就いた。
日本で働いた事も無く、部下も持った事が無いのに、初めての部下の「命」を預かる立場になった。部下は10人弱だったろうか、若い兵士達だった。そこは、銃の玉が飛び交う銃撃戦の地域だった。

父の任務は「進め!」と「待て!」の2種類しか無い号令を自分の部隊にかけて率いる事だった。「逃げろ」や「撤退」は許されなかった。
「怖い」を超越した感情だったそうだ。

もし、自分の号令で若い部下たちが死んだら、彼らの家族はどんなに悲しむだろうか?
そう思うと胸が詰まり、「待て!」しか言えなかった。「情け無い軍人だった」と父は振り返る。

ある晩、突然父は高い地位の人に呼び出された。

上官「お前は、帝大(東京帝国大学、今の東京大学)を卒業しているんだってな」

父「はい」

上官「そんなに賢いなら、生き残れ。
  日本はいずれ負けて、
  戦争は終わるだろう。
  お前は生きろ!
  生きて日本を再び創れ!
  その代わり、命の保証はしてやる」

その晩、父は眠れなかったそうだ。

勿論、生き残れるのは嬉しい。
しかし、自分だけ生き残って良いのだろうか?
学歴で生死が分かれて良いのだろうか?
配属先で、死ぬ確率が違って良いのだろうか?

そんな事が、頭の中をぐるぐる回ったそうだ。

そして、父は翌日から自動車部隊に異動になり、車輌の整備をする任務についた。
上官の言葉は本当だった。

軍隊では、いわゆる「しごき」と言う、体罰(いじめ?)が上官からあったそうだ。自分のストレス発散、暇つぶしに下の者を理由無く殴る蹴るは日常茶飯事だったようだ。

また、軍人と徴兵された兵士との温度差は大きかったようだ。軍人になりたくてなった人(陸軍士官学校卒のような人)と、徴兵されて仕方なく兵士になった父のような人とは意見は合うはずもなかろう。

「軍隊ほど非論理的で、理性が効かない集団は、結局自分の人生で無かった」
と父は晩年語っていた。

やがて戦争は終わり、父は無事に帰国した。
父は24歳で日本を離れ、帰国時には28歳になっていた。

そして母と結婚し、だいぶ年月が経ってから私が生まれた。
父が戦争で死んでいたら、私はいなかったのだ。
そう思うと、夜呼び出してくれた上官の方に、感謝してもしきれない。
どなたか存じませんが、ご高配をありがとうございました。

戦場に於いても、冷静な判断と予見が出来た優秀な上官もいたという事実に、驚きと感謝を禁じ得ない。

「唯一の救いは、僕は敵を1人も殺さなかった事と、部下を亡くさなかった事だ」
とも父は言っていた。
だから、よく戦争の事を語れたのかもしれない。

また、「折角、東大で国際法を学んだのに、、」とも言っていた。戦場では国際法が遵守されていなかったのだろう。

父は「現場は(忙しくて)戦場です」と言う表現や、若い人が「命を賭けてこの仕事をしました」と言うのを聞くと苛立っていた。

戦場っていうのはな、人と人とが殺し合う地獄のことだ。一瞬の判断を間違えれば、本当に敵の弾に当たって死ぬんだ。
本物の戦場では、数え切れない程の遺体を見た。これが、戦争か・・・と痛感した。
だから、そういう言葉は安易に言うもんじゃ無い」

父は戦後は官僚としてある省庁で働き、局長にまで昇進した。今頃になって、官僚の働き過ぎを調査し始めているが、30 代は夜中の2時3時まで働いて、毎日短時間睡眠だったそうだ。が、父は「若かったし、へっちゃらだった」と言っていた。

それも、戦時中のあの上官からの言葉
「お前の命を救う代わりに、日本を再び創れ!」
が脳裏にあったからだと私は思う。

父は官僚退官後に裁判官になり70歳まで働いた。殆ど官の仕事ばかりだ。勲三等も頂いた。
「日本を創れ」という壮大過ぎる命令に、ある程度は忠実に報いたのではないだろうか?

そんな父が何度も言っていたのは、

「日本はバカだった。

 参戦したのは誤りだった。失敗だった。

 それに気づくのに、いかに多くの

 尊い犠牲を払ったことか!」

実際に戦争に行って戦った人が、言う言葉の重みを感じて欲しい。各人がそれをどう思うかは、個人の自由だ。

20代の私の娘達が学校で聞いた戦争体験者の話は、学校の近所のご老人たちが子ども時代に体験した東京大空襲の話だったそうだ。勿論、それらも大事だ。

だが、戦場に実際に行った大人の意見、つまりそこで何をして、何を見て、何を感じ、どう思ったのかは現代においてはより貴重だ。
なぜなら、戦争に行った方々の多くは既に亡くなっているからだ。しかし、身内にいたという方は、私のようにまだいるのではないだろうか?

もう語ろうではありませんか、貴重な体験談を!

自分が聞いている事を伝える、つまり情報提供が大切だと思う。何事においても、先ずは「知ること」が重要だからだ。多様な体験談や思いがあるだろう。戦争体験記の本も沢山ある。人々はそれらを知って、各自の考えや感想を自由に持てば良いのだ。

そこに少しでも貢献すること。
それが今の私に出来ることだ。

※「続編・軍歴を取り寄せてみた」に続く。

※ 最終話「復員した父に待ち受けた苦しみ」でおわります。

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※実話につき、無断転載はお控え下さい。

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