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095 すべての学問のとき方

社会学には「社会問題は社会の病気」という前提がある。
その社会を構成している要素は個人である。
その個人のなかで社会不適合者を対象にしているのが心理学である。
心理学には「すべての愛は自己愛である」(愛する自分を愛す)という前提がある。

社会学の前提を心理学の前提で解いてみる。
その心は「すべての社会問題は自己病気」となる。
「すべての見立ては自己(自分自身の)見立て」なのだから当然である。
これは哲学の一つの結論でもある。

社会学で問題とする社会の病気は社会学では対処療法しか示せない。
心理学で問題とする社会不適合者の心理も心理学では対処療法しか示せない。
答えは枠の外にあり、その前にあるからである。

社会学と心理学は以前、哲学の中にあった。
哲学の一分野から分かれて独立した比較的新しい学問なのである。
その社会学や心理学の問題のほんとうの答えは哲学の中にあるのである。

それに付言するなら、すべての学問は、哲学から始まっているのである。
だから、すべての学問の問題は、哲学に通じているのである。
何故といって、初めの哲学は対象を限定しておらず、各学問は、対象を限定することで、分科・深化したのだから。

そして、その哲学の唯一の問題は「汝自身を知れ」であり、換言するなら「いかに自分自身を知るか」に還元されるのである。
初めのソフィストでないソクラテスが哲学の祖とされるのは、「汝(なんじ)自身を知れ」と「無知の知」を残したからである。
そしてこの2つを止揚すれば、「汝の無知は自身についての知」ともなるのである。

仮に「すべての哲学を知る自分」を知っても、哲学をする自分自身を知れない。ほんとうの自分自身を知ることはできないからである。
それは「すべての哲学を知る自分」とは自分自身にとって極一部に過ぎないが、「自分自身を知る哲学」では、自分自身のすべて、すなわち「ほんとうの自分自身」を知ることになるからである。
だから哲学の問題は、「自分自身を知る哲学」に還元されるのである。

紀元前より始まっている哲学は、色々に分科し深化してきたが、未だに学問として残っている。
それは、この問題を解いていない側面が大きい。
ただ、微に入り細に入ることも面白くあり、今度も続いくことと思われる。

「すべての見立ては自己見立て」の自己(自分自身)をいかに知るかなのである。
自分自身を知れば心理が体から離れることはないのである。
また、自分自身を知り基準にすれば、社会はただ感謝の対象になるのである。
だから、自分自身を知れば個人にも社会にも問題は発生しないのである。

「汝自身を知れ」は以前「分を知れ」と訳されていた。
分を知れないから分と離れたことするのである。
分が離れるから精神が分裂し、社会問題が発生するのである。
では、いかにしたら分を知れるのか。

哲学の問題は哲学では解けないのである。
そのように心境を語った人たちはソフィスト(職業学者)という立場である。
この問題の問題も、出題者の立場なのである。
職業前の仕事をしていれば、そんな心境、問題は発生しなかったということである。
半狩猟半農耕の自給自足主体の暮らしをしていれば、この問いを欲する心境にならないのである。

哲学はソクラテスから始まり、同時に終わったのである。
何故なら、その後に続く哲学者は学者という立場であり、それでは哲学の主題を解くのは不可能だからである。
実践しない哲学は、生き方の検討から始まった哲学ではなく、ただの学問としての存在であり、哲学とは異なり、哲学学となるのである。
なので、ソクラテス以降は、ほとんど哲学学者と分類されてしまうのである。
これは分類上の話であり、特に批判しているわけではなく、哲学学から出てきているいくつかのことわざには、知っておくべき真理があるのも事実である。

心理学にはもう一つ前提がある。
「すこし前の常識は正しい」ということである。
そうでなければ、現在精神が狂っているように見える人こそが正常である可能性がある。
すこし前を遡(さかのぼ)っていくといずれは古代になる。

古代より人の心は変わっていないとなる。
この見立てには心は同じものという前提がある。
違っていれば共通性がなく心理学という共通の見立てが成り立たないのである。
どんな物事も大きく見れば同種のものだが、小さく見ていくと個別になる。

本書では現在の常識をすこし前の常識で解いたのである。
これになんらかの説得力を感じるのであれば心は同じということになる。
同じ心を持たないのであれば、ことばや論理は通じない。
頭に訴える以前には、似たような心を持っているという前提がある。

社会は日々進歩し、常識も日々変化しているのである。
そうであれば社会不適合の患者は増えるばかりである。
なのにそこまでは増えず、多くの人はうまく環境に適合・迎合できているのである。
むきになって自給自足をする必要はないし、他人を促すものでもない。

また社会学の前提には明確ではないかもしれないがあるべき社会像がある。
あるべき社会像と現在の社会との差を社会問題とするからである。
あるべき社会像は個人の心理から発生している。
本来、社会学と心理学は一体なのである。

社会の問題も個人の問題も問題はすべて解けるのである。
ほんの少しのコツさえ自覚すればだれでも解けてしまうのである。
そんなに熱くならなければ解けるのである。
そんなに従属しなければ解けてしまうのである。

すべての問い(問題)には、私意が含まれている。
自分自身を含め、出題者には、立場があるのだから。
その私意、立場を外さない限り、問題はとけないし、外せばとけるのである。
かなりシンプルな構造なのである。
それに問題が発生する前まで思考を戻すのは、問題を解く定石の一つである。

そうして問い(問題)を学ぶ学問から卒業するのである。
それから再度仕事との距離感を検討して真の社会人になれるのである。
真の社会人とは社会と間をとる人である。
それは社会依存症という頭の病気から脱する人なのである。

社会依存症とは、「人間は社会的である。」ということを「人間は社会がないと生きられない」「だから少しでも社会をよくしようと」積極的に理解することから始まる。
この問題の問題は、積極的(人為)というところである。
人間が社会的であるのは、動物時代も含め長い歴史の中では、極自然なことであり、社会があるのが、自然なのである。
それを誤解し、社会貢献を主義や固定観念とし、努力し、甲斐を求めることになるのである。
これは、これまで経験してきたことの告白でもある。

無論、今でも社会貢献主義者を自認する私も何らかの甲斐を求めているかも知れない。
だって私は普通の人だから。
いや、そんな面倒には捲き込まれたくない気もしている。
ほんとうは、只の変態かも知れない。

社会貢献を完全是認する方からみれば、自給自足は我が儘な「アクマ」に写る。
それもそうなのである。
「アクマ」とは「空く間」なのである。
そしてその「間」が愛(同一化)の逆にある、個人と社会の尊厳なのである。

ことばは、洒落て出来ている。
古くから辞書が存在するように、ある意味破綻するぐらい意味をずらして、増やして成長している。
そして、そのズレが洒落なのである。
ここまで増えたことばの意味は、洒落が通じる人が多過ぎたことを物語っている。


#小さなカタストロフィ
#microcatastrophe

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