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場面緘黙などの当事者が取材を受けることについてと濱田祐太郎さんの漫談を見て感じたこと

話題になっていた濱田祐太郎さん受賞の際の漫談を見た。濱田さんは漫談の中で、目が見えないことを自身の強みとしてフル活用していた。目が見えない人と目が見える人との間にある「ズレ」を鮮やかにすくい上げて、ひょいとまな板の上に乗っけて見せてくれる。その「ズレ」に対しての濱田さんの気付きやツッコミから湧いてくる驚きや感心。とともに、笑っていいのかな、という一抹の不安。すかさず、「迷ったら笑ってください」と言いながら笑われている濱田さん。に、皆が安心する。から、笑える。少なくとも「お笑いをやりたい」濱田さんにとっては、目が見えないことは「障害」ではないのかもしれないと思う。

ステージ中央まで案内してくれる介添人の方、周りの人が濱田さんを自然とサポートする様子までもが放送されたことはとても印象的だったし、それすら濱田さんのお笑いの世界の強度を増してくれていると感じた。「目の見えない人あるある」で、そっと知らなかった世界を差し出してくれる。

濱田さんが、目が見えないから話題になっているのではないことが嬉しい。お笑いやその他のことについて、本当は「障害」が関係ないことを、示してくれたことが嬉しい。

ある記事によると、濱田さんは『バリバラ』の取材を受けたことがあるらしい。
(『バリバラ』とはNHKの番組で、バリアフリーバラエティの省略。)その取材は、濱田さんが目が見えない芸人だからオファーが来たのだと思う。「障害」をテーマとするバラエティだから当然かもしれない。でも私は、濱田さんがいくら目が見えないことを強みやネタにしていても、「バリアフリー漫才」とは呼びたくない。「お笑いがやりたい」が、濱田さんの第一義であって、強みやネタは手段や方法のひとつでしかない。

一時、『24時間テレビ』が「感動ポルノ」という事象とともに批判されて、障害当事者界隈では(結果的に?)『バリバラ』が持ち上げられたことがある。『バリバラ』は、24時間テレビを意識した内容を放送し、暗に対抗を示していた。そのせいもあってか一部の障害当事者側は、余計に「24時間テレビはエゲツないが、バリバラはOK」「バリバラはどっちかって言うと障害者の味方」そんな風潮になった気がする。私自身、わりと盲目的にそうなってしまっていた。でも何かモヤモヤするなと思っていたところ、

「感動の対象とすることも
笑いの対象とすることも
どちらも差別」

というようなツイートを見かけ腑に落ちた。結局は「障害」ラベルで笑いや感動を引き出そうとしている。引き出すものが笑いであれ、感動であれ、同じ価値観に基づく考え方なのではないか。それは、「障害」を「障害」として見るというある意味当たり前な視点。その視点からは、「障害」はひとつの「見世物」になる。

濱田さんは芸人なので、濱田さんの「障害」ではなく、濱田さん自身が(芸人として)「見世物」であることを望んでいる。笑われたくて笑われている。自身のどこを笑われたいのかを含めて(ネタにして)、自分で笑われることを決定している。
(もちろん、目が見えないことを笑われるのではなくて、目が見えないことをネタにした濱田さんの漫談が面白くて、皆が笑う。し、それが濱田さんの求めるところだ。)

お笑いの主体と主体性について、

自分のどこを笑ってもらいたいか、
(障害も含めて)
決められるのは本人だけである。

そこが(無言のうちにも)守られなければ、お笑いはお笑いたり得ない 。真の意味でのバラエティは成立しないのではないだろうか。

『バリバラ』などで、一般の「障害」当事者が取材を受けることがある。もちろん、取材や出演の承諾をするくらいだから、番組への理解や製作側への信頼があってのことだと思う。

当事者は一般の方なので素の状態で取材を受ける。芸人さんや芸能人ではないから、ここで笑ってほしいなどとはあまり考えないと思う。当たり前だが、番組の台本や構成、演出は製作者が行うため、様々な編集がなされる。バラエティの場合、編集には「ここで笑ってもらおう」という意図も入る。編集による笑わせよう、感動させようという意図的ポイントが、当事者自身の意図と重なることもあれば、重ならないこともある。

世間一般と本人(=障害当事者)との「ズレ」が、他者によって調理される。

当然ながら、製作者が番組をつくる目的と、当事者が取材を受ける目的も、最初からちがっている。当事者の方も、ここまでは想定内での出演かもしれない。しかし編集というのは恐ろしくて、たったひとつの表情や仕草でも、切り取り方と並べ方で、ずいぶん違って見えてくる。過分に「自分の意図しない自分」がつくりあげられる可能性がある。

自分のどこを笑ってもらいたいか、
(障害も含めて)
決められるのは本人だけである。

障害当事者の方がテレビの取材を受けられる場合、このことが根本的に守られないことを自覚して出演した方がいいと思う。特にバラエティは、繊細な感性の方は動揺してしまいやすいような気がする。私だったら、笑われたくないところで笑われるようにされていたら、傷付く。少し大げさかもしれないけれど、動画がウェブ上に残り続けてしまうこともあれば、中傷されることもあり、トラウマにもなるかもしれない。そのフォローはしてもらえない。さらに、顔出し、名前出しで、障害の属性も出せば、個人情報を自ら公にするリスクは高い。恋愛、就職、結婚、家族など、どのようなライフステージにどのような影響があるかは分からない。場面緘黙当事者であれば、自分が話せないことを公開することで、他者から「話せないと思われている私」が固定してしまい、話し出すことができなくなる可能性もある。

想定での話なので、これは『バリバラ』など「障害」を扱うバラエティ番組への批判ではなくて、障害当事者が取材を受けた場合、こんな可能性もあるのではないかという話。

私自身は場面緘黙の当事者として『ザ・仰天ニュース』の取材を受けたことがある。その時は、私は「見世物」になる覚悟を持っていた。「見世物」というと良くない印象を持つかもしれないけれど、私は古くからの「見世物」や「道化」の文化に関心があったので抵抗がなかったし、場面緘黙を知ってもらえるならネタにされてなんぼと思っていた。番組で紹介された私は私の一部でしかない。と割り切って出たものの、放送後は結構モヤモヤした。

自分にとって、視聴者に笑ってほしいところと感動してもらえたらうれしいところがチグハグに感じられたこと。すてきな彼に運良く出会って治ってよかったね感が出ていたこと(それだけじゃなくて地獄のような苦しみもあったんだけど、見る人が希望をなくしてしまうと良くない)。すごく善人に描かれていたこと。典型的な場面緘黙当事者として描かれていたこと。製作者様に対しては全てがありがたく、私にとっては仕方のないことなのですが。実際、場面緘黙の扱い方はすばらしく、初めて知る人にもとても分かりやすく伝えてもらうことができた。

私はそんなに善人じゃない!と毒付きたくはなったけれど、笑
ウェブで中傷されたなどのトラウマもとくになく、SNSなどで応援や嬉しい反応をたくさんいただいて感謝の気持ちでいっぱいになった。場面緘黙を知ってもらったうえに出演のお礼まで言われることもあった。ひとつの経験としても、出てよかったと思う。当事者が取材や出演を通して人との接触やつながりを得るなど、ひとつの社会的経験として吸収・成長できるのならば、その点はとてもいいことだと思う。

私は、製作側の方々とお会いしてお話して信頼してお任せしたのだから、最終的な内容に関しては一切何も言わないと決めていた。でも、製作段階で気になる点や理不尽なことは、言えるならばどんどん製作者側に伝えて対話するのがいいと思う。放送内容の質が向上することもあるかもしれないし、これから取材を受ける人の役に立つかもしれない。言いにくければ、他の方に頼んで言ってもらったり、メールなどで伝えるといいと思う。きちんと、本人(=障害当事者)の権利と主張を伝えてくれる人に頼めると良い。たとえ啓発になったとしても、当事者が傷付いたことを言い出せず、自己犠牲的になってしまうことだけはなるべく避けたい。とくに場面緘黙の当事者は、自分の気持ちをそのまましっかりと伝えてくれる人と一緒に、取材する側の方とやり取りをする必要があるかもしれない。

テレビの取材を受けた後、やはり「自分のことは自分で伝えるのがいちばん」という方向へ踏み出した障害当事者の話も聞いたことがある。講演会を自主開催したり、新たに自ら映像をつくってみるなど。「伝えたいことを伝える」には、現在は様々な方法やツールがあると思う。

放送によって「私は場面緘黙だった」と気付いた方がいたならば、そのような当事者のための(社会的認知が広まったその後の)受け皿となる場所を、微力ながら公につくっていこうという意志も持っていたから、顔も出したし、何なら家族写真まで出した。が、本来は地味にひっそり過ごしていたいタイプなので、基本あまり表に出たくはない。社交不安や社会不安が強いこともあり、広範囲での発信や露出がしんどいと感じることもあるし、諸々のリスクもあると思っている。これらは私の価値観に基づいた私個人の意見と経験に過ぎない。たくさんの取材を受けたわけでもない。が、もし、これから取材を受ける場面緘黙やその他の障害当事者の方の気付きや参考になれば幸いだ。

「障害」を「障害」として受け止め、当事者に必要な支援・対応をしていくことは大切である。それと同時に、私は「障害」を「障害」として見ないことをしたい。「障害」が、その人の「強み」だったり、「ネタ」だったり、「創造性」だったり、「今の自分をつくっている過去の経験」だったりするとき、それはその人にとって「障害」ではない。例えば同じ場面緘黙の当事者であっても、障害の中身=困りごとは、ひとりひとりちがう。自分の「障害(=困りごと)」を「障害」と言えるのもまた、自分だけなのかもしれない。濱田祐太郎さんの今後のご活躍を、楽しみにしております。

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