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学校をタイムマシンにしない

今の公立の学校に対して、昭和に行けるタイムマシンだなんて思うことがある。あるいは、20〜30年前の価値観をリアルに生きられるテーマパーク。
実社会を学ぶこと、集団を知ること、多くの人・さまざまな人と出会い関わることにももちろん意義はあるだろうけれど、子どもの居場所やフリースクール、不登校児を受け入れる図書館・児童館なども増え、ホームスクーリングをする人たちもいる。(保護者の負担は大きく、経済的余裕や家庭環境に左右される部分もあるが、)選択肢が増えてきた今、無理をしてまで学校に通う必要性を昔ほど感じないのが本音だ。

だが現在学校に通っている子ども当人にすれば、学校は生活の大部分を占める。そこでの悩み・苦しみは決して軽いものではないだろう。「学校はタイムマシンだから」なんて皮肉は言っていられない。どの子も自主的に学校に行かないことを選択できるような現状でもない。

場面緘黙のみならず、いじめ、不登校、校則、人間関係などもそうだが、学校で子どもが悩み苦しんでいるとき、学校や教員によって対応にかなりの差がある。良くも悪くも、一生忘れられないような対応や声かけを受けることも、あるかもしれない。子どもは、その差の部分で人生に大きな影響を受ける。

そういった、教員から子どもひとりひとりへの対応の差も、新たな知識や情報の有無、現代の子どもへのさまざまな視方を知り取り入れるアップデートの有無が影響していると思う。たとえ広く浅い知識であっても、教員や保育士全体に定期的に学ぶ機会や、そのための心身の余裕があれば、対応の差をある程度なくすことはできるのではないだろうか。

ガイドラインや指針の整備と現場での活用も、そのような対応の差を少しはなくしてくれるはずだ。先生との相性や、大人との出会いの運や縁に左右されるのではなく、どんな子どももできるだけ尊重されるしくみや環境を整えておくことが大人の役割だとも思う。苦しんでいる子どもを追い込まない対応は、学校側のリスクヘッジにもつながる。子どもひとりひとりを尊重するからこそ、個人の感情や価値観が先行する対応ではなく、子どもの気持ちに寄り添えるしくみやガイドラインの整備、知識、理論が必要なのだと思う。そして、そのためには、教員ひとりひとりも尊重されていてほしい。

すべての子どもには、教育を受ける権利がある。すべての大人には、それを守る義務がある。どのようなかたちであれ。

いじめの問題は絶えないし、不登校、子ども・若者の自殺は増え続けている。教員の過労やストレスも問題だ。今は大人にも、子どもにも、コロナによる重圧もあるだろう。

今現在大半の子どもが学校に通う社会のなかで、大人は学校をタイムマシンにしたままではいけない。目下、学校においてはさまざまな課題があるだろう。生徒の身に何事かが起きたとき、学校と保護者が対立したり、教員個人の問題に帰すだけでは何も変わらない。今は学校も変化の過渡期なのかもしれないが、今の私が学校と関係なかったとしても、昔学校が大きらいな子どもだったとしても、学校のあり方と意義ひいては「子ども・教育」について考えなおすことを、スルーしてはいけないと感じる。現場を知らないからこそのきれいごとに終わらず、学校や教員や子どもたちと一緒に「学校」とくに「誰もが選びうる公教育」のあり方・変革について、考える機会があるならば、参加したい。

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