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小説『エミリーキャット』第69章・Labyrinth

順子の家から帰宅した彩はマンションの鍵がかかっていることを確かめても尚、怯々と踊り狂う胸を押さえて室(へや)の中へと足音を忍ばせて入っていった。

こめかみに青筋をたてた鬼の形相の慎哉が今にも飛び出してくると、

『彩っ!一体どこへ行っていたんだ!?心配したじゃないかっ!』

と大声で彩を怒鳴るように叱りつけてくる気がして、彼女は気が気でなかったからである。

だが家中どこにも合い鍵を持った婚約者の姿は無かった。

出かける時に廊下の間仕切りの扉を開け放ったままであった為、
独り暮らしにはやや広過ぎるマンションの長い廊下に途中で差す斜めの陰がまるで行く手を遮っているかのように彩には見えた。

彩は締めつけられるような強過ぎる罪悪感の陰に隠れてやっとひっそりと申し訳無さげに沸き上がってくる安堵に小さく胸を撫でおろす想いとなり、玄関扉に改めて鍵をおろすと、更にドアロック・バーを音も無く扉の上にそっと伏せた。

寝室へ入るとベランダに昨日の朝、干していった洗濯物の数々が南に面した硝子戸の向こうで春風に揺れているのが目に入ったが、その日常的な平素当たり前のように以前なら眺められた風景がその時の彩の眼には驚くほど奇跡的なものに見えて仕方が無かった。

”今、私がこうして生きているのも
何もかもが実は酷く奇跡的な事態なのではあるまいか?”
と彩は思った。

たった今この瞬間さえ危ういほどのギリギリの均衡のもとに偶々(たまたま)あることであり、
それらは本当は脆弱性という反面を持つ一見堅牢なその実、非常に壊れやすい硝子細工のような現実なのかもしれない、

それらは春の空模様のように晴天かと思えばあっという間に鈍(にび)いろの空へと移ろう。
そしてせっかく満開となったばかりの桜の若い花房を打つ冷雨となり、更には打ち続けた花を荒々しく吹き散らす優しげで非情な春風となるのだ。

彩は硝子戸に凭(もた)れかかりながら、小さくそよぐ風に顔周りの髪をなびかせながら空を見上げた。

昨日は晴れ上がった春の花見日和でその雲ひとつ無い明澄な碧空(へきくう)は、ひたすらに健気なまでに碧一色に染め上げられネモフィラの花弁の色を思わせるその春の空にはいくら探せど雲は一片も浮かんではいなかった。

にも関わらず今日は転じて花曇りで今にも泣き出しそうな不安定な春の気候を如何にも露(あらわ)にしていた。

『桜雨(さくらあめ)が降るかも…』

と独りごちると彩はベランダへ出た。ビューティフルワールドの跡地に建つあのマンションの周りほどではないものの、彩の住むマンションの周囲も見事に満開の桜並木に囲まれていた。

『あそこはマンションの周りもだけど、敷地内にまで桜がたくさん植樹されていたわ…
そりゃあ春は花盛りで綺麗よね…
でもそんなことするくらいなら、あの森の木をもう少し残して上げて欲しかったわ、
華々しい木だけが何も植物じゃないのに、あれじゃビューティフルワールドの森が可愛そう…』

彩はベランダの手摺りに凭れた腕の上へ顔を伏せて小さくそう呟いた。するとその彩のすぐ身近に聴き覚えのある独特の羽音と同時に小さな蜜蜂がまるで蜂鳥(ハミングバード)のように空中をホビングし、静止した状態のまま、彩の鼻先に浮かんでいるのを見て、
彼女の黒目は思わずニュッと中央へと寄り集まってしまった。

『…きゃっ!?』

と飛び上がりそうになりながらも彩はふとあのビューティフルワールドでの懐かしい記憶が蘇り、

『もしかしたら…』

とその蜂を凝視したが蜜蜂は何事も無かったように彩のベランダから遠い花冷えの空気を切るようにさっくりと円を描いて飛び去っていった。

『なんだ、ただの蜜蜂だったわ、あの蜂さんかとつい期待しそうになってしまったわ私ったら』
と自嘲したあと彩はふいに奇妙なことを思い出してはっとした。
順子は泪に濡れ光る微笑みを彩に向けてこう言った。

『蜜蜂の代わりに今度は私が貴女とエミリーさんとの間のキューピットになって上げるわ』

『変ねえ…蜜蜂って確か順子さんはあの時言ったわ、
でもどうしてそのことを彼女が知ってるのかしら?
私はあのことは順子さんには一言も言ってないのに』

その夜、夕食を済ませたあと彩は順子のスマートフォンへ電話をかけた。

電話の声の順子は不思議なほど懐かしみを感じた。
一緒に過ごしていてもそうだったが電話の声からは旧友と話すかのような郷愁を彩は感じた。

『蜜蜂?私そんなこと言った?』

と順子は困惑した声を出した。

『言ったわはっきりと、
あの時、私は何故だか聴き流してしまって…後から気がついたの、
でも何故順子さんが蜜蜂のキューピットについてのことを知っているんだろう?って』
『いやぁ悪いけど憶えてないわ、だいたい蜜蜂ってなんのこと?』『そう…じゃあ…私が何か勘違いしているだけなのかもしれないわ…
確かにそう聴いた気がしたんだけれど…』

彩は自信がみるみる自分の内で、さながら幼子が握りしめた砂糖菓子のように溶けてしぼんで小さく消失してゆくのを感じて深く落胆した。

『ねぇ、その蜜蜂ってエミリーさんと関係のあること?』
『そうだけど…』
『そうよね、そうに決まってるわよね、』
と言ったあと、須臾 電話の向こうで沈黙が流れた。
『彩さんもし私がそう言ったんだとしたら…』
と順子の声は電話だとむしろ不思議なことにほんの少し高く柔らかく聴こえた。

たまに本物と出逢って話す時と電話を通じた声とが別人のように感じられる人がいるが、どちらかといえば順子もそのタイプだと彩は思った。
本物のほうが低い声が少しだけひび割れていて実際よりも年齢が上に感じる声なのだが、
電話の声だと順子の声は若干高めに響きどことなく艶があって若々しい。
順子の電話だと知っていなければ思わず本人かどうか確かめたくなるような微妙な差異がその声にはあった。

そしてその声で彼女は唐突なことを言った。

『ねえもしかしたら、私を通じてエミリーさんが貴女にそう言ったのかも』

『えっ…』

と言ったきり彩は言葉を失った。
そんな彩に頓着しない様子の順子は今しがた言ったばかりの事柄となんの関係も無さそうな話題へと急に切り換えた。

『ねえ彩さん、
彩さんは多分知らないんじゃないかと思うけど、
あのマンションへ向かう道すがらにごく小さな個人でやってるギャラリーがあるの、
そこはギャラリーなんだけど同時に喫茶店でもあって…
最近は店のメインは喫茶業にシフトしつつあるようなんだけど…
以前は店のウィンドウにビリー・ダルトンの絵を飾っていたのよ』
『ダルトンの絵を?』
とりあえず彩は反応することにした。
『ええ、少女時代のエミリーさんが…
ほら、あの…
ああなんて言ったかしら?
大きくて見るからに悧巧そうな、
どこか凛々しいような、
雄々しいような…そんな猫…』
『ロイね?
ロイはビューティフル・ワールドの賢者でエミリーを守る貴公子よ』
彩は誇らしげにエミリーの大切なロイのことを語った。
『ああそう、
ロイくんだったわね、
賢者ってのはなんだか解る感じがするけれど…
私には貴公子というよりも見るからに勇ましげでなんだか野武士みたいにも見えたんだけど…。

でもエミリーさんにとっては本当にあの猫ちゃんは人とか動物とかいう種を越えた誇りだったようね
そう言って紹介してくれたのを覚えているわ、
無愛想な猫ちゃんだったけど、
エミリーさんが人間でもこんなに頭のいい聡明な、
そして心の広い子はなかなかいないって言っていたのがとても印象的だったの、
普段は物静かだけど…
瞳に鋭いほどの知性や意志の強さを感じる猫ちゃんで…
確かにあんな雰囲気をもつ猫って私、他に見たことがないわ、
エミリーさんが自慢するだけのことがあるのも解る気がした…
それとそのダルトンの絵なんだけど…
そのロイくんを抱いてまだ幼いエミリーさんがうつむき加減の横顔で描かれた…
どこか憂いを秘めた絵なのね、
とっても素敵な絵なのよ、
私、エミリーさんと出逢って何年後かにあの店を偶然知って…
だから今でも時々私、
そこへ行くのよ』

彩の脳裏にあの森へさながら誘(いざな)われるように二度目に偶然訪れた不思議な夜のことが思い浮かんだ。
タクシーに乗りながら彼女は雨露(うろ)に滲む街を眺めていた。

眼窩の奥まで突き刺すような刺激性を持つ赫が彩を不安で取り囲み、
彼女は自分というちっぽけな女が街のごみ屑や病葉(わくらば)と共に車道と遊歩道との境目にある僅かな隙間に黒い口をぽっかりと開ける排水口の奥深くへと自分を乗せた車ごと液体化して流れてゆき、やがて昏い暗渠(あんきょ)の底で病葉と共に泥々になって消えて無くなればどんなに清々(せいせい)するだろうと夢想したものだった。

突き刺すような閃光を放つ、
都会を彩るネオンサインの数々、

そして苛烈な電光石火の如くどんどん流れ去り明滅するように消えてはまた新たに現れ、過ぎ去ってはまた現れて際限の無い無数の車のヘッドライトやテイルランプの濁流。

それらは彩の奥深く見えないメスのようにそっと彩の心身を切り裂くようで彼女は声こそ上げないものの、居たたまれない強い恐怖感の中に居た。

それは時に工事現場を囲う眩しいような朱赤のセーフティコーンであったり、その先端に明滅する蛍光緑であったり、
街に閃く極彩色であると同時に単純な色調にのみ限られている人工灯の数々は見ているだけで叫び出したくなるほどの苦痛を伴い、
彩にとってそれらはまるで内側から押し潰されそうな不安の奔流でしかなかった。

その隙間、流れる車窓からほんの一瞬、通り過ぎた一幅の鎮静、
あれはなんだったのだろう?

”でも憶えている、憶えているわ
”と彩は心の中で思わず囁いた。
古いごくささやかな画廊とおぼしき建物の傍をタクシーが疾走するその一瞬、あの絵が私の苦痛を和らげた。

『いい絵だわ』
”あの時、私はそう思った。

菫(すみれ)いろのドレスを着た幼い少女が象牙いろの編み上げのブーツの両脚を草地の上へ投げ出すようにして座り、その少女の両足の間に座ってさながら少女を守ろうとするかのように外側を向き、凛然とした強い視線を放つ大柄な毛足の長い猫、
ああ…何故今まであのことを忘れていたのかしら、
私はエミリーと出逢う以前に既に彼女と出逢っていたんだわ、
エミリーの愛する父が描いた彼女の肖像画を通して私はあの時、
もう既にエミリーに呼ばれていたに違いない”

『…彩さん?大丈夫?』

『ああ、ええ…ごめんなさい』
『急に黙り込んでしまうから…
どうかした?』
『私、厳密にそこの住所は知らないんだけど…見たことあるわ、
そのお店、
タクシーの中から通りすがりにちらっとなんだけどその絵も見たわ』
『そうなの?
でもそれはもう相当、前のことでしょう?
だってあの絵はもうあそこにはとうに無くて他の絵なら少しは中にまだあるけれど、あのウィンドウに在った絵は今では有名な…
なんとかって美術評論家が買い取ってしまったって話よ、』
『えっ…今はもう無いっていうの?』
『ええ五年くらい前まではあったんだけど…ねえ彩さんがその絵を見たのっていつ?』
『そんなはずないわだって…』

それは去年のことよと言いかかって彩は何故かその言葉を飲み込むと順子に問うた。

『そのお店…ギャラリー?
喫茶店だっけ…
なんていうお店なの?』
『うん…
それが変な名前なのよ、
何か意味はあるらしいんだけど…
店主は笑って教えてくれなかったわ』と順子は苦笑とも笑いともつかない曖昧な声と吐息とで、
小さなさざ波を一瞬起こしたあと急に鎮か過ぎる口調でこう言った。

『401号室っていうの』

『何ですって?』

彩は急に背筋に氷水を浴びせられたような思いに思わず大きく身震いをした。

『だから”ヨンマルイチゴーシツ”よ、変な名前でしょう?
まぁお陰で覚えやすいんだけどね、私はドライブがてら偶然6年くらい前に見つけて時々行くことがあるの、
だってエミリーさんの肖像画が中に他にも数点有るのよ、あそこへ行けば…
エミリーさんとまた逢える…
そんな気がして…』

『……』

401号室は職場の絵画の保管室代わりとして使われているあの小部屋のことではなかったというのか?
彩は冷や汗が瞬時に浮かんだ手のひらを見て通り魔に襲われた後のように恐怖に全身が凍りつき頭の芯がショートしそうになるのを感じて思わずそのままベッドへ横たわって瞳を閉じた。

まるでそうすれば自分を襲うこの不可解という不安の嵐が過ぎ去ってくれるとでもいうかのように。
しかし電話の向こうで順子の言葉は続いた。

『でも残念ながらあのウィンドウにあった絵はとても有名な初期の作品らしいんだけどもうあそこには無いのよ、
だから彩さんきっとエミリーさんと出逢う前に偶然見たんじゃないかしら』

『……』

彩は目を閉じたまま順子には聴こえないようにそっとまるで溺れたような息継ぎをした。

『それとあの絵を是非にと買っていった美術評論家も時々ではあるらしいけどあそこを訪れることが今もあるらしいわ、
エミリーさんのお墓参りの帰りだとかいって』

『エミリーの??
お墓なんてあるの?』

と彩はまるで半死半生のような苦しみを一辺に忘れていきなりベッドから立ち上がって言った。

『無いのよそれが…
無いからおかしいって言われているの、無いのにどうしてお墓参りだなんて言うのかって、
エミリーさんは彼女自身の遺言で自然葬にされたらしくて…
でもその自然葬をした場所が一体どこなのか…

…誰も知らないの』

順子の異様なほど落ち着き払ったように聴こえる声は不思議とどこか索然と彩の耳には響いた。

『でもそこの店の店主夫妻はダルトン一家とエミリーが幼い頃から交流があったらしくて…
いつかふっとこう言っていたわ、その評論家がエミリーの最期を看取った人だと言われているから、ビューティフルワールドを受け継いで暫くは維持もしていたことだし自然葬とはいえエミリーの遺灰を葬った人は彼以外考えられないんじゃないかって』

彩はその順子の会話にどこか日本人として耳慣れぬ奇妙な言葉を聴いた気がして思わずこう問うていた。

『遺灰?
遺骨でしょう?』

『それが遺骨ではなくて遺灰だったそうなの、』

『何故そんなことまで』
と彩は慄然とした。

『ねえ彩さん今、お仕事お休みしているって確か言ってたわよね?私、今最近になってようやくナース業に復帰したんだけど…
まだ週に三度だけの夜勤なの、
明日は夜勤だけどあさってなら午後から時間があるから…
ちょっぴり遅くなるけど、
三時くらいにそこへ一緒に行ってみない?』
『そこって…』
と彩は渇いた唇の端を小さく猫のように舐めると固唾を飲んで尋ね返した。

『ヨンマルイチゴーシツ?』

『そう、401号室よ』

と答えた順子の声はさっきまでのどこかあくまでも他人事として淡々と語る口調ではなくそれまでは彩の心身を案ずるがゆえに順子自身が我が身に敢えて律していた冷静さであったのだと気づかせるような熱意に満ちていた。

『これは…なんとなく私の勘なんだけど…そこへ行けば…
彩さんはエミリーさんと逢える大切な鍵を見つけられそうな気がするの』

『鍵を?』

『ええ、それはきっとあの森へ、エミリーさんへと続く扉を開けるたった一つの鍵なのかも…』

その夜、興奮してなかなか寝つけない彩はやむを得ず睡眠導入剤を飲んでからベッドへ入った。

白河夜舟となった夢現(ゆめうつつ)の狭間で彩は昏いモノトーンの森の中を独り彷徨い歩いていた。

するとモノトーンの世界でくっきりと浮かび上がるような黄金(きん)
いろの蜜蜂が小さなモーター音のような唸りの羽音を立てながら彩の目の前をゆっくりと薄黄金いろの螺旋の余韻を残しながら通り過ぎた。

蜂の後ろ脚にはあの純金と見間ごうばかりの目映(まばゆ)い花粉のブーツがついていた。

思わず蜂の行方を追って振り返った彩の目前に、
巨大な森と空を含む鏡が在った。

そしてその鏡の中には鏡が在り、その中には更なる鏡が、
と終わりの無い鏡像の回廊が果てしなく続いていた。

黄金(きん)いろの蜜蜂はその中を真っ直ぐに飛び込んでゆくと、
鏡の回廊の空気中に純金の綺羅めきの残像と波紋のような軌跡を残しつつそのその目映い姿を鏡の遠い秘奥へと消し去った。

彩は蜜蜂が消えた後もその輝くばかりの姿が残す余韻に暫く眩惑されて佇立したまま、鏡像の奥に連面と谺(こだま)の如く続く回廊の奥を見つめ続けた。

にも関わらずそこに彩の姿はまるで当然の如く陰すら映らない。

『…彩』

その鏡の遥か彼方で懐かしいあのあどけなさの残る声が響いた。

『アデル?その声はアデルね』

『彩、言ったでしょう?
エミリーの記憶の修正が出来るのは今や貴女以外他には居ないわ、あの森にはエミリーと私と…
そしてもう一人いるのよ、』

『もう一人…』

彩は鏡の奥の鏡を見つめたままただ呆然と立ち尽くしていた。
しかしアデルの声は続く。

『キャサリンよ、
ケイティと普段は名乗っている、彼女がいるからエミリーの誤った記憶が彼女を罪の意識で未だ苦しめているの、
でも彼女は罪を犯していない、
貴女だって見たはずよ、
ケイティの姿を、』

『……』

白いタフタのドレスを着て淡いピンクのテディベアを抱いた森奥に立つ少女の姿が彩の脳裡に蘇った。
彼女の純白のドレスはやがて黒衣となり、ブロンドの髪も漆黒と化した。
そしてその瞳は紛れもなくエミリーに酷似したオッドアイだった。そのオッドアイから血の泪を流しながら見知らぬ少女はこう言った。
『私があの人を殺してパパ達がここへ埋めたの、
だからあの人は薔薇の花園で眠っているわ、
お願いよ、誰にも言わないで、
このことは絶対秘密よ、
だって私、そんな積もりは無かったの、
秘密よ、秘密にしてね、
誰にも決して言っては駄目、
でも、もし言ったら…』

そして少女はこうも言った。

『ただ愛されたかっただけなの、貴女は私を愛してくれる?
私の彩、大好きよ』

血の泪を山梔子(くちなし)の花の如く白い貌に溢れ、伝い落としながら『私は貴女をずっと待っていたのよ、何年も何年も気が遠くなるほどに』

彩はその濡れた土嚢(土のう)のような異様な重さを伴い覆いかぶさってくる幻影を振り払うように眼を固く閉じると彩は自分で自分に言い聴かせた。

『エミリーとよく似た瞳をして私を惑わそうたってそうはいかないわ、彼女は絶対エミリーじゃない!』

あの花野原に横たわりながら泪に煌めく瞳を向けて叫ぶように言い放ったエミリーの言葉が眩しい場所で急に瞳を閉じた後に瞼の裏の杏いろの世界にじんわりと現れる残像の如く彩の中に永く残り続けていたのだ。
その残像のエミリーはこう言っていた。

『私は誰も殺めたりなどしていないわ、彩こそ私を信じてなどいないじゃないの!!』

姿の見えないアデルに向かって彩は尋ねた。

『ねえアデル、
罪って一体なんのことを言っているの?
どういう罪なの?』

そして彩は今もっとも関心のあることを恐怖と苦しみの最中(さなか)にあっても気丈に問うた。

『その罪は…
ではエミリーではなくケイティのせいなのね?』

『違うわ、
ケイティはただの子供でしかない、

でも彼女は重要な鍵となる人物よ、エミリーのことはただ周りがそう思い込んでしまったの、
彼女のせいだとね
すべてをエミリーのせいだと思い込んでしまったから…
それがすべての間違いのもとだったのよ、
…エミリーはむしろ被害者に過ぎない』
『一体なんのこと?
ねえアデル、貴女私に何が言いたいの??』
と彩は眼を閉じたまま混乱して言った。
『彩、貴女は最初あの少女を見て私だと思い込んでしまったのね?
でもあれは私じゃないわ、
…ケイティを探して、彩、
そしてエミリーが掛け間違えたままの記憶のボタンを、』
とアデルの声は一呼吸置いてからまるで今にも泣き出しそうな声色と化してこう叫んだ。

『…貴女なら直せるわ!』

そして鏡の回廊の奥で啜り泣いたあとアデルは更にこう言いつのった。

『それが出来たら…』

『…出来たら?』

今度の彩は眼を閉じたまま我ながら驚くほど冷静に尋ねた。

アデルの声は続く。

『彼女は私達のところへ来れるわ、やっと一緒になれるのよ
私達家族も猫達も、
やっと家族で一つになれるのよ!』

『…一つに?』

『彩!お願いよ!
エミリーを助けて!
彼女はもう今は無いあの永遠の闇夜に閉ざされた森に独りぽっちで今も尚、縛られたまま、

でも彼女の記憶を正せば彼女は恐ろしい罪の意識などから開放されて私達のところへ真っ直ぐ来ることが出来る!

ビューティフルワールドではないビューティフルワールドへ!

私の姉さんを!
私のエミリーを!
彩、お願いよ、

みんな待っているの、
エミリーが来るのを待っているのよ、
だからお願い、彩、
ケイティを探して!
エミリーの記憶の修正は彩、
もう貴女にしか出来ない!』

次の瞬間、彩は自分の意思とは反対に瞳を切り裂かれるようにはっきりと見開いていた。

アデルは鏡の回廊の遥か彼方に立っていた。

踝(くるぶし)がはっきりと出る丈の黄金(きん)いろに輝くまばゆいばかりのドレスを身に纏い、
その白墨のように白く小さな貌を取り巻く豊かな髪もまたドレスの裾と同じようにさながら揺れて棚引き、
そして渦巻く風の中の砂金のように空気中に淡く煙り、
アデルは今にも風に吹きさらわれて黄金いろの蜃気楼と化して消えてしまいそうだ。

そのひたすらに黄金(きん)いろに染め上げられた幻の中で両目だけが酷く碧いアデルは両手にまるで捧げ持つように一輪の萎れかけた緋色の薔薇を握りしめて立っていた。

彩の脳裡にその薔薇を見て、
あの美世子の亡骸が発見されたという場の石碑の上にあった、瀕死という言葉が当て嵌まりそうな枯れかけた薔薇の貧しい花束がふと思い浮かんだ。

『you・can・go』

アデルはそう言って持っていた薔薇を彩に向かって投げた。

薔薇は鏡の果てしの無い回廊をゆっくりとスローモーションで超えて急に彩の足元へ落ちた。 

そっと彩がそれを拾い上げた途端、
薔薇は萎れかけていたその生気を吹き返したかのようにたちまち彩の手の中で蘇り、生き生きと咲き零(こぼ)れ、
モノトーンの世界の中でそれはいかにも赫かった。

どんな生きるものの血よりも赫い、
どんな赤よりも駿烈に赫い、

純血より赫い、

情婦より赫い

あの娘(こ)のルージュより赫い

吐瀉物より赫い

好きより赫い、嫌いより赫い、

邪(よこしま)より赫い、

善良より赫い、

秘密より赫い、

雪より赫い、新緑より赫い

そして赤よりも赫い

…と彩が思った途端、その薔薇は小さな小さな羽虫か尺取り虫と化し、やがてそれはよく見ると幼虫とよく似た見知らぬ全裸の女の姿となった。

そしてそれは彩の手のひらの上で身をよじり、
揚げ句、彩を見上げて絹を裂くような、
どうしようもない、
とりとめのない、

それでいて火を見るより明らかなあの”煉獄”(れんごく)の悲鳴をこの地上をつら抜くように上げた。

急に溺れていた者が狂おしい息を吹き返すようにして次の瞬間、
雷に打たれたような激しい衝撃とその一瞬にして過ぎ去った激痛と共にベッドの上で彩はさながら鞭打たれたように目覚め、
発作的に跳ね起きた。

そして激しく胸と肩とを波打たせていたが、やがて彩は自分で自分を抱きしめながら必死で呼吸と意識を建て直そうと努めた。

彩はベッドの上に座ったまま、
しばらくは泣き咽ぶ時に身を任せていたが、ふと自分が何か固いものを握りしめていることに気づいて右の手のひらをそっと開いた。

そこには彩の汗に濡れ光るあの一つだけの懐かしい琥珀のイヤリングがあった。

彩は琥珀のイヤリングを握りしめて息も絶え絶えにこう囁いていた。

『エミリーじゃない、
アデルじゃない、
…ケイティでもない?
だとしたら…
…じゃああれは一体誰??』





to be continued…

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