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小説「文鳥ですが守ります!」

 アリス・ウイスランドは、白銀の髪に緑の瞳をした十六歳の男爵令嬢だ。

 ――つい、十八分前までは。


 爽やかな風が木々の葉をそよそよと揺らす夏の日。

王宮内の後宮の一室に置かれたマホガニーのテーブルの上にのる、手のひらサイズの真っ白な文鳥。

 これが現在のアリスの姿である。

「アリス・ウイスランド。まずは、あなたの勇気ある決断を称えます。そして、これからのあなたの任務が滞りなく遂行されることを、心から祈っています」

 しっとりとした声でそう話し出したのは、この国の十一番目の側室のビクトリアだ。

ビクトリアは、ブルネットの髪をさっぱりと結い上げ、猫足の椅子に優雅に腰掛けている。

ビクトリアの後ろに立つ白い顎髭を生やした老人は、アリスに文鳥の魔法をかけた魔法使いだ。この魔法使いは、ビクトリアの親戚の古い友人だそうである。 

 アリスを見るビクトリアの目がつっと細められた。

「さて、あなたはこれから文鳥として、わたくしの一人息子であるレイモンド王子と常に行動をともにしてもらいます。以前にも話しましたが、決まりごとは二つ。一つ目は、レイモンドが王立学園に入学するまで守ること。そして二つ目は、自分が人間であると自ら告げないこと。とくに、これを破るとあなたにかけられた魔法に作用して」

 そこで言葉を切ると、ビクトリアは艶やかな唇を少し歪めた。

「人間には戻れなくなります」

アリスは真っ白な羽で覆われた体をぶるりと震わすと、薄紅色のくちばしをきゅっと閉じた。

 つまり、一生、文鳥のままだということだ。

 さんざん説明され、納得済みとはいえ、恐ろしくないといえば噓になる。

なにより、人間の身で聞いていたのと、文鳥になってからでは、言葉の重みが全く違う。

 でも、もうあとには引けない。

 すべては浪費家の両親から、たった一人の弟を救うためだ。

弟を王立学園に通わすには、お金が必要なのだ。

アリスは一歳年下の優しい弟を思い、不安を消すかのように首を振った。


 ビクトリアの息子であるレイモンド王子は六歳。

 そして、王立学園への入学は十五歳。

 つまりこれから九年間、アリスの人生はレイモンドとともにあるということだ。


「お任せください、ビクトリア様。わたくし、アリス・ウイスランドはレイモンド王子を――」

 そこでアリスは小さな白い首をきゅっと上げ

「文鳥ですが守ります!」

 きっぱりと決めたはずのその声は、人間だったときのアリスより若干ピーピーとしたかわいらしいものへと変わっていた。


 ◆


 言うは易く行うは難し。


 アリスの目の前には、この国の王と同じ金色の髪をした少年がいた。

レイモンド王子である。

 レイモンドは、これまた王と同じ海の青より濃い瞳を持ち、見るからに利発そうな顔だちだが、その表情は明らかに不満気だ。

「……母上、正気ですか? こののんきそうな顔をした文鳥をいつも肩にのせていろと?」

 魔法使いと入れ替わるように部屋にやって来たレイモンドは、座っていた猫足の椅子から下りると小さな肩を怒らせた。

 アリスは、怒るレイモンドの顔を畏敬の念を持ち見ていた。

 まだ六歳だというのに、レイモンド王子は美しかった。

 眉や鼻や口までも、あるべきものが理想の形できっちりと配置されており、この年ですでにその美は完成していると言えた。

 ただ、初対面の文鳥に向かって「のんきそうな顔」と言ってしまうのは、いかがなものかと思うが。


「レイモンド、お聞きなさい。この文鳥は、あなたに幸せを呼ぶ鳥なのです」

「文鳥が幸せを呼ぶ?」

 冷たい声とともに、レイモンドは六歳とは思えないシニカルな笑いをビクトリアに向けた。

「幸福を呼ぶ鳥として有名なのは、東の国に生息するツルです。ツルは長生きの象徴であるそうで、長生き=幸せといった観点から、幸福と結びつけられたのではないかという話です。また、夜行性のフクロウも、暗い夜でも見通しが利くといった特性から、運が開ける意味があるとか。また、実在はしませんが、かの国には鳳凰と呼ばれる色とりどりの架空の鳥がいるそうです。世に平和と安寧をもたらせてくれると言われているそうですよ」

 そこまで一気に話したレイモンドが、賢そうな青い瞳をキッとアリスに向けてきた。

「お言葉ですが母上。こんな、のんきそうなあほ面した小さな鳥に、どれだけの幸運を呼ぶ力があるというのですか」


 のんきだけでなく、あほ面。

 きれいな顔をしたこの王子様は、全世界の文鳥愛好家を敵に回すようなセリフをすらすらと言い放ちましたよ。


「レイモンドったら、また小難しいことを言って。いいこと、ともかく王立学園に入学するまでの間、あなたはこの文鳥を肩にのせて生活をするのです」

「! そんなことをしたら、まるでぼくがのんきそうであほ面した変人みたいじゃないですか」

「それが狙いです」


 互いに一歩も引かない母と息子の応酬を、アリスは机にのったまま小さな首を右と左に振りながら見守る。


「お聞きなさい、レイモンド。あなたは、辛辣でしかも頭もいい」

「ありがとうございます」

「褒めてはいません。たしかにあなたは同じ年の子どもと比べると読書量も多く、知的好奇心も旺盛なため、多くの知識があるのでしょう。でも、それを今のようにひけらかすのは、ここでは命取りになります。たとえば、あなたがどこかの商人の息子であれば、その知恵や知識は店を盛り立てるのに役立ったでしょう。しかし、あなたがいるのはここ、後宮です」


 ビクトリアが人差し指を床に向け二度差した。


「あなたは、この国の王の二十九番目の子どもとして生まれました。あなたやわたくしにその気がなくても、なにかのきっかけで担ぎ出されてしまうことがあるのです」

「二十八人ものきょうだいを越え、ぼくを王に、ということですか」

 ビクトリアが頷くと、レイモンドはばかばかしいとばかりに鼻を鳴らした。

この国は、男女関係なく王位に就くことができるので、レイモンドが言うとおり、彼が王になるには、上にいる二十八人を抜かなくてはならない。

五人、六人ならまだしも、さすがに二十八人抜きはないんじゃないかとアリスも思うけれど、過去にあった疫病を思うと、決してなくはない話とも言える。


「レイモンド、これは確率の問題ではなく、立場の問題です。立場が人を思わぬ方向へと動かしていくのです。幸い、わたくしたちの心は一致しています。あなたにもわたくしにもそんな野心はありません。では、どうするのか?」

 その先を聞きたいといったレイモンドが、聡明な眼差しをビクトリアへと向けた。

「攻撃は最大の防御という言葉を知っていますか?」

「はい」

ビクトリアが満足げに微笑む。

「自分の意志とは異なる状況に陥らないために、わたくしは攻めることにしたのですよ」

「それと、この文鳥がどう関係するのですか?」

「先ほどあなたは、文鳥を肩にのせるなんて、変人だと思われると言いましたね」

「言いました」

 ビクトリアが頷く。

「変人になるのです、レイモンド!」

「…………」

 レイモンドがぽかんと口を開けた。

 ビクトリアがコホンと咳をする。

「少し違いましたね。変人になるのではなく、変人を装うのです。とはいえ、あなたにそんな人物を演じろと言ってもなかなか難しいでしょうし、継続するとなるとさらに厳しいでしょう。けれど、あなたが肩にいつも文鳥をのせていたら……。あら不思議、それだけであなたは変わり者だと思われます。そんな変わり者を、わざわざ二十八人ものきょうだいを潰して王位に就けようなんて考える人はいなくなるのです。つまり、この小さな文鳥が、あなたを自分の私利私欲のために担ぎ出そうとする、わけのわからない外野の思惑から守ってくれるというわけです。これを思いついたときのわたくしを、わたくしは褒めてあげたい!」


 椅子から立ち上がったビクトリアが、本棚から一冊の絵本を取り戻って来た。

他国の童話だ。

 青い鳥を探して歩くきょうだいの物語である。

 有名な本なのでアリスも読んだことはあるが、あの物語からなにがどうなって、レイモンドの肩に文鳥をのせる発想に至ったのかは不明である。


「でも、母上。ぼくは人々から変人だと思われるのは嫌です」

「周りの評価がなんだというのですか。宝石は、たとえ泥の中にあっても、その価値を変えたりしません」


 ビクトリアの言葉にレイモンドが息を呑む。

 賢い息子は、そこに母の本気を見たのだろう。

 王立学園は全寮制だ。警備も厳しく、後宮よりも安全だとビクトリアは言う。

 後宮には側室の数だけ宮と呼ばれる別棟がある。その中でビクトリアの宮は明らかに一番小さく質素だ。

 そんな待遇でありながらも、自分のままで生きられないレイモンドをアリスは不憫に思う。と同時に、そこまで息子を想う母親の存在が羨ましくもあった。

 すべてはレイモンドをこの後宮で生き延びさせ、無事、王立学園へ入学させるためである。

 ビクトリアの想いは、弟を持つアリスも共感できる部分であった。


 さて、この王子はどうするだろう?

 それでも、変人の真似などできないと言うのか。

 それとも?


 レイモンドは溜息を吐くと、出窓のそばまで歩き外を見下ろした。

 彼の視線の先が気になったアリスは、パタパタと飛び出窓の床板へと着地する。

 窓からは後宮の小さな庭が見えた。

 庭では、レイモンドと母違いの姉と兄が毬で遊んでいる。

 彼らは九番目の側室の子どもたちで、レイモンドよりも年は一つ二つ上だ。

 二十九人いる王の子の中で、レイモンドを含めたこの三人の年が近い。

 姉兄きょうだいは、すらりとしたレイモンドとは違いコロコロとしていた。

 姉の名はデリア。兄はローガン。


 アリスは文鳥になるまでの一週間、この宮の隅でビクトリアから後宮でのしきたりや人間関係、ビクトリアを含めた十一人の側室やその子どもたちの名前や出身、留意すべき点を叩き込まれた。

 側室はその順番により上下関係があるとか。

 宮の場所も、その順番が後になるほど王宮から離れて建つとか。

結果、十一番目のビクトリアの宮は裏門の一番近くである。

「出入り口に近くて便利なのよ」

ビクトリアは明るくそう話したが、それが本心なのかはわからない。

 そして、後宮での生活の中での目下の一番の面倒ごとが、九番目の側室と姉兄きょうだいだそうだ。

 側室だけでなく姉兄も、ビクトリアやレイモンドに難癖をつけてくるらしい。

 表立った大きな被害はないが、面倒だとビクトリアはぼやいていた。


 レイモンドが窓から視線をビクトリアへと戻す。

「わかりました。ぼくは変人を装うためにこの文鳥を肩にのせていればいいのですね」

「そうです」

 ビクトリアの笑顔にアリスもほっとした。

 これからいよいよ、レイモンド王子を守るアリスの生活が始まる。


「しかし、心配事があります」

 レイモンドの困ったような声に、アリスも耳を傾ける。

「なにかしら、レイモンド」

「フンをされると困ります」

 王子の発言にアリスは赤面した。

 ビクトリアが心配そうな眼差しをアリスに向けたので、慌てて首をぶんぶんと振る。


「…………大丈夫です。彼女はそんなことはいたしません」

「彼女、ということはこの文鳥は女性なのですね。名はあるのですか?」

「それは直接お聞きなさい」

 レイモンドの青い目が大きく開かれる。

「この文鳥は、話せるのですか?」

「そうです、レイモンド。大切なことを言い忘れていましたね。この文鳥は、あなたのために国中駆け回り見つけた、とても賢い文鳥なのです。彼女は人の知能と心を持ち、人の言葉を話すのです」

「文鳥なのに人の知能?」

 レイモンドの青い瞳が意地悪に輝きアリスを見据えた。

 その瞳にアリスは、びくりとした。


「文鳥よ、円周率を答えよ」

「…………」

 え、えんしゅう??

 聞いたこともない言葉に、アリスは言葉に詰まった。

 しばらくの沈黙のあと、レイモンドの顔にアリスを小ばかにした表情が浮かぶ。

「母上。やはりこれはただの文鳥のようですが?」

 レイモンドを全くうまくやっていける気がしなくなったアリスは、小さな首を垂れた。


 ◆


「おい、鳥。しゃべれ」


 レイモンドの肩にのる生活が始まり三か月が過ぎた。

爽やかな夏は過ぎ、木々の葉が色づく秋が来ていたが、その間アリスは一言も話していない。

けれど、レイモンドはことあるごとに、アリスに「しゃべれ」と命じてくる。

 王子様からの命令に背く自分に、ビクトリアからなにか言葉があるかと思ったが、アリスが話さないことについてビクトリアはなにも言ってこない。だからアリスも、無理に言葉を発する必要もないのだろうと思っている。

 

 ビクトリアはビクトリアで、毎日忙しい。

側室の集まりでの美容情報交換や、寄付活動などで外出も多い。

なので、レイモンドについては、アリスにお任せ状態なのだ。

レイモンドの就寝後、アリスは彼の一日の様子をビクトリアに話すのだが、ビクトリアもアリスに、自分の仕事も含めた裏話をしてきた。

こんな話まで聞いてしまってもいいのかと思うけれど、おかげで、アリスも誰に目を光らせればいいのかわかり、仕事がしやすかった。

「あなた、本当に図太くていい子だわ」

 文鳥になる前、そして今も、ビクトリアはアリスをそう評した。

 なぜだかビクトリアは、アリスをかなり買ってくれているようなのだ。

 

 その図太さで、アリスはレイモンドに対して沈黙を貫いた。

 普通の文鳥を装い、レイモンドとの接し方についてゆっくりと考えていたのだ。

 レイモンドにしても、しゃべらないアリスに対して乱暴な口調で迫ってはくるものの、だからといって羽をむしったり手で握りつぶそうとしたりといった暴力はしてこない。

 そもそも、文鳥が話すはずないと思っているようにも窺えるし、案外優しいのではないかとも思う。


 しかし、円周率について尋ねられたのには驚いた。

 円周率なんて言葉を、アリスは初めて聞いたからだ。

「知らないなら教えてやる。円周率とは、円の――――」

 あのあと、アリスに向かいレイモンドはそう説明を始めたが、ごめんなさい、よくわかりませんの世界だった。


 田舎育ちのアリスは、食べられる草や川や湖での泳ぎ方には明るくても、勉強は苦手だったのだ。

 アリスには円周率がわからないけれど、レイモンドがあれこれ興味を持ち勉強しているといったことはわかった。


 後宮で育つ子どもたちは、王立学園へ入る前までは学校へは通わず家庭教師をつけるのが一般的だ。

 家庭教師から、王族としての心得や教養、そして同年代の子どもたちが学ぶ教科を教わり、王立学園へと進学するのだ。

 他の子たちとの学力に差がないか確かめるため、学校で行われる定期試験だけは一緒に受ける。

 勉強を怠けていると、ばれてしまうのだ。


 一方レイモンドは、ほぼ毎日、図書館や博物館へ行っている。

家庭教師は主に週末のみで、平日は図書館や博物館で開かれる大人向けの勉強会に参加しているのだ。

 行き帰りは騎士が付いた。

 騎士は、勉強会中部屋の外で待っているのだが、アリスはそういうわけにはいかない。仕方なく一緒に話を聞くことになるわけだけれど。


「文鳥、眠いならぼくのポケットに入っていろ」

 賢いレイモンドは、自分の文鳥の眠さにも敏感で。

 そんなわけで、勉強が始まるとアリスはレイモンドのシャツのポケットに入ることが定番となった。


 しかし、文鳥が肩からポケットに移動したからといって、彼が文鳥といることには変わりない。

 むしろ、レイモンド王子は文鳥には非常に親切だと評判にもなり。

 「文鳥王子」の名は図書館や博物館でともに学ぶ大人たちの口により、王宮だけでなく徐々に街中へも広まっていった。

 常に文鳥とともにいるレイモンドの姿は奇妙でありつつ、金髪の少年と真っ白な文鳥はある意味、絵になるかわいらしさもあり。ビクトリアの思惑とはややずれた、どちらかというと好意的で親しみを込めたものとして、知られていったのだ。



 これを聞きつけ、面白くないと感じる人物がいた。


「やい、文鳥王子!」


 九番目の側室の息子のローガンだ。

 ローガンは後宮にある池の近くの木の下で、図書館帰りのレイモンドを待ち伏せしていた。

 本を三冊抱えたレイモンドと、口の周りにチョコレートソースをつけたローガンが、じっとにらみ合う。

 しかし、次の瞬間。

 レイモンドは、ローガンなどまるでいないかのように、そのコロコロとした体の横を通り過ぎた。


「おいっ、待ちやがれ!」

 レイモンドもそうだが、後宮の子どもたちの言葉遣いはあまりいいとはいえない。

 ただ、レイモンドの場合、アリスに話しかけるときだけであるが。

「待てって、言ってんだろう!」

 どこのゴロツキかと思うようなセリフで、ローガンがレイモンドの背中を掴む。

 レイモンドよりも縦も横も大きなローガンの力は強く、掴まれたレイモンドの体が斜めになってしまったので、つられて落ちそうになったアリスは思わず飛んだ。

 そのアリスの目に、ローガンが太い腕でレイモンドから本を次々と奪い、それを池へと投げ捨てる姿が目に入った。


 ローガンが太い体を揺らし笑う横を、レイモンドがすり抜け、池へと入っていく。


 びっくりしたのはアリスだけではない。

 ローガンもレイモンドが本のために池に入るとは思わなかったのか「ぼくのせいじゃないぞ!」と捨てセリフを吐き逃げていった。


 じゃぶじゃぶと、レイモンドが池に落ちた本を二冊拾った。そして、三冊目に手を伸ばそうとしたとき。

 ずるりと足が滑ったのか、レイモンドの姿が消えた。

 しかし、すぐに浮いてきた。

 レイモンドの様子から、足が滑ったのではなく、池の底が深いのだとアリスは思った。


「本を離してください!」

「は?! えっ!」

 ばたつくレイモンドのそばまでパタパタと飛びながらアリスが叫ぶ。

「本は買えます! でも、レイモンド様の命は買えません!」

「!」


 レイモンドが本から手を離す。

 しかし、彼はまだばたついている。


「レイモンド様! 人間は浮きます!」

「はっ?」

「信じてください。仰向けになるんです。いいですか、両手で水をかいて水面に浮くイメージで仰向けになるんです。そうしたら顔と鼻は少しですが水面に出ます」


 レイモンドはアリスの言うとおり、手で水をかくと、顔だけ出し、ようやくといった感じで息をした。


「助けを呼んできます。すぐに戻ります。だから」

 アリスの小さな黒い目とレイモンドの青い目が合う。

「待ってて!」


 そのすぐあと、レイモンドは救出された。

 しかし、季節が悪かった。

 くしゃみがとまらないレイモンドは、その晩、熱も出した。


「本はどうなりました、母上」

「心配しなくてよろしい。弁償させる手配は済ませました」

「ありがとうございます」

 レイモンドはローガンについて一言も言わなかったが、そこはアリスがしっかりと見ていたすべてを報告した。

ローガンは本の弁償だけでなく、図書館への入館も半年間禁止となった。

 ビクトリアが出ていくと、部屋にはアリスとレイモンドだけになった。


「文鳥、いるか?」

 レイモンドに呼ばれ、アリスはパタパタと彼の枕元へと行く。

「助けてくれてありがとう」

「……お守りできず、申し訳ございません」

 はっ、とレイモンドが笑う。

「おまえがいなかったら、ぼくは確実に溺れていた」

「……」

「最悪、命を落としていたかもしれない」

 水の事故は恐ろしく、残酷なまでに瞬時に命を奪っていく。

 たった数センチの水位でも、子どもは溺れてしまうのだ。

「レイモンド様は泳げないのですね」

「……そうだ」

「練習した方がいいと思います」

「そうだな」

 ふと、アリスは考えるように白くて小さな首を傾げた。

「走ることはできますか?」

「あたりまえだ」

「何キロくらい?」

「……キロ?」

「なにかあったとき、しっかりと逃げるためには足腰を鍛える必要があります」

「おまえは、話し出したら途端におしゃべりだな」

 レイモンドが薄い瞼を閉じる。

「わかった。元気になったら、勉強だけでなく体も鍛える」

「それがよろしいかと思います」

 ふっとレイモンドが笑う。

「褒美はなにがいい?」

「……いりません」

「なにか言え」

 アリスの頭に、弟と食べていた懐かしい菓子が浮かぶ。


「でしたら、ジンジャービスケットを」

「そんなものでいいのか」

「好物なのです」

 アリスの答えに満足したのか、すっとレイモンドが黙る。

 眠ったと思い、アリスがベッドから飛び立とうとしたとき。


「そばにいて、文鳥」


 レイモンドのか細い声が聞こえた。

「かしこまりました、レイモンド様」


 思えば彼はまだ六歳なのだ。

 成り立つ会話から、同じくらいの年だと思っていたがうんと年下なのだ。

 そんなことを考えながら、アリスの目もだんだんと閉じてきて。

 ついにはぐっすり眠ってしまった。


 ◆


 それからレイモンドは、勉強だけでなく体も鍛え始めた。寒空の下、黙々と後宮内の敷地をぐるりと走るレイモンドをローガンはバカにした。

 また、東洋の武術も習い始めた。

 それは、剣といった武具がなくても体を守ることができるそうだ。


 運動中はさすがにアリスもレイモンドの肩にのるわけにはいかないので、近くの木の枝にとまり、終わったらすぐに彼のもとへと飛んだ。

 さほど高くなかったレイモンドの肩だったけれど、一年ごとにぐんぐんと高くなり、かわいらしかった声まで低くなっていった。


 レイモンドはアリスへの褒美も忘れなかった。

 一日一枚。

 毎日のお茶の時間に、アリスはジンジャービスケットをついばんだ。


 そして、いつからかレイモンドは魔法学にも興味を抱くようになった。

 そのためアリスも毎週のように、自分を文鳥にした白髭の魔法使いと顔を合わすことになったのだが、途中から魔法学の授業の間だけはアリスは同席しないことになった。


 周期的に「実はレイモンド王子は聡明なのではないか」といった噂が流れたが、そのたびに文鳥に親し気に話しかけるレイモンドの行いがどこからともなく流れ。

「やっぱりレイモンドは、文鳥にしか興味のない欠陥王子だ」といった評価でその噂は消された。

 幼い頃はかわいらしいと評判だった、レイモンドの文鳥を肩にのせた姿も、年を重ねるごとにかわいいではすまないだろうといった声が当然のように多くあがった。

 こうして、ビクトリアの考えた文鳥計画は着々と進んでいったのだ。



 健やかに月日は流れ――。

 レイモンドは十五歳に。

 そして、いよいよ王立学園の入学試験を明日に迎えた。


 後宮からの受験者は、レイモンドだけだったはずだが。

「おい、試験になにが出るか教えろ」

 昨年、試験に落ちたローガンが、朝一番で図書館から本を借り戻ってきたレイモンドに声をかけてきた。危機的立場のはずなのに、ローガンの態度は驚くほど横柄である。

 そして、彼はいつかの再現のように、池の近くの木の下に立っていた。

 ただし前回とは季節は異なり冬である。

 ローガンの頬は寒さからか赤くなっている。

 しかし、彼の表情は凶悪で、今度はおまえを池に落としてやると言わんばかりの顔つきだ。

 レイモンドは立ち止まり、ローガンの前に立った。

 すらりと背が伸び、やせ型ながらも体に筋肉がついているレイモンドとは違い、ローガンは背も伸びず体つきもだらしなく肉がついたまま大きくなっていた。

 レイモンドがローガンを見下ろすように立つと、ローガンが顔を顰めた。

「試験に出る問題が知りたければ、ぼくではなく王立学園の試験科に問い合わせをしたらどうだろうか」

「おまえ、バカかっ! そんなの教えてくれるわけないだろう」

「そのとおりだ。そして

、残念ながらぼくも知らない」


 淡々と話すレイモンドの腕をローガンが掴もうとした。

 すると、レイモンドはその腕を軽く躱し、逆にローガンの腕を捻った。


「実践は初めてだが、なかなか役に立つな」

「おまっ! 痛い! 離せっ!」

 騒ぐローガンの腕をレイモンドが離すと、ローガンは憎々し気な顔しつつ、逃げていった。


「彼には進歩がない」

「レイモンド様の成長が著しすぎるのだと思います」

「だとしても、わからないことは、まだまだたくさんある」

「ですから、王立学園に入り、より多くのことを学ぶのですよね」

 珍しくレイモンドが、なにか考えるようなそぶりを見せた。


「王立学園は全寮制だ」

「そうでございますね」

「一年生は二人部屋だそうだ」

「まぁ、お友達ができますね」

「文鳥、おまえはそれでいいのか?」


 そこでアリスはハッとした。

 アリスの役目は王立学園にレイモンドが入学するまでだ。

 もしかして、それをレイモンドは忘れている?

 いやいや、聡明な彼だ。一度聞いたことを忘れるはずがない。

 しかし、思えばその話をしたのは六歳のときだ。

 レイモンドは現在、十五歳。

 忘れたとしても仕方がない。


 それに、もうすぐアリスは人間に戻るのだ。

 現実問題として、今までのようにレイモンドの肩どころか、そばにはいられない。

 人間に戻ったあとのアリスは、少しの休みのあと、ビクトリアの紹介で貴族の家の子守として働くことが決まっていた。


「レイモンド様。お忘れかと思いますが、わたしの役目はレイモンド様が王立学園に入るまででございます」

「……忘れてはいない」

「失礼しました。さすが聡明なレイモンド様です」

「しかし、なにごとにも例外というのがある」


 レイモンドは弁が立つ。このままではいいくるめられてしまうだろう。

 アリスは少し考え、芝居を打つことにした。


「レイモンド様。実はわたくしは高齢でございまして……。すでに、レイモンド様のおそばで九年近く過ごしております。鳥の九年間と言えば、人間でたとえるのなら何年にあたるのでしょうか」

「…………」

「こんな年寄りに、もっと働けだなんて言わないでください」

「…………うそだ」


 レイモンドは、やや潤んだ瞳をアリスに向けた。


「おまえが年寄りなんてうそだ。だっておまえは」

 そこまで言うとレイモンドは口を噤んだ。

「いい。ぼくはぼくで考える」

 そう言うとアリスを置いて、魔法学の授業に行ってしまった。


 少し開いた窓から、アリスは庭を見下ろした。

 初めてレイモンドと会ったとき、彼が見つめる窓の景色が見たくて、ここへと飛んだのだ。

 庭にはローガンとその姉のデリアが遊んでいた。

 あのとき、レイモンドは六歳。

 もしかすると、一緒に遊びたいといった気持ちがあったのかもしれない。

 レイモンドにきょうだいはいない。

 弟がいるアリスにとっては、一人っ子の気持ちは推測するしかできないのだが。 

 一人はさみしいのか。

または、気楽なのか。

たとえば、レイモンドに弟か妹が生まれたのなら、彼ははじめこそ迷惑そうな顔をするかもしれないけれど、きっと面倒見のいい兄になると思われた。

そう言えるほどに、アリスはレイモンドと過ごした。

その美しさから一見ツンとした印象を受けるレイモンドだけれど、彼には秘めた優しさがある。

たとえば、忙しいビクトリアの体調を気遣い、東洋武術の先生から聞いた乾いた布で体をこする健康法を伝えたり、図書館でもビクトリアが好きそうな美容に関する記述のある本を借りてきたりする。

そういった、さりげない優しさを目にするたびに、アリスはレイモンドとビクトリア親子に仕える自分の幸運さと、反面、自分自身の両親に対するふがいなさを感じた。

レイモンドを権力争いから守る。

弟の学費のために始めた仕事ではあったけれど、今は任務以上の思いで、レイモンドを守りたいといった気持ちが強くあった。

 ビクトリアの思惑通り、アリスがレイモンドの肩にのるようになってから、レイモンドを推そうといった声はない。

 後宮でも、レイモンドは完全に除外された空気があり、彼を意識しているのはローガンくらいだ。

 そもそもレイモンドのほかに二十八人も子どもがいるのだ。

それだけの数がいれば、何人か優秀な子はいるだろう。

わざわざ、変わり者の王子を担ぎ出す意味などないのだ。


 そして、明日はいよいよ試験。

 レイモンドが不合格になるはずはないので、春になればアリスの任務は終了だ。

 人間に戻ったアリスの体は、文鳥になった十六歳のままだと聞いている。文鳥の間は、人としての成長が止まってしまうらしい。


 思えばなかなかに楽しい文鳥生活だった。

 雨の日も風の日も、晴れの日も雪の日も。

 とにかくレイモンドの肩にしがみついていた。

 もしかすると、人間に戻ったときに足の指の力が増しているかもしれない。

 くすっと笑うアリスだが、やはり淋しさもある。


 レイモンドは、いい子だった。

 レイモンドのそばにいて楽しかった。

 そっけない物言いの中に、いたわりがあった。


 いい仕事だった。


 今までを振り返り、じーんとしながら窓辺に立つアリスの目に、庭になにかが落ちているのが見えた。

 むむむと思い、焦点を合わす。

 なんと、あれはジンジャービスケットだ。

 丸くてややぼったりとした、いつもレイモンドがアリスに買ってきてくれるジンジャービスケットが庭に落ちているではないか。

 アリスは窓の隙間をくぐり、パタパタと飛ぶと、注意深く周りを見た。

 誰もいない。

 ビスケットのそばをちゅんちゅんちゅんと周り、罠も仕掛けもないのを確認する。

 大好きなビスケットが落ちている。

 ツンツンと試しにビスケットをつつくアリスはいつもの味に笑みを浮かべ、続けてツンツツンとつついた。

 おいしい……けど。あれれ?

 アリスは急に眠くなってきた。

そして、真っ暗な世界へと落ちていった。


 ◆


 誰かがアリスを優しくなでている。


 この手には覚えがある。

 初めは小さかった手が、だんだんと大きくなって。


「……レイモンド王子?」


 とろんとした目でアリスがその人を探すと、目を丸くしたレイモンドと目が合った。


「おまえは、やっぱり文鳥か――あっ」

 チッと声を上げたあと、レイモンドがアリスを大事そうに両手ですくう。


「ビスケットに目がくらんだな」

「わたし……? 寝ていましたか? どれくらい?」

「まる二日寝ていた。死んだかと思ったよ」

「……いったいなにが起きたのでしょう?」

「ローガンだ。おまえの好物を調べ、おまえを誘拐し、ぼくを強請ゆすってきた」


 ローガン! あぁ、なんてことだ。

 アリスは体を起こした。


「強請るって? いったい、なにがどうなったんですか?」

「ぼくにローガンの代わりとなり受験しろと言ってきた」

「そんなのできるわけないじゃないですか」

「それができた。あのときうちには、家庭教師の魔法使いがいたんだ」

 そうだ、アリスがジンジャービスケットを見つけたとき、レイモンドは魔法学の授業を受けていたのだ。

「でも、そんな……、どうやって?」

「ローガンの姿となって、試験を受けた」

「だったら、レイモンド様は?」

「受けてない」


 アリスはうなだれる。

 なんてことだ……。


 毎日勉強をしていたレイモンドが王立学園には通えず、怠け者のローガンが入学するなんて。

 悔やんでも悔やみきれない。


 すべては、アリスの責任だ。

ジンジャービスケットに目がくらんだせいだ。

 ほんの少しの判断の誤りが、コツコツと築いていった九年間をなかったことにしてしまった。

 アリスは、深々と頭を下げる。


「わたし、本日限りでレイモンド様を守るお仕事を辞めさせていただきます」

「はっ?」

「最低です。守るどころか、害を与えました。ビクトリア様に顔向けができません」

「待て、文鳥。話は最後まで聞け」

 いつになく必死なレイモンドの声にアリスは顔を上げた。


「ぼくは、王立学園には入学したくなかったんだ」

「え? でも、だったら、どちらへ?」

「魔法学院だ」

 思いもよらないレイモンドの言葉に、アリスは小さな黒い目をぱちくりさせた。

「……王族の方は、王立学園に入学するのが決まりだとお聞きしていますが」

「そうだ」

「でしたら、レイモンド様も無理なのでは?」

「ぼくは、王族から外されるだろう。そろそろ身代わり受験がばれる頃だ」

 レイモンドの言葉に、アリスは白い羽で覆われた体をぷるぷると震わした。

「待ってください! どうしてレイモンド様がそんな目に? レイモンド様は悪くないです。悪いのは、食い意地のはったわたしと、わたしを攫ってレイモンド様を脅迫したローガン様じゃないですか!」

「誰が悪いとか、そんなことではないんだ。ぼくは、やってはいけないことをやった。しかも、攫われたのはおまえ。文鳥だ。いかなる理由があろうと、鳥のために違反を犯すような人物を、王は王族として認めるわけにはいかない」

淡々と話すレイモンドの話を聞きながら、アリスはうなだれた。

アリスのせいで、レイモンドは王族として間違った行動をとってしまったのだ。

 けれど、そのおかげで王族を外され、王族だったら通えない魔法学院の入学試験を受けることができると言う。

 頭ではわかる。でも――。


「……納得できません」 

「そうか。でも、ぼくにとっては、おまえが誘拐され、ローガンに強請られた出来事は、千載一遇のチャンスだったのだ」


 レイモンドは嬉しそうだが、どうしたってアリスの胸中は複雑だ。

 アリスのミスは、レイモンドの望む未来を切り開くきっかけになったのかもしれないけれど、レイモンドの王子としての未来を奪ってしまったのだ。


 なにが正解なのだろう……。

そして、この状況をビクトリアはどう思っているのだろうか。

 いやいや、たとえ、ビクトリアが許してくれたとしても、アリスの犯したミスを帳消しにすることはできない。

 文鳥を助けるために王族を外されたなんて、前代未聞の事態である。


 アリスは自分の桜色の足をじっと見る。

 春には、人間に戻るはずだった。

 

 アリスはある決意を持ち、短い首をキッと上げた。

「わたしに、これからもレイモンド様を守らせてください」

「おまえはもう、ぼくを守る必要はない」

「そんなこと言わないでください! 役立たずでしたが、これからもレイモンド様のおそばで、なにかお力になるよう、わたし、がんばります! わたしはレイモンド様を、文鳥ですが……文鳥ですが守ります!」

「断る。おまえに守ってもらうなんて、うんざりだ」


 間髪入れずに戻ってきた返事に、アリスはその場でぱたりと倒れた。


「魔法学院は個室なんだ」

「……はい」

「だから、今までどおりこうやって話せる」


 アリスはむくりと起き上がる。


「だったらこれからも、レイモンド様をお守りしてもいいんですか?」

 レイモンドが、顔をくしゃりとさせ笑う。

「だから、守らなくてもいいんだ。もう、おまえに守ってもらう必要はないんだ。いいか、ぼくはもうすぐ王子ではなくなる。ただのレイモンドだ。だから、自分の思うように、自由に生きられるんだよ」

「そう、でした」

 だとしたら、アリスはどんな立場でレイモンドのそばにいればいいのだろ。

「文鳥、これからは一番の親友として、ぼくと一緒にいてほしい」

「親友……ですか? わたしが?」

「そうだ」

 アリスは、こてっと首を傾げる。

「わたし、文鳥なのですがいいのでしょうか?」

「おまえが、文鳥だろうがなんだろうが、ぼくの最愛には変わらないさ」

「サイ……? あぁ、幸い! そういえば、ビクトリア様が文鳥は幸福を呼ぶ鳥だと言っていましたね!」

「微妙にずれているが、まぁいい」

 ぼそりとしたレイモンドの声は、アリスには聞こえなかった。


 ◆


 レイモンドの言うとおり、王室は正式にレイモンド及びビクトリアの処分を決めた。

 後宮からも一週間以内に立ち退かなくてはならなくなった。


その夕方、アリスはビクトリアに呼ばれた。

神妙な面持ちで部屋に向かうと、そこには例の魔法使いもいた。

アリスはいつものようにマホガニーのテーブルにのり、猫足の椅子に腰掛けたビクトリアと向き合った。

「困ったことになったわね」

 ビクトリアの顔はいつになく暗い。

「申し訳ございませんでした! 今回の処分はすべてわたしの責任です」

「あら? レイモンドから聞いてない? あなたにはお礼を言いたいくらいなのに」

「……?」

「だって、わたくし、ここから出たかったのだから」

 ビクトリアのとんでもない発言に、アリスの固く結んでいた薄紅色のくちばしがパクリと開く。

 レイモンドといい、ビクトリアといい。この母子の思考はどうなっているのだ。

「では、お困りになっていることとは?」

「あなたとの契約のことよ」

 ねぇ、とビクトリアが魔法使いに話を振る。

「そうでございます。アリス様との魔法契約は、『レイモンド様が王立学園に入学するまで』となっていまして。レイモンド様が王立学園に進学しなくなった今、その魔法契約がぽかりと宙に浮いた状態になってしまったのです」

 ビクトリアがすまなそうな顔をして、アリスを見つめる。

「いろいろと面倒なことになって申し訳ないけれど、しばらくはレイモンドと一緒にいてちょうだい。なんとかして、あなたを人間に戻す方法を見つけるから」

「……かしこまりました」

「とりあえず引き続き、自分が人間だと告白をしてはダメよ」

「それは、もちろんでございます」

 ふぅ、とビクトリアが溜息を吐く。

「弟さんに会いたかったわよね」

「いえ、人間に戻っても、そう簡単には会えるとは思っていなかったので」

 一歳下の弟は二十四歳になっている。

 そんな弟のところに、十六歳のままの姿で会いに行くことはできない。

 ビクトリアがテーブルにのるアリスに向かい、手のひらを差し出してきた。

初めてのことに戸惑いながらも、アリスはその滑らかな手にちょんとのった。

「アリス・ウイスランド。あなたに感謝を伝えたいと思います」

 ビクトリアの真摯な声に、アリスは背筋をぴっと伸ばした。

「九年前、レイモンドの命を救ってくれてありがとう。そして、九年間、あの子のそばにいてあの子を守ってくれてありがとう」

 ビクトリアが自分の頬をアリスの小さな白い頬にそっとつけた。

「わたくしたちがあなたから幸運を授かったように、あなたにも素敵な未来が訪れますよう、祈っています」

 そんなアリスとビクトリアのやり取りを、白髭の魔法使いがにこにこと見守っていた。


 ◆


 真夜中、いつものようにレイモンドは目を覚ましベッドから体を起こすと、暗い自室を見まわした。

 すると、ベッドの足もとに置いた細長いフットベンチに、透明な一人の少女が体を丸め器用に眠っている姿が目に入った。

 少女に色はない。うっすらとしたほのかな光を放つ白い靄のような、そんな存在なのだ。


 この少女をレイモンドが発見したのは、九年前の六歳のとき。池で溺れかけて熱を出したあの晩だった。

 高熱のため、喉の渇きで目が覚めたレイモンドは、自分の隣で眠るこの少女に度肝を抜かれた。幽霊だと思った。そして、自分は死んだのだと思った。

 死ぬときは走馬灯のように思い出が駆け巡ると聞いていたけれど、レイモンドの頭に浮かんだのは母との思い出ではなく――。

「あいつ、しゃべれたんだ」

 白い文鳥が一生懸命話す姿を思い出したレイモンドは、それがなんだかおかしくてくすくすと笑った。

 翌朝、レイモンドは目を覚ました。

 死んでなどいなかった。

 つまり、あの透明な少女は、高熱故に見た幻視なのだろうと判断した。

 とはいえ、その後もなんとなく気になっていたレイモンドは、元気になってしばらくたったあと、あの夜見た少女について再び考えた。

 そして、少女が幻視なのか幽霊なのかはっきりさせようと意気込んだ。

 結果、少女はいた。

 その晩、少女がいたのは、レイモンドの部屋の床のど真ん中だった。

 レイモンドは大の字で眠る少女を見下ろしたまま数秒考え、その体にそっと触れた。

「!」

 レイモンドは自分のゆびさきと、少女を交互に見た。

「幽霊ではない……」

 少女は透明ではあるが、実体はあった。

「だったら、なんなんだ、これは」

 答えが見つけられないまま、その後も、レイモンドはたびたび夜中に目を覚まし、そのたびに透明な少女を部屋のあちこちで見つけた。

 あるときはベッドのすぐ下の床。

 あるときは、机の上。

 タンスの上で寝ているのを発見したときは、腰が抜けるほど驚いた。

 そして、気が付いた。

 この透明少女が眠る場所は、文鳥と同じでは?

 つまり、この透明な少女は文鳥?

 もしや、なにかしらの魔法も関係している?

 頭の中でいろんなことがどんどんと繋がり、そう仮説を立てたレイモンドだったが、確証は得られなかった。

 誰かに相談したいと思いつつ、自分で解き明かしたいとも思った。

 だから、母に頼み魔法学を習いだした。

 レイモンドの仮説が正しいとわかったのは、ローガンにより攫われた文鳥を助け出したときだ。

 文鳥はジンジャービスケットに入れられた薬により眠らされていた。

 レイモンドは文鳥を自分の部屋に連れて行き、柔らかな布を敷いた籠に入れ自分の枕元へと置いた。

 他の側室の住まいと比べると質素な暮らしぶりではあるが、レイモンドとて王子である。そのベッドもそれなりに大きく、籠の一つや二つ置いたところでなんの問題もないのだ。

 文鳥がレイモンドの目の前で透明な少女へと姿を変えたのはわずかな時間だった。

少女はうっすらと目を開け「レイモンド様」と、文鳥の声で自分の名を呼ぶと、再び姿を文鳥へと変えた。

 その話を、レイモンドは迷わずビクトリアと家庭教師の魔法使いにした。しかし、二人とも表情一つ変えず、レイモンドの見間違いだろうと言い放ち、相手にしてもらえなかった。

 ただ、魔法使いからは「レイモンド様が立派な魔法使いになれば、知りたい謎は解けるでしょう」と言われている。


 レイモンドはベッドから起き上がると、フットベンチへと歩いた。

「文鳥、おまえにはなにが起きているんだい?」

答えは、これからのレイモンドの学びにかかっている。

「おまえが今までぼくを守ってくれていたように、今度はぼくがおまえを守るよ」

 透明な少女に、レイモンドはそう誓った。


 ◆


 さてさて。

 後宮から無事に追い出されたレイモンドとビクトリアは、王都の隅に居を構えた。


「側室手当を貯めていたのよ」

 しっかり者のビクトリアは持ち物もきっちり売り払い、後宮で仕入れた美容関係の知識で化粧品の商売を始めると意気込んでいる。



 そして、レイモンドとアリスは。


「レイモンド様、いいですか。集団生活における第一印象ほど重要なものはなく……」

「はいはい。おまえは、ここに入ってろ」

 ぴかぴかの魔法学院の制服に身を包んだレイモンドが、彼の上着のポケットを指す。

「嫌でございます。わたしの場所は、ここです」

 アリスがレイモンドの魔法マントの肩にちょんとのると、レイモンドはふっと笑った。

「では、行くぞ」

「はい!」


 アリスを肩にのせたレイモンドが、荘厳な魔法学院の門をくぐった。

 堂々とした足取りで、レイモンドはぐんぐんと歩きだす。

そんなレイモンドの姿を、アリスは自分のことのように誇らしく思った。

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