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7歳から20歳になりました〜13年前の記憶について〜

はじめに

 私は福島県いわき市出身で、今は東京で大学生やってます。
 昨日(3/10)再放送されたNHKスペシャル『原発メルトダウン 危機の88時間』(2016)を観ていたら、その後にNHK仙台『あの日何をしていましたか?』の放送がありました。(今もエピソードを募集してるのかな)
 なんか、その番組/掲示板が印象に残って。
 「そうだ、私も覚えているうちに書いておこう」と思い、今に至っています。

 というのも私、(生まれつき能天気だったからかもしれないけど)物覚えが悪くて。
 例えば、映画やドラマをあんなに集中して観てめちゃくちゃ感動したのに、ラストシーンや結末を覚えていないとかそういう感じ。(←これ、あるあるだと思ってたら高校生の頃に母親から「結末忘れるのは無いよ」と言われてなんかショックだったやつです。でも同じ人きっといるはずだよ?)
 あとは、初対面の人の顔は“眼鏡を付けてる・マスクしてる”とか、そういう記号で覚えてるから、次会うときに“顔”というものでその人かどうか判断できない、こっちからは探せないから相手から見つけて声をかけてくれないかなぁと何となく自分の服装の目印をトークに紛れさせておいたり。
 1つの機会が終わるといろいろなことが忘却ルートに乗っちゃうので、以前ご一緒した仲の良かった人でも、名前をその都度確認してからじゃないと呼べなかったり。成人式で小学校・中学校・高校の頃の思い出話をしていて、こっちは全然覚えてないけど、皆記憶力良いな~って感心したり。

 まあ、こういった感じで、知らないうちにいろんなことの大半が忘却ルートにシフトチェンジさせられてしまう記憶装置を頭に仕込んでいるんですが。
 これがおそらく生まれつきのものではなく、防衛機制によるものなのかなと何となく感じていて、それを無意識のうちに作動させてきた今までの自分に「可愛いなぁこいつ」って思う気持ちと、でも今までの社会生活の内で身につけられた能力がこれかよって空しく思う気持ちがあって。

 話がズレましたが、こういう風に忘れていってしまう記憶の中で、まだ私が覚えている部分を(如何せん13年も前の話なので、その後の親の話やテレビ、学校での学習などを通して多少脚色されてしまっているかもしれないけれど)自分のための記憶記録的な感じで残せればと思います。

 多分走り書きになってしまうと思うので、読みにくくても悪しからず。
 以下、記憶が曖昧な部分もあり、自分なりの記憶の記述です。正誤はわからない。
(当時の写真は全然無くて、載せてるものは全部最近撮ったものです)

3・11当時のはなし

地震発生直後

 2011年3月11日当時、私は小学1年生でした。
 あの日はちょうど「6年生を送る会」があって、放課後は、1年生から5年生はいつも通り学年ごとに下校して、6年生だけが校内に残り、お世話になった校舎(特別教室や6学年分の各教室)を綺麗に掃除するという例年通りの学校行事の最中でした。
 私は校庭で「先生、さようなら。皆さん、さようなら」の挨拶を待っていました。
 学年の全員が揃って、その挨拶を告げようとした、まさにその時でした。
 最初は何だかよくわかんなくて。でも先生が多分案内して、私は他の生徒の動きに巻き込まれるように校庭の真ん中あたりに移動して、頭に両手を付けてしゃがみ込みました。しゃがんだ瞬間、「あ、地面が揺れてる」って思いました。
 どこかで「地割れだ!」って叫ぶ声や「電車みたーい」って笑う声。何かが割れる音や校舎に入るヒビ割れも目に入って。
 何もかもが体験したことも見たこともなくて、初めての経験にどんな反応をしたら良いのかわからなかったし、へらへらしてる奴には訳もわからず苛つきました。(それ以前に大きめの地震が来ていたらしいのだけれど私は覚えていないので)
 でもそれ以上に気になったのは、校舎には6年生がいて、さっきの6送会で一緒の縦割り班だった人がいて、登校班の班長がいて(班長大好きだったので)。当然校庭からは2階から上の校舎の中は見えなくて、電気のついていない何もうつらない教室が怖かった。
 ずいぶん長い揺れだったと思う。先生の顔にも状況を判断する余裕が少し出始めていて、ふざける声も怯える声ももう全部出し尽くしたみたいで静かだった。
 揺れが一旦引いた頃、校舎に残っていた6年生と学年の先生たちが一斉に外に出て来た。
 私たちは何人かでグループになって、その1グループにつき1人の先生みたいな感じでまとまって座っていて、走って出てきた6年生が同じく出てきた子と抱き合って崩れたり、泣きながら先生と手をつないでる先輩たちを座ったまま眺めてた。

 揺れが落ち着いて、先生たちは協議に入った。
 子供たちが心配で学校に迎えに来た親御さんが何人か同級生を連れて帰った。親の話を聞いて、「津波が来る」って忙しなく喋ってさっさと帰っていく奴がいた。私は”地震”って言葉は知っていたけど、経験は初めてで(記憶の中では)。避難訓練でしたような机は無かったし、”地割れ”も”津波”も聞いたことが無かった。

 先生たちは、緊急メールを発信したから学校まで親御さんが迎えに来るまで生徒は校庭で待機と決めたらしかった。私はその話にショックを受けた。
 私の家は学校から約2キロあり、小学校低学年までは先生が引率してくれる地点まで歩いて帰って、そこからは祖父の軽トラで迎えに来てもらっていた。祖父母は携帯を持っておらず、緊急メールなんて登録していないし、母屋の固定電話もこの時間じゃもう迎えに家を出ているはずだから、繋がるはずがない。祖父にどうこの状況を知らせればよいのかわからなくて、とても焦っていた。化粧品屋の看板の下で祖父はまだ待っているはずで、私は早くそこまで歩いて帰りたかった。
 母に緊急メールが届いたとして、母は母で生徒の対応をしている(両親が高校教師のため)として迎えに来るのは遅くなりそうだし、祖父と行き違いになったら嫌だなと考えている頃、同級生の半分くらいが帰って行ったあとでちらっと校庭に祖父が姿を見せた。とても安心した。先生に報告してやっと帰れることになった。

 祖父は案の定、軽トラで来ていて、ガタゴトと揺れる分厚いタイヤで古いエンジンの音を吹かしながら帰った。通学路を通って帰る間、崩れたブロック塀や地割れしたアスファルトを何度も見かけた。
 家に着くと、庭に兄と祖母が座っていた。私の家は隣に母屋があって、庭を挟んで蔵が2つ、木造の物置も2つあり、そのどれもが古くからあるものだった。そのうちの1つの物置が倒壊していた。木材や昔使っていた農機具、段ボールなどが詰め込まれていて、そして最近買ったばかりの白い軽自動車が下敷きになって潰れていた。普段軽トラを止めているほうの物置は無事で、「軽自動車で迎えに行ってればなぁ」と祖父は呟いていた。
 兄の腕にはマイキー(愛犬)が抱かれていた。兄は帰宅途中に地震にあったらしい。同じ地区の同級生と一緒に帰っている際に揺れ出し、すぐ隣のブロック塀が崩れ始めたというが、同級生の1人が「道の真ん中に逃げよう」と皆を誘導してくれたという。帰宅し祖母と落ち合うと、自宅でお留守番していたマイキーを連れ出し、余震に備え庭で待機していたらしい。
 まもなく母も帰宅し(高校は入試期間中で生徒は校内立入禁止、母は入試業務中だったらしい)、祖父母は母屋へ、私と兄は自宅へ入った。余震は変わらず続いていて、いつでも逃げられるようにと、そばの窓を網戸で全開に明け、そこへ靴とカバンを待機させ、兄と私はこたつの中で寝た。テレビは絶えずアラーム音を繰り返し、左端にうつされた日本列島は赤く染まっていた。
 この時、初めて”津波”というのを観た。いわきも津波の予測範囲にあったが、予測時間を過ぎ、他の地域の被害を映し出すテレビの前で、私達は避難しなかった。
(私の家は海から近いという認識はあっても、具体的な距離(直線距離で500mほどしか無いというの)を当時の私は知らなかった。小学校から海側の地区は平地(田園)がずっと続いていて2階建て以上の背の高い建物も基本的に見つからない所だったから、今思うと家に帰るのは結構危険な行為だったのかもしれない。
避難先から戻った後、海沿いの道を通ると、波の勢いを物語るようにひしゃげた幹の黒松や、津波で中のえぐられたレストランが忘れ去られたようにひっそりと痛々しい姿のままで残っていた。私の地区は津波は来ていないと思っていた。他の地区のほうが被害が報じられていたから。
今は防風林の黒松は新しく植えられ、地道に背丈を伸ばしつつある。もうすでに私の身長を抜いた。海沿いのレストランやカフェは解体されたものや建て直されたもの、放置されたものと様々だ。震災後、実家のすぐ近くの海は砂浜が無くなった。水面が上昇し、テトラポットが敷き詰められ、かつての倍ほどの高さの防潮堤が新しく建てられ、歩道から海は見えなくなった)

避難

 父も帰ってきた頃かな、母と一緒に母方の祖母の家に向かった。そこは祖母しかいなかったから。そこのテレビで、原発が爆発するのを観た。
 私は原発が何か知らなかったし、どこにあるのかもよくわかっていなかったが、母はこのとき「もうだめかも」と思ったらしい。
 母の弟が到着し、私は従妹と遊んでいた。やがて母と一緒に出発することになり、従妹とバイバイをした。状況の全く掴めていない子供ながらに何となく、「これで最後になるかも」みたいな変な胸騒ぎがした。

 マルト(地元のスーパー)で父と祖父母と落ち合った。母はマルトに買い物に行ったけど、ほとんど何も残っていなかったらしい。多分この頃には双葉のほうは避難指示みたいなものが出ていたのかな(時間の感覚がなくて、なんか常に夜みたいな背景の感覚があって日付の経過がよく覚えてないです)。
 6人でエルグランドに乗り、まずは水戸の親戚の家に向かった。道中、ガソリンスタンドは道路の一車線を占領するほどの大行列だった。水戸には他の親戚も避難して来ていた。もっと逃げなきゃってなったのか、叔母が呼んだからかわからないけど、その後すぐ東京へ避難した。

 東京の叔母さん家に着くと、床に敷かれたラップの上を歩いてまずシャワーを浴びた。お風呂をあがった後、まだ済ませていない祖母のところへ行こうとしたら”放射能が付くからやめときな”みたいな感じで従兄に言われて、「あ、そうか」って私は承知してしまったんだけど、今思えば誰もが無知だった時代だったんだなって。
 東京の生活はまあまあ楽しくて、数か月くらい、ずっと家の中にいて、いとこと遊んでいたし、そこでコロコロコミックというのを兄と初めて買って読んで、その面白さに震えた。そのままいつの間にか春になって、学校が始まるどうこうなんて気にはなったけど気にしないことにしていて、でも実家に置いて来ていたマイキーのことが気になった。原発事故が起こって、でもいわきはそこまで甚大な影響は無いらしいことを受け、まずは母が一人、先に帰った。マイキーのハウスに餌はたくさん置いてきたけれど、こんなに家を空けたことは無くて。どこまで逃げるかとか、どれだけの期間逃げるかとかわかっていなくて、マイキーを置いてきてしまったことを悔やんだ。
 母がいなくなるとやっぱり小学1年生の(2年生にまだなり損ねていて)私は寂しくて、母を追うように家に帰った。放射能のことが父はまだ心配だったらしいけど。

いわきに戻って

 それからは普通に学校生活を送った気がする。小学校が始まったのは夏前くらいかな。同級生はほとんどそのままだった。広野や大熊から何人か転校生が来て、校庭の土の入れ替えのために校庭で遊べない期間がいくらかあって、あと、実家の庭に小さな森みたいなところがあってそこを秘密基地にして木登りしたりブランコ作ったりして遊んでたんだけど、父は放射能があるから遊ぶなって何度か言ったかな。全然遊んでたけど。実家が農家で、農協とかで米の放射線量はかったりしてたのかな。何食べてたかはあんまり覚えてないや。あ、でも学校給食の牛乳が会社が変わって瓶じゃなくパックになっちゃったのはテンサゲだった。
 あとはマスクが配布されたり、放射線教室が学校で開かれたり、福島の復興こども支援企画に何度か参加させてもらったり、学校の検診に甲状腺検査が追加されたり、校庭に放射線量測定機が設置されたり、テレビで天気予報みたいな感じで線量報告があったり。

福島で生きる

 地元に戻って、福島は被災地に、私は被災者になりました。
 小1って基本何もわかってない、あまり意識して生活していない年齢だから、”震災以前”の生活について知らない、震災以後が”普通”な人生だと感じていて。
 それに私の場合は避難したとは言っても親戚の家にかくまってもらったみたいな感じで、あまり赤の他人と接することがなかったから、震災被害とか差別とかの実感があまり無いです。(福島の食材がヤバいみたいな扱いを受けていた頃は、これを食べて育った私は何者なんだよwみたいに何となく複雑な感情にはなった)
 その点で、私は”被災者”という言葉に対して違和感を感じてしまうんです。
 福島の中に限定しても、当時福島県在住だった人、津波の被害を受けた人、地震により家や大切なものを失った人、たまたま福島にいた人、いわきにいた人、原発の近くに住んでいた人、帰宅困難区域にいた人、PTSDを抱えた人、大切な人が巻き込まれた人、などなど、原因が3・11であっても、きりがないほど多くの傷がそこに生まれていて、今もそれに蝕まれている人がいる。
 そんな中、私の傷は傷なのか。度合いを比べても意味がないことはわかっているけれど。私でも実際、福島復興被災地のこども支援企画みたいなやつで参加している大半が中通りの子とかだと興ざめしてしまったことがあったし、震災が題材のドラマなり映画なり舞台では差別やいじめを受けたり、大切な人・ものを亡くしたり、もう家には帰れない人たちが描かれていたりする。
 そういう被害を受けていない私が被災者というグループに同様に属するという状況や、高校卒業までの期間この地で生きてきて経験してきて語り得るものがないという自分に不誠実さを感じてしまって。
 語り得るものっていうのは、いわきの農家としての線量とかの話とか、原発事故が起こった当初それをいわき市民としてどう感じたかとか、津波のあとの海岸沿いのあのレストランやカフェ、防波堤、防風林はどういう経路を辿って今の状態に至ったのかとか。
 それは子供だから、その仕事についていないから、よく認識していなかったから、知識がなくて、覚えていなくて仕方がないっていうのもあるけど、調べれば、人に尋ねれば多少なりともわかるかもしれないってことをそういうことをしないで来たっていうことに後ろめたさを感じるというか。 
 聞きにくい話ではあるし、聞いたところで何にするというわけではないのだけれど、そうすることにきっと意味があると感じていて。
 それの一環としても、今このnoteも書いているのだけれど。
 そういうのを20歳の大人になって、いわきを出てみて思いました。

 こういう思いもあり、高2の頃に「青に飲まれて」という詩を書いています。読んでいただけると幸いです。

おわりに

 私の実家は前述したように海が近く、裏にも大きな川が流れていて、周りは田んぼに囲まれています。高校生の頃、大雨の際に川が溢れるかも(普通の雨のときでも増水が激しいので)と思って避難したのですが、川ではなく田んぼの水が溢れて、家までの道が水没して家の敷地が孤立しているという状況を目の当たりにしました。
 もし次、3・11のような大地震が起こった時、年老いた身体のうまく動かない祖父母がいる母屋が果たしてもう一度あの揺れに耐えてくれるのかわからない状態だし、護岸工事がされたとは言え海・川・用水路に囲まれたこの家で津波からどう逃げるのか、そういった思いもあります。慣れや記憶の風化の問題ではなく、所持している土地の存在や住んでいるという現状、人の年齢・健康状態、金銭的な問題も絡んでくる中で、防災って本当に難しいなって思います。

 13年の時を経て、変えられてしまったことや変わったこと、変わっていないこと、様々なものがあります。
 少しでも多くの方が心から笑っていられる空間が長く広くどこまでも続くことを願っています。


 とりあえず、こんな感じで当時の自分の記憶について書いてみました。
 ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


追伸
 昨日浜イオンに行ったらキャンドルナイトのメッセージを募集していたので書いてきました。
「歳」の漢字、親に言われて書き足したけど、書き直す前の方が正しい字でしたわw
 ぺんぎんナッツさんにグータッチしてもらいました(*´σー`)エヘヘ


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