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21世紀のファウスト文学(ウル・ファウスト試篇)

 「建設的に見えかねない練習曲」という小説を先日公開しました。前篇・後篇と二部構成です。

・前篇(I)

・後編(II)

『薄暗い鍵盤組曲』という長編小説の二章目です。
 しかし二章目の「建設的に見えかねない練習曲」単独でも一つの作品です。蛇足になりますが浅間香織の処女作になります。

『薄暗い鍵盤組曲』自体は
・音楽家小説
・神経系文学
・学芸エッセイ
・平成アーカイブズ
・人間の尊厳に関するメモ
・あるテーマに関する叙事詩
として書いていますが、「練習曲」を一作品として独立させるのは「学芸エッセイ」と「尊厳メモ」として読んだ場合です。

「学芸エッセイ」というのは『組曲』が人文学、自然科学、数学、音楽の溶け合った言語空間を作ろうとしたことで生じた側面です。当然、学術的に異分野を接合しようとすれば議論上の手続きが様々に要求されるわけですが、『組曲』は「文芸」なので学術ではなく芸術であり、異分野の人同士を会話させるということはできるわけです。

「人間の尊厳に関するメモ」というのは、所詮は「メモ」であって、「尊厳」について大々的に扱うような著作ではないという及び腰な姿勢の表れでもあるのですが、『組曲』の中で尊厳が問題になる人物の一人が、断片的にしか描かれないからです。しかしその人の存在は「練習曲」の中にも微かに描かれています。
 その存在が希薄で気づかれていないほど、その人物の尊厳が保全されていないというわけです(そのようなことをするからには、勿論『組曲』は虚構の作り話ですし、その人物にモデルはいません)。

 「練習曲」は物理学に詳しい秋山篠流しのると、音楽に詳しい神林が互いの分野を垣間見、一律月代いちりつつきよが聞き役として居合わせることで二人だけの世界に入らず、他の人間も聞けるような会話プロトコルに落ち着いている(作者の知能の限界に引き留めている)章なのですが、要するに一律は二人(と作者)に配慮された存在で、尊厳は十分確保されているわけです。そして三人の間では数学の影が顕れたり消えたりを繰り返します。例えば前篇に次のような箇所があります。

月代は目を伏せた。「……去年、……色々、数学のことを教えてもらいましたから。………私に学習のための素養があるとすれば、…………そのおかげです」
 篠流は目線を対岸の机に止めたまま、手前で開かれたままの書物を、それが閉じるのも厭うことなく凡そ自然に除け動かしていた。

#2 2. 建設的に見えかねない練習曲(Ⅰ)(Die Etüde, welche schine's be - pixiv

月代が数学を教わった話をして、秋山が手元から雑に除けたのは、前篇の冒頭で触れられているように数学書です。この月代に教えた人物というのが、後篇で彼女の口から、「その時に私に数学を教えてくれていた人」として言及されます。

 「建設的に見えかねない練習曲」で描いたのは不在の数学者で、その人が話題であるにもかかわらず名前が呼ばれないなど、あからさまに尊厳が損なわれているわけです。上の描写に見るように、その人の話をすると秋山の機嫌も変わってしまうので、月代も名前を出せません。かといって無かったことにしておくこともできないような存在だったわけです。
 「建設的に見えかねない」というのは、三人の会話が中身が有るようで大して無い会話という意味でもありますが、同時に「不在の数学者の尊厳」が「つくられてはいるが微か(幽か)なもの」という意味でもあります。
 前篇の終盤で、月代は「自数の逆数の和」、調和級数について口にし、後篇の中盤では彼女のノートの「一から順に自然数を延々と足してある」記述、「欺瞞」の数式の話がされますが、神林と月代の知らないところで、秋山と不在の数学者はリーマンのゼータ関数の話をしていたのでした。前者はs=1の話であり、後者はs=-1をめぐる話です。

 「秋山と不在の数学者は[…]話をしていた」と書きました。居ないのに話すというのは、実はファンタジーミステリでしたというわけではありません。その人が不在なのに居るのは、作者の浅間香織にとって文学的亡霊だからです。

篠流は部屋全体に目を向けながら言った。[…]そこに在る者は、認知の有無を問わず、開けられていた窓を風が静かに通過していたことの影響下にあった。

#2 2. 建設的に見えかねない練習曲(Ⅰ)(Die Etüde, welche schine's be - pixiv

私にとっても亡霊なわけですが、秋山にとっても亡霊みたいなものです。

 つまるところ不在の数学者という亡霊は、秋山と因縁のある故人で、リーマンのゼータ関数……というよりは素数分布の法則に取り憑かれた21世紀のファウスト(ヒェン)です。
 私にとって「建設的に見えかねない練習曲」は、ファウスト文学の若い願望から生み落ちた「ウル・ファウスト」でした。『ファウスト』はゲーテも若い頃に願ってから、老いるまで書き切れなかった作です。若者が書けてしまうものではないのです。
 「練習曲」は、私が老いて「ファウストヒェン」を書いたなら「建設的だった」と言えるでしょうし、書き損じたなら「建設的ではなかった」ということになります。だから「練習曲」(Die Etüde)の関係詞節も接続法二式(schiene)なのです。

ということで最後にちゃっかりと「練習曲」のリンクを再掲しておきます。


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