戦争とうんこ

友人と、「300」(スリーハンドレット)という映画を家で観た。紀元前500年から始まるペルシア戦争における、紀元前480年の「テルモピュライの戦い」を描いた映画だった。ギリシャに侵攻してきたペルシア軍100万を、スパルタの精鋭300を中心としたギリシャ軍の先遣隊が、テルモピュライという海と山に挟まれた、幅わずか十五メートル程しかない細い街道で迎え撃ち、三日の間ペルシア軍の侵攻を阻み、最終的にスパルタの精鋭300は全滅するのだが、のちの世まで英雄として語り継がれたという、本当にあった話である。

スパルタの精鋭300は、一人一人が一騎当千とも言うべきとてつもない強さで、ペルシアの兵は全く歯が立たたない。スパルタ兵超強い。ガチならスパルタに敵なし。スパルタ万歳。この上もなくヒーロー気分が味わえて、実に爽快な映画だった。

しかし、どこかもう一人の自分が、ちょっとあのスパルタ兵の鍛え上げられた肉体美に、反感を持ったことも確かである。スパルタ兵の六つに割れた見事な腹筋。スパルタの重装歩兵って、上半身剥き出しだったっけ、鎧を着ていた筈では、と、そこはアクション活劇であるのに、まんまるな腹を持つ中年のメタボリック兵である自分は、揚げ足の一つもとりたくなったのであった。

そもそも、ペルシアの軍はアホの集団か、と説教したい。
スパルタの精鋭達は、100万の大軍にたった300で戦いを挑んできているわけであるから、そもそもその戦いに勝つことを目的としているわけではないのである。
それじゃあ命までかけて何をしようとしているのかと考えると、いわゆる殉教者精神とか、特攻隊精神とか、武士道精神とかいう、そんなものとしてのちの世では表れてくるもの、生きることにではなく、死ぬことに意味を見出しているやつら、そんな美学にとりつかれているやつらである。

それに加えて、100万相手に300で戦おうとする奴らは、自分達はエリートだという自負を持っているだろうし、そのエリートの自分が命を懸けるのだから、何かしらの力をしめせるなんてことを思っていて、だからそういうやつらは、そのエリートである自分の最後の死に花を、最後に華々しく、カッコよく死のうとなんて思っているものだ。

そんな、死と引き換えに、後世に語り継がれる名誉を手に入れようとしているやつや、自らの集団の自尊心を煽って、人々を奮い立たせようとしているやつと、まともに戦うこと程バカらしいことはないのではないだろうか。

戦いには負けても、勝負には勝とうとしている人間を、相手にする必要がどこにあるというのだろう。そんな人間は無視するのに限るのではないか。

それなのにペルシアは、そんな美学野郎たちを、真正面から相手にする。映画では、ペルシアの人間は、その姿がどうも変態ぽくて、一筋縄ではいかないやつらのようで、なかなか見どころのあるやつらだと思ったのだが、案外派手で奇抜な格好をしているやつほど、中身は凡庸なのかもしれない。

弱者の必死の抵抗を、嘲笑うかのように強大な力でねじ伏せる、というのは、誰もが持つ心理、欲望であるから、そこは一筋縄ではいかない変態振りを、変態の誇りを見せて欲しかった。

案の定、スパルタ素晴らしい、オレら最高、オレら無茶苦茶カッコイイという舞台、ナルシズム満開のカラオケ大会に付き合ってしまい、相手の思うつぼ。死と同時に300のスパルタ兵は英雄として語り継がれ、残った敵の団結は鋼のように強固になるという。それに比べてペルシアは、割に合わない損害を受けたうえに、そこから更に道のりは困難になってしまうという、もうどうしようもない状態になってしまうのだった。

そもそも、100万のペルシア軍というが、それは本当になのか、と思う。100万といったら、わたしが出てきた広島市とほぼ同じ人数である。そんなにたくさんの人間たちの食料はどうしたのだ、と思う。さらに食べたらうんこが出る。うんこはいったいどうしたのだ。
広島市は下水道が発達しているので、うんこは目に付かない場所に見事に処理されていくのであるが、大昔のギリシア辺りで、しかも町ではなくて野戦で、うんこはどうしたのだ。一日で100万うんこ。二日で200万うんこである。三日間ギリシアの先遣隊に食い止められたのだから、300万うんこは同じ場所で、ということになる。

小便だって百万だったら川みたいになるのではないか。うんこだったらもう巨大な沼である。100万人のうんこ沼。絶対にはまりたくはない。はまったら二度と出てこれそうにない、すべてがうんこで満たされた底なしの沼である。とてつもなく巨大な穴を掘って、百万人が順々にうんこをしていく。ガスなども発生しそうで、それはとてつもない臭いもしそうで、誤って落ちたりした奴も、何人もいたのではないか。戦いがはじまる前からもう地獄絵図である。

そこまで考えて、わたしは一つの作戦を思いついた。何も、真正面からスパルタの精鋭と戦う必要はないのである。あんなマッチョバカなど、100万のうんこで生き埋めにしてやればよかったのだ。
海と山に挟まれた細い街道に陣をはったスパルタ精鋭300を中心とするギリシア軍とまともに戦ったおかげで、ペルシア軍には何万という死者が出たらしい。つまり何万もの人生が失われたのだ。

スパルタの精鋭達は、その細い街道で戦うしか道はないわけであるから、その細い街道から動けないわけである。広い場所に出てきたら100万人に囲まれて、一瞬で形がつく。ということは、向こうからは攻めてこられないというわけである。

だから、海と山に挟まれた街道というのを、100万のうんこで埋めた立てて真っ平らにしてしまえばいいのではないだろうか。そこに留まればうんこで生き埋め、退却すれば向こうの思惑は丸潰れ、平らにしたうんこロードの上を悠々と進軍すればいい。街道から出て攻めてくれば、一瞬で形がつく。

大きな金属製の盾と長い槍を見事に使いこなし、一騎当千の精鋭達も、槍や弓矢や刀や人間の肉体は防ぎきるが、それらは固い固体である。大きな釜でグラグラと煮立たせたうんこが、空から雨のように降ってくる。液状になったものを、その自慢の屈強なからだで防げるだろうか。

細い街道に向けて、海と山と自陣から、煮えたぎったうんこが入った容器を、投石器のようなものでどんどんと投げ込んで行く。原料は100万の兵の糞なので無限にある。時間が経てば経つほど、うんこクラスター爆弾は増えていく。からだにかかったら大やけど、何も出来ず熱いうんこにのた打ち回るスパルタの精鋭。スパルタの肉体と精神など、100万のうんこの前では無力である。誇りも尊厳も自尊心もあったものではない。はじめは液状でも、うんこはどんどんと積み重なって固まっていく。うんこで生き埋めである。うんこによって、戦えもせずカッコ悪く生き埋めになった人間達を、後世まで英雄として語り継ぐだろうか。

人生をかけて鍛え上げたものが、まったく発揮も出来ず、その精神と誇りそのものが無価値であると思い知らせるように戦う。これでこそ、後の戦いも有利に進められる。

戦うとまったく自尊心が奪われるような目に合うとわかっても、向かってこられるか、見ものである。勇ましさや美学を誇る人間の多くは、美しく死ぬことによって永遠に生きたいという欲望を持っていそうだが、それさえも奪われて、勇ましくいられるか、勇ましさや美学とは何なのか、醜く生きる中年のメタボリック兵のひとりは、そんなことを思ってしまった。

自分で思いついておきながら、うんこはとても優秀な兵器であるような気がする。煮立たせないうんこも投げ込んだら、からだに傷があれば破傷風になるだろうし、口に入れば虫が腹にわくかもしれない。うんこはミサイル兵器でありながら、細菌兵器でもあり、生物兵器でもある。しかし、使用した後は他のそのような兵器と違って自然にあまり害を与えない。うんこは肥料でもある。

我ながら凄い思いつきであるかもしれない。あの時代に生まれていたら、名将として語り継がれたのだろうか。でも絶対そこまで行かないうちに、何かやらかして挫折するか、後悔塗れで死ぬのが、わたしの人生というか、輪廻というか、あまねく時空に存在する、わたしの運命のような気もするのだけど。

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