見出し画像

ふらふらと土地の記憶の夢小路

私は散歩が好きでよく散歩をします。とくに知らない町など、何があるのかと辺りをキョロキョロしながら、あっちへ行ったりこっちへ行ったりと、足の赴くままにいろんな小路に入っていくので、ほとんど迷子のような状態でウロウロしています。

思えば私は昔から、どんなところでも興味の赴くままにどんどん歩いて進んで行ってしまう子どもでした。ちょっとでも目を離すとふらっとどこかへ行ってしまうので、しょっちゅう迷子になっていたのを憶えています。

なので、歩くたびにピヨピヨと鳴くピヨピヨサンダルを親に履かされていましたが、それで迷子癖が無くなるわけでもないので、結局あっちへピヨピヨ、こっちへピヨピヨと、ピヨピヨ音を立てながら迷子になるのが私の常でした。

さすがにこの年になってピヨピヨサンダルを履いてはいませんが、今でも何気なく町を歩いていて気になる小路を見つけると、急にソワソワしてふらっと入っていってしまうのです。

そして私は、自分のそんな素行を「ちょっと迷子になる」と呼んでひそかに愉しんでもいるのです。

小路というのは、いろんな匂いがあります。入り込んだ瞬間に表通りとはまったく違った異空間に迷い込んだような、そんな粘度の空気が鼻孔に入り込んできます。

それは物理的な匂いというだけでなく、さまざまな暮らしの気配のようなものでもあります。

小路にはお店の裏口があり、家の勝手口があります。人々の働きがあり、遊びがあり、生活があります。表通りに面した玄関と違って、飾らない人間臭さがそこかしこにあふれているのです。

それはいわば、ショッピングモールよりは商店街であり、ウォーターフロントよりは漁港であり、レストラン街よりは横丁です。

都市開発という言葉を聞くと、小綺麗なビルやショップが並んで、明るくて華やかで、光と風が舞い踊るような、そんなイメージがふと浮かんできます。

すべてが緻密な計算の下に配置され、何らかの狙いを持った意味と価値とで充填され、無駄なものや異質なものなど入り込む余地の無い、隅々まで演出の行き届いた、そんな空間。

それはそれで確かにすごいことですが、自分はそういうところに身を置くと、そこに自分という人間がいることがどうにも不自然に感じられてならず、長く滞在する内にゆっくりとくたびれてきてしまうような、そんな感じがしてしまうのです。

頭は「綺麗だな~」などと考えたりもしているのですが、からだはどこか警戒して、緊張して、何かに抗って生命力が消耗していくような、そんな感じがするのです。

表通りや都市開発が、計画して作っていくものなら、小路や集落は、自然と出来上がっていくものです。

小路は、そこに住む人々が歩いたり、休んだり、噂話をしたり、植木を置いたり、物干し竿を立て掛けたりして、その暮らしの痕跡が塗り重ねられるようにして出来たものであり、そしてその痕跡がまた人々の新たな動線を導いて、その結果おのずから立ち現れてくる集合体です。

そこには個人の意志や意図などを超えた、群体としての人々と環境との対話の全履歴が焼き付いていて、そうして出来た道を歩くとき、私はその道に刻み込まれた偶然と必然と、そして人の営みのちょうど良い塩梅というものを感じてならないのです。

小路や集落には、そこに差し招かれたすべての人の営みがレイヤーのように重なり合っています。

それはつまり、人々の「本能」と「気遣い」と「工夫」と「我が儘」と「遠慮」と「洒落」と「妥協」と「意地悪」と「祈り」と「言い訳」と「見栄」と「遊び」と…そんなモノたちすべてが重なり合った地層でありミルフィーユです。

それはその土地の記憶であり、歴史であり、精神であるでしょう。それはまた「地霊(ゲニウス・ロキ)」と呼ばれるものにもつながります。

そんな土地の記憶が、そこに住む人々の振る舞いへと染み込み、人々を突き動かし、またその記憶が土地へと還元されるように焼き付いてゆく。

そんなところへふらりと足を踏み込んだ旅人は、何も考えずに歩くうちに、なかば夢心地な「変性意識状態」となって土地の記憶の中へと誘われ、かつて誰かの歩いた跡をふらふらと辿ってゆくことになるのです。

それはもはや私が歩いているのではなく、土地の記憶だとか地霊だとか、そんなものが私を突き動かしているのかも知れません。

「私はいったいどこへ連れて行かれるのか…」と、そんなことをぼんやり思いながら、ふらふらと導かれるように歩みを進めるひとときが愛おしくてたまらずに、私は今日もふらりと小路へ足を向けるのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?