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夢見のダンス

私たちは普段さまざまにからだを動かしていますが、改めて考えてみると、ほとんどのからだの動きについて私たちは何も知りません。

「指一本動かすこと」についてすら、どのような仕組みで、どのようにその機能が果たされているのか、私たちは何も知りません。

スマホがいったいどんな仕組みで動いているのか、多くの人が何の知識も無いままに使っているように、からだについても私たちはほとんど何も知らないのです。

私たちは、成長する過程で身に付けた「何となくこうすると指が動く」というきわめて感覚的で習慣的な身振りによって、自身のからだを動かしているに過ぎないのです。

以前の記事「複雑系な私たち」でも書きましたが、正確に考えようとすると、私たちの「意図」と「行為」のあいだには果てしなく無数の分岐線があって、いったいどうやってその二つが結ばれたのか理解することは、ほとんど複雑系の宇宙を泳ぎ切るような話なのです。

そう考えると、私たちの一挙手一投足は絶えず小さな宇宙の神秘が繰り返されているようなもので、そんな風に空想してみると、ただ散歩しているだけで、何だか凄い奇跡を起こしているような気になってきますね。

思い通りに歩けている奇跡! 凄い!

私たちは普段いろいろ考えて意識して動いているつもりではありますが、いつだって無意識のままに動く「活元運動」をしているのですよね。(活元運動については以前の記事「活元運動のススメ」をどうぞ)

私たちはいつも、もっともらしい理屈を付けて、さも合理的な選択をして、自分の思ったとおりに動いているかのように自ら暗示を掛けていますが、みんな誰だって、やりたいことしかやらないし、見たいことしか見ないし、聞きたいことしか聞かないし、知りたいことしか知らないし、考えたいことしか考えていないのです。

まったく困ってしまうくらい、私たちってそうなのです。
身も蓋もありませんが、でも本当にみんなそうなのです。

でもまた同時に、私たちの信じている「主体性」なんて本当に覚束なくって、完璧に自分で選択し決断を下したように思いながらも、そこには多くの環境要因や周囲の思惑や切羽詰まった事情によって、そうさせられていたりするのです。

私たちはみな、他人の目とか、腸内環境とか、気温とか、血糖値とか、銀行口座の残高とか、寄生虫とか、家族の何気ない一言とか、そんなものたちによって揺さぶられながら、この世界を生きているのです。

そんなことを考えると「いったい『私』って何だろう?」と途方に暮れてしまいますが、そういうこともぜーんぶひっくるめた結節点が「私」なのだと思うのです。

「私」という生き物は、自分の欲望にしか従わないくせに、周囲とつながりあって感応し交歓し合ってダンスしているのです。

「みんなのために」と言いながら自分のやりたいことをやり、「自分がやりたいから」と言いながら世のために動き、「何をするべきか」ということを常に考えているくせに、行動するときにはちっとも考えていないで、決断しているようで決断させられていて、大いに矛盾して、そして開き直って生きている。

でもいいんです。それが自然なんだと思います。

私たちは夢の中では平然と時間も空間も飛び越え、主客が入れ替わったりもしますが、じつは目覚めているときにも、それと似たようなことは起こっているのです。

古い神話や物語などを読んでいると、古代人はそのことを当たり前のこととして生きていたように思えますが、現代人である私たちはもはやそのように考えることが困難です。

でも実際には、私たちはみな夢を見続けているのです。周囲と交歓しながら「夢見のダンス」を踊り続けて、そこから「私の物語」というものを紡ぎ出しているのです。

人生は活元運動。どんな動きが出てきて、どんな結果になるのか、そんなことは分かりません。私たちにできることは、それを味わい、楽しむことです。人生、大いに驚き、そして楽しみましょう。

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