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建国記念の日に気がついた自己矛盾

今日、日本は建国記念の日。初代天皇である神武天皇が橿原宮で即位し、これをもって、日本が建国されたとされる日である。
その神武天皇の即位から約2700年に渡って続いているとされている我が国日本、そして天皇家。世界最古の国であり、126代に渡り万世一系で続いてきた世界最長の皇室。歴史的実証のない神話の時代を差し引いたとしても単一王朝国家として1400年、100代続いている国。
「だから日本は他の国より優れた国なんだ!特別な国なんだ!」などと言いたい訳ではないが、まぁ特殊な国、special というよりunique な国ではあると思う。
私が現在住んでいるイギリスはというと、建国の歴史は約1000年で、王室もあるが日本のように万世一系で続いてきたわけではなく、フランス系、ドイツ系など王朝が何度も入れ替わっている。
同じように見えても、日本の皇室と英国の王室とはずいぶんその成り立ちが異なっているのだ。

で、今回、私がなぜ日本の皇室やイギリス王室について書いているかというと、今日が建国記念の日だからというのはもちろんなんだけれど、先日から続いている“日本らしさとは何か”という問いを考えるにあたり、日本の皇室のあり方が大きなポイントになると感じたからである。

私は先日のnoteにおいて、「たとえ外国出身で遺伝子的に日本人でなくとも、日本国籍を取得し、日本語を唯一の言語として話し、自らのアイデンティティを日本人として捉えている椎野カロリーナさんが、“日本人”としてミス日本コンテストで優勝したことは受け入れられるべき」といった主旨のことを書いた。ニュースを見て、背景を調べて、私は素直にそう感じた。しかし、天皇家のことを考えたときに、その自分の考えに疑問を抱いたのだった。

それは、もし、仮に椎野カロリーナさんが悠仁親王と結婚するとなった場合(あくまで例え話)には、私はそれを素直に受け止められないだろう、ということに気づいてしまったのだ。
たとえ日本国籍を得て、本人のアイデンティティが日本人であったとしても、やはり彼女に流れる血はウクライナの血であり、日本の血ではなく、それが天皇家の万世一系の中に流れるということは、私の中の理性的な部分ではなく、生理的、本能的な部分において受け入れ難いということだ。
一般人としてなら受け入れられるが、天皇家に関わるとなると拒否反応を起こしてしまう自分自身のその感覚に、ものすごく“日本的”なものを感じた。

万世一系の天皇、とは言いつつも、そもそもが渡来系民族だとか、明治維新で暗殺および入れ替えられたとか、様々な説があるし、本当のところはよくわからない。けれど、そうだということ(万世一系)にされているし、例え確かな証拠がなかろうとも、まぁなんとなくそういうものであろう、と私も信じている。
この“なんとなくそういうもの”という感覚が、私の意思決定や判断基準に、とても大きな影響を及ぼしている。明確な根拠よりも、よっぽど重要なものだと感じている。しかも、当たり前に“そういうもの”としてきたから、そのことに今まで気づくことすらなかったのだ。
皇室の人たちは、私たちと同じ人間であり、神様ではない。例えその祖先が神であったとされていても、今を生きておられる上皇陛下、天皇陛下が人間であることにはなんの疑いも抱いていない。けれど、やはり何かが特別なのだ。何が、と問われれば答えられない。けれど、間違いなく“特別な存在”だと感じている。きっとそれは、私だけでなく多くの日本人がそのように感じているのではないかと思う。
天皇という存在、システム、それは生まれたときから当たり前にそこにあり、彼らは私にとっては当たり前に“特別”なのだ。
だから、一般人では受け入れられることも、天皇家に関わるとなるならば、受け止め方が変わってしまう。そしてそのことに対して、確たる理由を説明できない。ただ“なんとなく”、ダメなものはダメなのだ。

私の言っていることが矛盾でしかないことは、自分でもよくわかっている。けれど、どうにも処理できないこの矛盾、アンビバレントさが、私の中の“日本らしさ”の答えのひとつになりうるのかもしれない、と思った。